夜明け
1週間後、俺はエルベーナから道を伝ってひたすら東へ歩き、ラルクスという町を目指していた。
道とは言っても当然だがアスファルトではなく、舗装されていない土がむき出しの道だ。
道の左側は鬱葱とした森が続き、右側はエルベ湖を水源とする川が流れ続けている。
一応地図は持ってきているのだがあまりに大雑把なので、1本道なのはありがたいところだった。
そのエルベーナだが、……もう存在しない。
アイザンが死んだ後に湖から出た俺は、そこで水の大精霊の力というものがどれほどのものなのかを知った。
エルベーナはその「生贄」となり、今はエルベ湖の一部となっている。
湖を蹴って湖面に到達した俺の視界は、そのまま上に上がっていく。
「……は?」
夜空の下、そして俺は水の上に立っていた。
「!!!?」
その事実に軽いパニックに陥りながら試しに力を抜くと、湖に落ちる。
だが、すぐに呼吸ができること。
それに、手足を動かさなくても自分の思った方向に自由に、それもかなりのスピードで進むことができるのに、俺は気がついた。
無論経験はないが、空を飛ぶとはこういう感じなのだと思う。
また、周囲にいる生き物の位置や大きさ、湖底の地形などもある程度把握ができる。
レーダーのように周囲の情報が頭に入ってくることに最初は混乱したが、慣れてくるとこれが非常に便利であることは否定のしようがなかった。
「……」
やがて湖面に顔を出した俺は、灯火からエルベーナの位置を把握し、そこから1キロメートルほど左側の岸から陸に上がる。
ずっと水中にいたためか、自分の体が重く感じて仕方がなかった。
当然水に濡れている服が、少し気持ち悪い。
「……!」
と思ったら、一瞬で服と体が……乾いた。
あまりの事態に、全ての動作が停止する。
数分後、呆然としながら無意識に髪に手をやると……、一瞬の濡れた感触の後に、やはり乾いた髪のパリパリとした手触りが返ってきた。
が、ちょっと乾きすぎかと思った瞬間……!
「……」
次は頭から水が流れてきて……また全身、ずぶ濡れになる。
呆然としながら再度乾いた全身と服をイメージすると、また一瞬でそれは乾いた。
……水を、司る。
つまりは、水を自由に扱えるということなのだろうか。
試しに右手を出して「水」と念じると、掌から際限なく水があふれ続ける。
飲むこともできるようだが、ちょっとぬるいな、と思った瞬間にそれは氷水の様な冷水に変わった。
どうやら、温度も自由らしい。
試しにずっと温度を上げていくと、最後には熱湯から水蒸気に変わって慌てて止める。
火傷のことがよぎり反射的に氷をイメージすると、……今度は俺の右手には氷が握られていた。
不思議なことに全く冷たくはないし、冷静になれば熱湯のときも水蒸気のときも熱さは感じていない。
当然、火傷もしていなかった。
それより、氷も出せるのか。
……まぁ、水蒸気がありなら、氷もありか。
ついでに湖に手を突っ込んでみると一応水の冷たさを感じるが、すぐにその感覚も遮断できることに気がつく。
少し怖かったが右手から熱湯を出した状態でそれに左手をつけると、やはり熱さは感じない。
思い切って顔をつけても熱さは感じず、やはり火傷も負っていなかった。
「……」
……とはいえ、殺傷能力の面から考えるとどうだろうか。
熱湯や水蒸気を当てれば、確かに火傷はさせられるだろうが……。
「……!」
そのときだった。
岸から少し離れた茂みがガサガサと揺れ、犬が顔を出す。
……いや、犬じゃないな。
全身が青色だし、角が生えている。
元の世界にいたときに毛の一部を紫やピンクに染められたプードルやマルチーズを見たことはあったが、こいつは全身が鮮やかな濃い青色だ。
犬種としては、柴犬……いやハスキーか?
ひょっとすると狼なのかもしれないが、額から生える30センチほどの白い角が……種類の推定をしてもおそらく意味がないであろうことを俺に思い出させてくれていた。
首輪をしていないので野良犬か野犬ということになるが、そもそもこの世界にペットや猟犬という概念があるかもわからない。
第一、そもそも犬ではないし。
青犬は牙をむいて、俺に飛びかかってきた……。
……え?
「!!!?」
俺は座った体勢から咄嗟に右下へ上体を捻って頭を逃がす!
