恐怖の波
プロンからまっすぐ来た道を戻り、ウォリア高地を越えるまでにかかった日数は2日だった。
途中の戦闘は1回。
チョーカ兵の回収部隊24人と戦う羽目になったが、全長30メートルまで伸ばした【白響剣】で枯れた森ごと、文字通り一振りで斬り捨てた。
時速3千キロメートルで流動する極薄の刃をこの長さまで伸ばすのには、馬鹿にならない量の魔力と、眉間にしわが寄るほどの頭痛が必須となる。
が、スピード重視かつビジュアル面にも気を使った演出の甲斐もあり、この戦闘を目にしたプロンの住民たちが俺に抱く感情、すなわち畏怖と恐怖、尊敬と崇拝は揺るぎないものとなった。
ウォリア高地を登りきった俺たちは、そのままカイラン大荒野をほぼ休憩なしで走破。
翌々日の夕方、国境を超えた時点ですぐに転移し、俺たちはリーカンに到着した。
そのまま俺は参謀本部に向かい、アーネル軍を指揮する将軍のナンキと、クロタンテ攻略隊を率いていたモーリス隊長に帰還の報告を伝え、俺たちが駐屯するキャンプ地の場所を確認する。
俺、アリス。
シズイ、サラスナ。
『ホワイトクロー』の4名。
アンゼリカたち、クロタンテからの救出組が6名。
サーヴェラたち、プロンからの救出組が38名。
総勢52名と、俺たちの陣営はそこそこの大人数になってしまっている。
尚、敵国の集落であるプロンから住民を連れ去った俺たちの行為は、当然ながら誘拐にあたる。
このため、プロンの住民たちは「あくまでも自発的に国境を越えようと移動していたところを、盟軍である俺たちが人道的な観点から救助した」という名目で、ナンキとモーリスには説明した。
俺たちはアーネル軍とは別の勢力であるため、これに関して何かを言われる筋合いはない。
プロンの住民たちにもその旨は言い含めておいたが、俺の強さとアリスの優しさに心酔している彼らが口を滑らせる心配は全くしていなかった。
ましてや。
本当に1人で要塞を消滅させて3千人を粉砕し、霊竜2柱を従えて帰ってきた水の大精霊に正面から文句を言うことなど。
将軍のナンキはおろか、もはや軍の総力をもってしてもできることではなくなっていた。
「ソーマ様、おかえりなさい!」
「「おかえりなさい!」」
「……あぁ」
参謀本部を出た俺のもとに、モーリスの部下が連れてきたアンゼリカたち6人は、数日でかなり血色が良くなっていた。
きちんとした待遇だったらしく、笑顔のアンゼリカの号令で深く頭を下げる6人には、体の汚れや傷の類はない。
衣服も、普通の清潔なものが支給されていた。
子供たちも、自分たちの置かれている環境が劇的に良くなったという自覚はあるのだろう。
アンゼリカ以外の子供たちも、多少は目に力が戻ってきているようだった。
「アリスたちと合流する。
お前たちと同じくらいの子供が増えているから、仲良くしろよ?」
「「はい!」」
加えて、自分たちの保護者が俺だということもよく理解できているようだ。
……ならば、問題はない。
駐屯のために用意された場所と6張の分厚い大型テントは、部外者にもかかわらずリーカンの都市壁内、正規軍が駐屯している中でもそれなりの場所が用意された。
さらに充分すぎる質と量の糧食、救出した人間たちのための衣服、薬や日用道具なども、俺からは一切頼まなかったにもかかわらず用意される。
まぁ、余計な借りは作りたくないので、これも後で報酬と相殺してもらおう。
その報酬だが、参謀本部ではクロタンテ攻略の際の戦利報酬として大金貨2万4千枚が用意されていた。
俺がアーネル首脳部で交わした同盟を結ぶことの契約金が大金貨1千枚、約5千万円だったことを考えると異常な金額の報酬に思えるが、これは俺が1人で戦ったためだ。
本来なら参戦した兵の人数、それこそ数千人単位で分割すべきものを1人で貰えば、当然こうなってしまう。
まぁ、このうち2割の4800枚は『ホワイトクロー』のものになるわけだが、それでも約2万枚が残る。
この後のことも考えると、俺たちの村の初年度歳入は黒字確定、初期投資は派手にできることだろう。
しかし、数万枚単位の金貨など、どう管理すべきだろうか。
いずれにせよ戦後に受け取るつもりだったのでそのまま預かっておいてもらうことにしたが、渡されたところで持ち運べないし、この世界に銀行のようなものはない。
いざとなれば、国家間貿易でしか登場しないはずのミスリル貨かオリハルコン貨への両替を、真剣に検討する必要が出てきたな。
しかし、とりあえず。
俺の話を聞いた『ホワイトクロー』の連中は大喜びしていた。
ここからが大変だった。
