ファースト・コンタクト
エルベーナからラルクスへ、歩き続けて1週間が経過した。
この間、誰とも会っていない。
アリオンが2回襲ってきただけで、それも瞬殺だった。
左手に森、右手に川。
変わり映えのしない景色と、ただ歩き続けるという行動に、俺は多少の退屈を感じはじめていた。
エルベーナには馬がいたため、半日程乗馬に挑戦したのだが、危うく死にかけた。
激しく暴れた馬の後ろ蹴りは、氷の防御が間に合わなければ確実に死んでいただろう。
はっきり言って、アリオンと戦うよりよっぽど危なかった。
川を滑って行くのもなしだ。
水中の魔物を恐れているわけではなく、もっと深刻な理由で。
水を司る力。
エルベーナで、俺はこの力の代償が何かを理解した。
カロリーだ。
ダイエットできるな……とか、そういうレベルではない。
エルベーナ滞在中に、俺は村の食料をほぼ食い尽くしている。
力の使用後は、ひどい空腹感に襲われた。
最初は何が起こったのかわからず、あまりの空腹に嘔吐してしまったほどだ。
普段俺が食べていた量の10倍近く。
こちらの世界の1回の食事量はかなり多いが、それでも4~5人前。
それが、俺に必要な食事の量だ。
町の中ではまだしも、旅の中でそれだけの食料を確保するのは、現段階では至難の業だ。
何かの理由で旅程が長引けば、冗談抜きで餓死の危険がある。
余計な力の消費は、避けなければならなかった。
何より、この世界ではサバイバルと戦争が日常なのだ。
ただの工場労働者だった俺にとって、基礎体力の向上は喫緊の課題と言える。
色々な理由から、ラルクスまでの移動手段は、徒歩に限定せざるを得なかった。
道を歩く、今の俺の服装は、この世界にあわせたものとなっている。
……はずだ。
悔いは全くないが、俺はエルベーナで120人以上を殺害している。
この世界の法体系はよくわからないが、何のお咎めもないはずがない。
むしろ、その方がはるかに怖い。
日本であれば確実に死刑だ。
エルベーナでの出来事はいずれ発覚する。
水害に見せかけてできる限りの証拠隠滅は図ったが、この世界に千里眼や記憶を読み取る類の能力者がいないとは限らない。
そういう魔法や霊術があるかも知れない分、むしろこの世界の方がその可能性は高い。
エダに出かけていたという2人の村民も、帰ってくればエルベーナが消滅していることに気がつくだろう。
俺が死ぬことは別に構わない。
祖父母には申し訳ないが、元の世界に帰れなくても構わない。
この世界で幸せになろうとも思っていない。
だが、朱美をこんな目にあわせた召喚魔法については、この世界から失くさねばならない。
方法はわからないし、最悪はこの世界の魔法使いを全て殺さなければならないのかもしれない。
それでも、やらなければならない。
許すことが、できない。
結局は無駄な努力に終わるのかもしれないが、いずれにせよそのためには時間が必要だった。
さしあたって、極端に不自然な俺の元の服装はまずい。
よって俺は、着ていた工場の作業着や財布、靴などは全て村で燃やしてきていた。
今の俺は比較的薄手の草色のシャツとクリーム色のズボンの上から、皮の胸鎧と小手をつけ、さらにフードがついた、墨色のマントを羽織っている。
当然、下着もこちらの世界のものを着用している。
案外、悪くない。
足は皮と木でできたブーツで包み、腰には鞘付きの大ぶりなナイフを皮のベルトでつりさげていた。
全て、エルベーナで拝借したものなのだが、虫対策も兼ねた煮沸消毒の上、充分に洗われた衣服は清潔な香りを放っている。
空の樽を洗った後に衣服を放り込み、熱湯を発生。
そのまま洗濯機を思い出しながら水流を操作し、濁ってきたらお湯だけを浮かせて外に捨てる。
お湯の発生、水流操作、脱水を2度繰り返して、最後に完全に水分を飛ばす。
この間、俺は樽には一切手を触れずに5m程離れたテーブルで黒パンとチーズをかじっていた。
この力は洗濯にも便利だ。
元の世界だったなら、クリーニング屋を開業できたかもしれない。
背中に背負った大きな布袋の中は予備の上着と食料、お金だ。
黒パンと干し肉、干した果物と塩。
川に目をやれば魚は簡単にゲットできるし、水球に閉じ込めたまま茹でることもできるのでタンパク質は足りているのだが、野菜や果物が足りない。
森には野草や木の実も見えるのだが、食用かどうかがわからないため手を出せずにいた。
正直にいえば黒パンも、あまりのヘビーローテーションに若干嫌気がさしてきている。
お金はエルベーナにあった貨幣を可能な限り持ってきた。
金貨が10枚、銀貨(大)5枚、銀貨(小)203枚、銅貨(大)46枚、銅貨(小)344枚。
(大)といってもせいぜい500円玉程度の大きさなのだが、硬貨だけで600枚以上を持っているわけでかなりの重量になっている。
これでどのくらい暮らせるのかは全くわからないが、金貨を出して食事も宿泊もできないことはないだろう。
と、信じている。