が、体の上を通過する青い影と獣臭い風が、俺の浮いた左腕が青犬の顎に挟まれるであろうことを予言していた。
しかし。
バキィッッッッ!!!!
凄まじい音と衝撃と共に、飛び退いた青犬がギャンギャンとのたうちまわる。
唖然と見上げた俺の左腕は5ミリほどの氷でびっしりと覆われており、地面には砕けた青犬の牙が散らばっていた。
牙には赤黒い血や肉が残っているものもあり、青犬がどういう状況に置かれたのかだけはよくわかる。
……というか、こいつ血は赤いんだな。
あらためて腕を確認するが、痛みは一切ない。
氷もその薄さに反して、ひびも傷もない。
そのまま腕を軽く振ると、しかし氷はそのまま割れて地面に散らばった。
「……さて」
どういう機能なのかゆっくり考えたいところなのだが、……先に青犬を始末した方がいい。
が、素手では無理だ。
せめて棒くらいないと、と立ち上がった瞬間、俺は自分の右手に1メートルくらいの氷の棒が握られていることに気がつく。
「……」
色々と言いたいこともあったが、とりあえず青犬を滅多打ちにして黙らせた。
「はぁ、はぁ……!」
息を整えた後、俺はあらためて掌中の鈍器に目を配った。
直径5センチもないこの棒も、結局折れも溶けもせずに形を留めている。
……先ほどの氷の防御のことも合わせて1つの可能性が浮かぶが、……後で検証が必要だ。
それに、武器だ。
期待を込めて「剣」と念じると、棒はそのままシンプルな剣の形になる。
長さや刃の形状、鍔の形をイメージすると、まるで水飴のようにその通りに変形する。
ならば銃はどうかとイメージしてみたが……。
「……くそ」
こちらは、ダメだった。
まず、引き金が動かない。
外見はイメージした通りの拳銃の形になったのだが、しかし俺はその内部構造を知らない。
……複雑な機構のものを再現するのは、少なくとも現状では……不可能か。
拳銃の形をしただけの氷を溶かし、何気なく近くにあった木を見ながらせめて銃弾を飛ばせないか、……と考えていたときだった。
カシッ!
「!?」
そんな乾いた音が、その木から響く。
何事かと思って近づくと、その木のちょうど目の高さの位置に丸い穴……。
いや、弾痕があるのを発見した。
……何が起こった?
……いや、待てよ?
振り返って他の適当な木に狙いを定め、再度銃弾が発射されるシーンをイメージする。
目の前で出現した氷の粒は、すぐに人差し指の先ほどの銃弾型の氷に成長!
カシッ!
「……へえ」
俺の視線の先の木、俺が見ていた場所に寸分違わず命中した。
そのまま氷の防御が全身に展開できることも確認し、同時に剣での武装、左手にも出して2刀流、その状態での銃弾射出、銃弾の連射、銃弾のサイズの大型化、2発の銃弾での同時射撃も次々とテストしていく。
全て、上手くいった。
途中で剣の形がすこし甘くなったり、同時射撃の片方を外すようなこともあったが、イメージをしっかりと持てば全てが実現できる。
「……」
ただ、少し騒ぎすぎたのだろう。
青犬がもう1匹、寄ってきてしまった。
が、防御も銃撃もできるから負けることはない。
……あるいは、水を自由に使えるならそれを操って溺死させる、とか。
「できるのか……」
イメージしたら、できてしまった。
その周囲を取り囲むようできた球状の水のドームの中で、青犬は必死にもがいている。
そのまま凍らせることも……できるのか。
夏のテーマパークにでもありそうな青犬の入った氷像は、異世界にふさわしい幻想的な光景を醸し出していた。
「……なるほど、な」
……氷でできるのなら、熱湯でもできるだろう。
犬に使えるのなら、……人間にも使えるだろう。
近くにあった岩の上に座ってエルベーナで見た人間の顔を思い出しながら、俺はそんなことを考える。
……ただ、他に気になる部分もある。
この能力の代償は、何なのか。
これがゲームなら魔力という「もの」がいるのかもしれないが、今のところ体には異常がない。
強いて言えば、この状況が異常すぎるということくらいだ。
攻撃にしても防御にしても、どの程度までのことが可能なのか。
実際の殺傷能力は、どれくらいのものなのか。
エルベーナで実験するにしても、向こうの戦力やそれ以前に人口もよくわからない。
……いや、そもそもこの世界に関する知識が俺にはない。
地理、歴史、気候、人種。
技術、法律、政治、宗教。
文化、通貨、経済、……魔法。
魔導と、霊術。
……まぁ、とりあえず最後は置いておくとしても、社会で人間が生きるためには様々な情報が必要なのだ。
例えば……、……儀式のための生贄が横行している世界で罪に問われることは流石にないだろうが、青犬を殺したことも実際にはどういう扱いになるのかが全くわからない。
そもそも、エルベーナの住民どもの行動は本当に何の問題もないのか?