テントのうち2つに、テントの面積の半分ほどの浅めのシャワー室を準備し、お湯を維持し続ける。
男性用の方を俺が、女性用の方をアリスが監督しながら、全員に体を洗わせる。
水が支給品だったプロンでは、体を洗うことなど不可能だっただろうし、公衆浴場など行けるわけもない。
不衛生極まりない状態だったのに加えて、チョーカ領からの脱出は強行軍だったため、俺もアリスも含めて全員が土と埃まみれだった。
はじめての体験に子供たちがはしゃぐのは多少大目に見つつ、凄まじい勢いで汚れていく湯を定期的に入れ替え続ける。
プロンの人々からすればごちそうとも言える軍の糧食で遅い夕食を終え、6張のテントに全員を振り分けた後、俺はようやく一息をついていた。
各テントには俺、アリス、エレニア、アネモネ、ブランカ、ネイリングが監督役として散っている。
泥のように眠るサーヴェラや、隅の方で丸くなって寝ているシズイとサラスナを眺めつつ、俺はテントの隅に並べられた樽の1つの蓋を開けた。
中には、大量の灰が詰まっている。
「……居心地は?」
「思ったよりは、悪くありませんわー」
俺が声をかけると、灰は立ちあがりながらミレイユの形となった。
「ですが、思っていたのが最悪でしたので、悪いことには変わりがありません。
早めにアーネル領から出たい、というのが本音ですわー……」
「自業自得だろうが」
「……反論はしませんわー。
旦那様の言う通り、後先考えずに行動するべきではありませんでした」
「このテントからは出るなよ」
「わかっていますわー。
はぁ、手足を自由に伸ばせるというのは、貴重なことなのですね。
はじめて知りましたわー」
背伸びをしながら、体をひねるミレイユを見ながら、俺は小さく溜息をついた。
リーカンに戻るにあたり、俺が考えなければならなかったのはミレイユの処遇だ。
俺は問題視していないが、エレニアの指摘した通りミレイユは王都で50人近くを殺傷しているため、騎士団には討伐令が下されている。
人相が伝わっていなければ簡単な変装でごまかすこともできたのだが、このストーカーはリーカンでも少し暴れたらしいため、それもできなくなっていた。
俺はこの世界の法を重視はしていないが、必要もなく破るつもりはない。
武力を背景に討伐令を取り下げさせることもできなくはないだろうが、今後の交渉のことも考えるとアーネルに借りを作りたくはなかった。
かと言って俺たちがリーカンにいる間、超危険生物であるミレイユを国外で放置しておくのも不味い。
ミレイユに確実に勝てて安全に監視できる人間も、俺以外にはいなかった。
その結果が、このミレイユの樽詰だ。
開けたところで中身は灰にしか見えないし、アーネル軍も俺たちの荷物をあらためるつもりはなかったらしく、リーカンに入るときも中身が何かすら聞かれなかった。
樽に詰められる、というのがどういう感覚なのかは知らないし知りたくもないが、本人も自覚している通り完全に自業自得なので、戦争が終わるまではしばらくこの状態で過ごしてもらうしかないだろう。
「旦那様、早く終わらせてほしいですわー」
「まぁでも、まだ20日くらいはかかると思うぞ」
「……そうですか」
げんなりしながら、俺の左手から血を吸うミレイユの表情は、少し面白かった。
それから8日後。
全軍に出陣命令が下った。
アーネル王国軍、4万6千人。
チョーカ帝国軍、3万8千人。
これが、最終的にカイラン大荒野に揃った両国主力軍の陣容だった。
アーネルの参謀本部による当初の見立てでは、アーネル王国軍4万5千人、チョーカ帝国軍3万5千人だったので、両陣営ともかなり増えている。
これはどちらも、俺がクロタンテを落としたことが原因だ。
まずチョーカ側だが、クロタンテ陥落に際して3千人が死亡している。
さらに、それを知った傭兵がチョーカに見切りをつけて大量に逃げ出した。
アーネルの人数が増えているのは、その傭兵たちの一部がこちらについたからだ。
それでもチョーカ軍の人数が増えているのは、国土の防衛や都市の治安維持に回す余力、訓練が終わりきっていない半人前の少年騎士、さらには民間人を徴集して、無理矢理に兵数の底上げを図ったからだ。
俺を含む【視力強化】を使用しているアーネル兵の目には、明らかに成人していない少年の姿や、士気の低い一般人であろう人々の怯えた表情がかなり目立っている。
国の維持に必要な最低戦力や国の未来を支える若者、都市機能そのものでもある国民を大量動員した格好で、負ければチョーカに後はない。
まさしく、背水の陣と言えるだろう。