力の分の予備も見て4週間分の食料 (しかもほぼ干物)と、硬貨600枚と、厚手の上着。
身につけているもの以外の荷物はそれだけなのだが、それでもかなりの重量である。
しかし、普通の人間ならばこれに加えて水が必要なのだ。
今回は隣に川が流れているが、これは運がいいだけだろう。
確か、人間は最低でも1日に2リットル程度の水分が必要だったはずだ。
2リットルを2週間、つまり2キログラム×14日で28キロである。
これは、持ち歩ける重量なのか。
この世界の人は、どうやって旅をしているのか。
やはり馬車なのだろうか。
いつもの癖でどうでもいいことに想いを馳せている、そのときだった。
前方200メートル先の異常事態を、俺は感知する。
……怒号と悲鳴、そして獣の咆哮が聞こえてきた。
足を止め、目の前に氷のレンズを複数枚作りだし、組み合わせる。
周りを手で囲えば、即席の双眼鏡のでき上がりだ。
さらに、領域内の空気中水蒸気を増大させ、感知能力を引き上げる。
俺が初日の夜に湖の中で気がついたのは、自分を中心に半径約200メートル内に存在する水を感知できることだった。
生物や障害物のある部分の水は感知できないためその部分には空白ができ、結果としてこの領域内の全てのものの存在と配置を、まるで白黒が反転した写真のネガを見るように、俺は知覚することができる。
そして、今や俺はこの感知能力を地上でも発揮できるようになっていた。
大気中には、微量ではあるが水分も含まれている。
これを感知することで、水中には劣るものの同様の知覚が可能なのである。
さらに鮮明な感知が必要な場合は、今のように空気中の水蒸気を操作すればよい。
霧を発生させれば、ほぼ水中と変わらない精度で一帯の状況を知覚できる上、敵の視界を奪うこともできるが、今その必要はない。
人間、魔物、地形。
たとえ建物の外と中であろうが、森で視界がふさがれていようが、俺は全てを知覚することができる。
寝ている間でも無意識で制御可能なこの感知能力は、俺に不意打ちをすることはおろか、敵が隠れることも逃げることも許さない。
半径200メートルの、全存在の知覚。
【水覚】。
それは個人でエルベーナという村を完全に制圧し得た、俺の絶対的なアドバンテージだ。
レンズを通した視覚情報と、感知で得られた知覚内容を総合すると、前方では武装した人間と大型の魔物の戦闘が行われている。
人間が4人、大型の魔物が3体。
4人が乗っていたのであろう、ホロ付きの馬車は横転し、木製の車輪が割れてしまっている。
馬車をひいていた馬は、首から上がなくなっていた。
4人の人間の内、2人の男は金属製の鎧を着ており、魔物に剣を突き付けて牽制している。
ただ、相対している魔物に対してその手に握られた両刃剣はあまりに頼りない。
顔にはべったりと恐怖と絶望が張り付いており、手前側の男に至っては泣きながら、失禁していた。
2人の背中側には、同じように鎧を着こんだ1人の男が倒れ、その男の横で若い女性、いや少女が必死に声をかけている。
倒れている男には左腕がない。
決して薄くはない金属の小手ごと咬みちぎられ、男はショックで激しく震えている。
傷口からはおびただしい量の出血が続いていた。
あと少しほうっておけば、確実に死ぬだろう。
その男に声をかけ続ける少女。
4人の中で最もしっかりしているのは、彼女のようだ。
武器は携行しておらず、鎧姿でもない。
クリーム色のローブと帽子には、緑と赤の線が規則的な模様として染め抜かれている。
長い黒髪は後ろで束ねられ、その顔には焦りこそあれ、恐慌状態には陥っていないように見える。
たいしたポニーテールだ。
とは言え、前衛があの状態な以上、彼女の寿命も決して長くはもたないだろう。
相手が悪すぎる。
男たちの前に立ちふさがるのは、まるでライオンのような大型の肉食獣だった。
小さい2体でも頭から尻までの全長で5メートル、大きい1体はさらにそれより大きく、7メートル近い。
全身はしなやかな筋肉で包まれ、体は真っ黒で、尻尾はない。
さらに、頭から肩、前足の中程にかけてが、金属質の殻で覆われている。
丸い頭部には耳も目も鼻も見当たらず、150度近く開閉する巨大な口だけがある。
上下に並ぶ巨大な牙は、俺が腰に下げているナイフよりも太く、長く、そして鋭かった。
あれに剣で勝つのは絶対に無理だろう。
少なくとも俺には無理だ。
傷がつけられるかも怪しい。
アリオンとは比べものにならない程、強そうで禍々しい生き物がそこにいる。
俺は、この世界がどれほど危険なのかを、あらためて理解した。
一方、俺はこの状況を喜んでもいた。
エルベーナ以外で、はじめて出会うこの世界の人々。
この世界での「常識」を知らない俺にとっては、案内役となってくれる人間の確保は急務だ。
シチュエーションとしては完璧で、できればこのまま穏便に、そして良好な関係を築いておきたい。
轟音と共に、一番大きなライオンが吹き飛ぶ!