他の町に行ったとして、俺はどういう扱いを受けるのか?
……判断するための情報が、全く足りない。
情報。
情報。
情報……。
「……」
……エルベーナから、適当な人間を拉致するしかないか。
俺が、そう考えて立ち上がった瞬間だった。
……ガサッ。
また茂みが揺れて思わず身構えるが、顔を出したのは青い顔の犬ではなく青白い顔をした若い男だ。
「!!」
「……え?」
男は、俺の顔を見て。
「……!?」
幽霊を見たように、立ちすくみ……。
「……」
……倒れる。
念のため言っておくと、今回俺は何もしていない。
慌てて近付くと、泡を吹いて失神しているのが確認できた。
……そうか。
こいつは、俺が生贄にされたときの舟の漕ぎ手だ。
行きのときも顔面蒼白になっていたくらいだから、その生贄と鉢合わせすれば、それは気絶もするだろう。
「……運が、悪かったな?」
それよりも、……好都合だ。
情報源が、手に入った。
俺は青年を担いで湖へ入り、村とは反対側へ水面を滑るように移動する。
長かった1日が終わり、空は白み始めていた。
漕ぎ手の青年……、名前はポーというらしかったが今となってはどうでもいいことだ、から文字通り削り取った情報によれば、エルベーナの人口は124人とのことだった。
その内で魔法 (ポーの説明では魔導と霊術の区別が判然としなかった)を使えるのは、18人。
内、充分な攻撃能力を持った術を使えるのは村長のバランだけ。
他に従軍経験者が5人いるということもわかったが、人口が少なく特殊な経歴の持ち主の人数が非常に少なかったのはありがたかった。
また、エルベーナからは最も近くても徒歩で10日以上離れた場所まで他の町や村がないこと。
この世界ではあの青犬、正式名称は「アリオン」のような「魔物」を殺害することは推奨こそされ、処罰されることはないということ。
エルベーナの近辺は比較的その魔物が多く、村から離れて自由に歩ける人間も限られていることがわかったのも幸運だった。
……もっとも、ポーが嘘をついていなければだが。
肉片となってしまった今では、いずれにせよ確かめようもないことだった。
夜になってからエルベーナに戻った俺は翌日の朝までに85人を殺害、村長を含む36人を拘束した。
そこから2人を適当に選びポーにしたのと同じ方法で問いを重ねたが、やはり村の人口は124人で間違いがないようだった。
ポーを入れても2人足りないことになるが、その2人は村から西に10日以上かかるエダという集落に行っているらしい。
現状では手の打ちようがないので、やむを得ず放置することにした。
それからの3日間で、村の中で生きている人間は俺と村長のバランだけになった。
バラン以外の生存者はあまり村の外に出ることがないらしく、大した知識を持っていなかったからだ。
食事の世話をしてまで生かしておく理由もなかったので、一通りの質問を終えた後は適当に処分した。
バランには魔導と霊術について詳しい内容を話してもらう必要ががあったため初日から思いつく限りのありとあらゆる方法を試みたが、結局彼も4日目の朝には死んでしまった。
バランはその間一言もしゃべらず、10年前の生贄が俺の妹だったことを明かしてもまばたきをしただけだった。
あるいは、彼なりに何らかの覚悟と矜持があったのかも知れないが……、……それも、もはやどうでもいいことだ。
水の大精霊が住むエルベ湖は参拝の対象となっていたらしく、エルベーナはその宿場町だったらしい。
そのため村の人口と同じ程度の人数が泊まれるだけの宿が運営されており、
村民のほとんどはそれで生計を立てていた。
その割に宿泊客が1人もいないのは10年に1度、20日間だけは生贄の儀式のために、村民以外の立ち入りが禁止されているためだったらしい。
確かに、あの「儀式」は外部の人間には見せられないだろうから、当然の措置ではある。
……まぁ、それがこの状況を作り出しているのは皮肉としか言えなかったが。
村人への尋問からは、この世界の大雑把な地理についても聞き出すことができていた。
この世界は大きく5つの大陸に分かれており、6つの王国が存在している。
エルベーナは西側のカイラン大陸、その北のはずれの方に位置しているらしい。