ただし、そうなるように仕向けたのは背後ではなく目の前にいる、この水の大精霊である。
あれだけ派手に砦を破壊したのは、それがチョーカ軍に知れ渡り、所属する傭兵に戦力差を悟らせて、アーネル軍をその受け皿とするためだ。
一気に失われた戦力を補充しなければならなくなり、さらに決戦級を超える魔導士が敵側にいると知ったことで、チョーカは無謀な戦力増強に走らざるを得なくなった。
そしてそこまで理解できながら、帝国首脳部は考慮に入れなかったらしい。
それら全てが、失われる可能性を。
即座に降伏した方が、国に未来を残せたかもしれないという希望を。
が、それも。
両軍の使者同士による最後通牒が終わってしまった今は、もう手遅れになってしまったのだが。
眼前に広がる銀色の帯のようなチョーカ軍を見つめる俺の右側には、ナンキ将軍。
逆に左側には、アリス、エレニア、アネモネ、ブランカ、ネイリング。
その後ろには、馬車の荷台から並んで顔を突き出している、シズイ、サラスナ、サーヴェラ、アンゼリカ。
荷台には、糧食と一緒に、謎の樽も詰み込まれている。
「じゃ、行ってくる」
「ソーマ、気をつけて」
「……本当にいいのだな?」
アリスと言葉を交わしてから、歩き出そうとした俺を、ナンキが呼び止める。
「ああ、それよりもちゃんと指示を出せよ?」
「わかっている。
全軍、隊列を維持したまま現在位置より100歩分下がり、防御態勢を取れ!!
その後、【視力強化】を発動せよ!!」
「「は!!」」
事前に伝えた通りにナンキが全軍に指令を下したのを確認して、俺もアリスに念を押しておく。
「アリス、絶対に前に出るなよ?」
「わかった。
ソーマ、……本当に気をつけて」
「ああ」
そう言って、俺は歩き出す。
が、俺が気を払うべきはチョーカ軍のいる前ではなく、アリスたちのいる後ろの方だ。
数で勝るアーネル軍が一斉に後退してく。
それとは反して、両軍の中央へ1人歩みを進める、黒いマントに身を包んだ手ぶらの魔導士。
そんな異常な状況でありながら、チョーカ軍にもアーネル軍にも、不思議なものを見るような弛緩した空気はない。
なぜなら世界第2位の、この黒衣の魔導士は。
1人で戦い、そして勝つつもりなのだから。
緊張と恐怖。
期待と絶望。
8万4千人の視線が、ただ俺を見つめていた。
俺はアーネル軍が完全に支配領域外にいることを、【水覚】で確認する。
念のためさらに10歩ほど歩き、俺は立ち止まり、前方をぐるりと見回した。
3万8千人のチョーカ兵たち。
一部は弓を張りつめさせ、一部は突撃の準備をし、一部は高位魔導の詠唱を始めている。
だが、もう遅い。
3万8千人。
彼らにも親があり、家族があり、恋人があり、友があり、夢があり、それぞれの幸せがあったのだろう。
だが、彼らは、運が悪かった。
貧しい国に生まれ、愚かな皇帝に仕え、そしてこの戦場に立ってしまった。
国家、あるいは組織を率いる者の義務は、非常にシンプルだ。
食べることに困らず、暖かい場所でゆっくりと眠ることができるようにすること。
それだけだ。
だがそれだけで、人間はその次を考えられる。
賢くなり、強くなり、今よりも良い未来にしようと努力することができるようになる。
そうして、組織は、国家は発展していく。
だが、彼らの生まれたチョーカという国は、それができなかった。
チョーカの採掘集落。
人間を経済動物に仕立てる、完璧な畜産方法。
その状況を作り出し、それを善しとし、それを正しいとする国。
俺は、その考え方の善悪を問うつもりはない。
そうするしか、チョーカという国に生きる道はなかったのだろう。
だが、そうしなければ成立しない国家を、俺は正しい存在だとは思わない。
人間を人間として扱えないような組織に、存在する意味はない。
そして、そんなものを守ろうと剣を携えた以上、彼らの命を斟酌する意思は、俺にはない。
生きる道を閉ざされ、どれだけあがいても死んでいくしかない恐怖に。
その魂を、浸すがいい。
アーネル軍の最前線から約500メートルの地点。
そこに立つ俺の支配領域内には、莫大な量の水が満ち始めていた。
4/3×3.14×半径×半径×半径
これは、球の体積を求める公式だ。
この場合、ここに入る半径は俺の支配領域の長さ、すなわち半径400メートル。
さらに、実際に水を生み出せるのは地面より上、つまりは半球状であることを加味する。
4/3×3.14×400×400×400÷2
俺の前後左右には、16両編成の新幹線の全長とほぼ等しい水の壁ができていく。