その下半身はなく、道には粉々になった赤い血肉が花火のように散らばっていた。
突然の状況に、2人の剣士も残りのライオンも状況を理解できず、赤い肉片と返り血を浴びながら、ただ体を硬直させる。
突然の爆発に驚いたものの、その後すぐに俺の方を見たのはあの少女だけだった。
俺は現場から150メートルの地点、道の中央で、右腕を前に出し、掌をライオンに向けて広げていた。
初弾が狙い通りに命中したのを確認し、すぐに第2射の準備に取り掛かる。
掌の前に氷の粒を生成、わずか1秒で直径10センチ、長さ20センチの先の丸まった円柱、つまり砲弾になるまで氷の粒を巨大化させる。
その重量、約1.5キログラム。
小さいライオンのうち、手前側にいる方の胴体を狙う。
発射。
次の瞬間、時速数百キロのスピードで氷塊は着弾!
ライオンの全長は半分になり、黒と赤の破片をばらまきながら吹き飛んだ。
【氷弾】、すなわち氷の銃弾。
エルベーナで乱射した、この能力の攻撃力は高い。
しかし結局は氷である。
生身の生物を貫通はするが、石の壁や、ましてや金属の鎧に穴は開けられずに砕けてしまう。
しかし俺が生成できるのは水によるものだけ、金属の弾丸は作り出せない。
全身甲冑の相手に、この能力は無意味なのか。
一瞬だけ悩んだのだが、解決方法は非常に単純なものだった。
重くすればいい。
水の比重を変えることは不可能なため、どうしても銃弾が巨大化してしまうのだが、ある程度の重量とそして速度があれば、弾丸自体の硬度はその威力に関係がなくなるのだ。
視線で狙いをつければ、かわされない限りはその通りに着弾し、粉々に引きちぎる。
それはもはや銃弾ではなく、砲弾。
【氷撃砲】。
その対戦車砲に匹敵する暴力の前で、個人の防御や装甲は全く意味をなさない。
2体目の上半身が地面にたたきつけられてようやく、3体目のライオンは動き出した。
全身をたわませ。
森へ逃げ込む。
……逃げたか。
3発目の【氷撃砲】を停止し、砲弾を分解して空気中に散らす。
全神経は【水覚】に集中させ、ライオンの再接近に備えながら、馬車の方へと近づいていく。
これでライオンがリベンジを考えても、200メートル以内に近付けばすぐにわかる。
いくらでも対処のしようはあるので、とりあえずは大丈夫だろう。
血まみれで呆然とこちらを見ている男たち2人は無視して、既に怪我人の上腕部をロープで縛りあげ、止血作業を完了させた少女に話しかける。
「助かりそうか?」
「ハイ! 治癒魔法で応急処置をしてから、すぐにギルドへ転移すれば大丈夫です」
少女は地面に緑色の染料で円形の模様を描きながら、ハキハキと答える。
地面にしゃがみ込み、模様を覗きこむついでに怪我人の傷を確認する。
目線を上げると、仄かな笑顔を浮かべた少女と目が合った。
「私は冒険者ギルド、ラルクス支部職員のテレジア=リンディアです!
危ないところを、本当にありがとうございました。
さぞ高名な魔導士の方とお見受けします。
お名前を教えていただいてもいいですか?」
つられるように、俺もいつの間にか微笑を浮かべていた。
「俺は……、蒼馬だ。
死者が出なかったなら、何よりだ」
「ソーマさんですね!
本当にありがとうございました!」
生命力に満ちあふれたテレジアの声を聞きながら、俺はこの世界で初めて自分の名を名乗ったことに気がついた。