そのカイラン大陸は北と南に2つの王国があり、当然エルベーナは北側のアーネル王国の一部である。
ちなみに大陸の南側はチョーカ帝国という国であり、アーネルとチョーカはもう200年近く戦争を続けているという。
尚、エルベーナはアーネル王国のほぼ最北端に位置しており、カイラン大陸のほぼ中央、アーネル王国の南側にある王都アーネルからはかなり離れた場所にある 。
先々のことも考えて俺は当面の目的地を王都アーネルに設定し、まずはエルベーナ付近で比較的大きな町であるラルクスを目指すことにした。
そのラルクスまでは、徒歩で2週間ほどかかるらしい。
エルベーナが無人になった後、俺は丸1日かけて村の全ての建物を回り、生活水準や技術レベルの確認、食料、通貨や衣服の確保にその全てを費やした。
村人の暮らしぶりや、主にバランの家に保管されていた書物から類推すると、この世界は中世ヨーロッパ程度の技術レベルしか有していないと見てほぼ間違いない。
建物は木と石でできていて、コンクリートは見当たらない。
電気や水道、ガスも引かれていないし、そもそもその存在を誰も知らなかった。
とはいえ、その部分を魔法と霊術という科学を全否定する力で補っているため、トータルの生活水準はこちらの方がはるかに上だろう。
また、意外なことに下水という概念は存在する様で、トイレは水洗だった。
川から溝が掘られ、その中に長い板を何枚も渡して水の流れ道を作っている。
建物の中に入ると、外から続いている溝の上にはどうやって加工したのか石で造られた便器が設置されており、傍らには水がめと手桶、何枚ものボロ布が置かれていた。
つまりここから水を流して、川へ流すわけだ。
食事についても、思ったより何とかなりそうだった。
どの家にもパンや干し肉、チーズ、芋やタマネギのような野菜が保管されており、ガスコンロが竃、水道が水甕であることに目をつぶればあまり違和感はない。
パンはライ麦パンのような黒っぽく重たいパンだったが、大きな町では小麦のパンも売っているとのことだった。
……ただ、流石に米はないようだったが。
調味料も塩しか見当たらず、ネックはこの辺りだろうか。
バランの家には干した果物や酒、オリーブオイルのような油、胡椒のような実の入った袋もあったので大きな町では手に入るのかもしれない。
他に、ハーブの様な草も大量に保管されていた。
野菜が見当たらないので外に出てみると、村のあちこちにある畑にはニンジンやキャベツ、ネギのような野菜が植わっている。
動物はニワトリとカモの中間の様な黒い鳥 (1羽殺して蒸してみたが、なかなか旨かった)とヤギ、そして馬が飼われていた。
犬や猫の類は見つからなかったが、種として存在しないのか、それともペットという概念がないのかまでは何とも言えない。
通貨は銅貨と銀貨が主流で、一部地域を除き基本的には全大陸共通らしい。
バランの家では10枚の金貨も見つかったので、遠慮なく頂戴した。
さらに宝石のはまった指輪も2個出てきたが、呪いなどの可能性も危惧してこちらは無視する。
服は繊維を織った厚手の布で作られているものと、動物の皮でできたものが多い (青色のチョッキがあったが、これは多分アリオンの毛皮だろう)。
肌着は木綿のようなやわらかい生地で作られており、一応はパンツの形をしている。
靴は、木と皮と金属で作られていた。
数は少ないが、皮でできた鎧や小手、ブーツも見つかった。
そして金属製の剣と槍、ナイフ、斧。
銃が見つからなかったのは救いだが、やはりアリオンのような魔物が闊歩するこの世界ではこういうものが必要なのだろう。
……まぁ、何より武器と言う意味ではこの世界には魔法も存在するわけだし。
その魔導と、霊術。
俺が最も知りたかったこの2つに関する情報は、残念ながらエルベーナでは一切得られなかった。
バランが何も語らなかったことに加え、その類の本も見つからなかったためだ。
したがって、俺は今も自分のこの力がどちらなのかをわかっていない。
どころか、どちらでもない可能性すらある。
ラルクス、そしてアーネルを目指す目的の1つは魔導と霊術の基礎を把握するため。
そして、自分の身に起こったことを理解するためだ。
エルベーナで荷造りを整えた俺は、エルベーナを「エルベ湖の一部に変えた」後。
一路、ラルクスへ向かって歩き始めた。