上を見上げればその頂点は東京タワーよりも高くなっており、深海と同じく大量の水で太陽の光が届かないため、中心にいる俺の周囲は闇に包まれている。
すなわち、約1億3千万トン。
東京ドーム約100杯分にして、高さ3メートルにならしても東京の千代田区、中央区、港区の3区全域を一気に水没させられる水量。
これが、俺が現段階で1度に生成できる水の限界量である。
超質量が顕現したことにより、俺の足元に転がっていた小石が砕け散る。
押し固められていく地面の中、水温と水圧の影響を受けない俺だけが、ただ君臨していた。
チョーカ兵の装備や布陣を思い出しながら、俺は暗黒の中で1人、苦笑いを浮かべる。
優れた装備、個人の武勇、兵の数、練り上げられた戦術……。
おそらくは勇者と呼ばれる、英雄と呼ばれる、新星と呼ばれる、天才と呼ばれる。
超戦士や、決戦級魔導士、そして優秀な軍師。
俺に突撃してこなかった以上は、あの3万8千人の中にはそんな人間も並び、渾身の策が張り巡らされているのだろうが。
くだらない。
水の大精霊にして、水の支配者。
その俺の前に、そんな小手先は意味がない。
つまるところ戦いとは、質量とエネルギーのぶつけ合いなのだから。
もはや視界には黒い闇しか映らないため、【水覚】を通じて、俺は水が限界の量まで生成されたことを知る。
ただ、どうやら前方のチョーカ兵の一部が既に接触してしまったらしい。
その全員が凄まじい悲鳴を上げながらもがき苦しみ、溺れる前にショック死したのを、俺は他人事として知覚する。
そう、俺の周りを覆うこの水は、一般的には水と呼ばれるものではない。
摂氏99度、水が液体として存在できる最高の温度を保った状態。
熱湯、なのだ。
おそらくだが、逃げ遅れたのだろう。
熱傷で焼けただれ内臓まで灼かれるその痛みで死んだ、白濁した瞳を見開く数百人の死体が、俺の領域内に転がっている。
そしてそれを目の当たりにしたチョーカ兵、いやチョーカ軍は、全員がカイラン大荒野を脱兎のごとく走っているに違いない。
だが、遅すぎる。
俺は領域の全てを、前方、広い角度で押し出す!
あり得ないほど巨大な質量が一気に移動し始め、俺の領域を外れた瞬間から慣性と重力にしたがって、高層ビルが倒れるような巨大な波が生まれる!
その高さ、実に100メートル以上。
そしてその速度、実に数百キロ。
それはもはや波ではなく、高速で迫る水の壁と呼ぶべきものだった。
風呂やプールで水面をたたくと手が痛くなるように、ある程度の速度を超えて物体が衝突すると、液体はその流動性を失う。
この津波に追いつかれることは、生身でそれこそ新幹線の追突を受けるに等しい。
全身は瞬時に塵になり、その血肉はこの波の一部となるだろう。
だが。
ただでさえ不運な彼らにとって、それは幸せなことかもしれないと、俺は思う。
これを生き延びてしまった場合、次に襲いかかるのは猛烈な水圧だ。
ミスリルは耐えられるかもしれないが、中身は耐えられない。
さらに。
運が悪いことにそれを耐えてしまった場合、その人物は悪名高い釜茹の刑を実体験することになってしまう。
人間の体を構成するタンパク質は、摂氏60度を超えると変質してしまい、その構造が崩壊を始める。
全身が赤く焼けただれながら筋肉は白く固まり、皮膚の薄いまぶたでしか守られていない眼球は焼き魚のように白く濁るだろう。
神経が発する激痛に悲鳴を上げてしまえば口の中はもちろんその内臓までが煮え、全身の粘膜が破壊されていく地獄を味わうことになる。
とはいえ、そうなった大多数はそのはるか以前に、痛みと苦しみから解放されるために、脳と心臓が勝手にショック死を選択し。
肉体が生きることを放棄するだろうが。
そして。
その上で、それでも生存から解放されなかった不運中の不運な人間は。
ようやく、溺死という最後の可能性にすがることが許される。
ミスリルがいくら軽い金属とはいえ、水には沈む。
熱湯に苛まれ、波に遊ばれ、地面に体を削り取られながら。
彼らは、いつかは死ねるだろう。
水の大精霊たる俺が現時点で可能な、最大質量攻撃。
轢死、圧死、熱死、溺死を無差別かつ広範囲にばらまき、それを生き残ってしまうほど無残な死を迎える。
その瞬間が1秒でも早く訪れるように、心から祈ってやってもいい。
俺でさえもそう思わざるを得ない、おそらくは史上最も残虐な魔法。
【死波】。
それはこの世界を蹂躙する、無慈悲な災厄である。
水温と水圧の影響を受けない俺が太陽の光を浴びたのは、【死波】の大半が俺の制御下を離れてからだ。
領域内の波を前方に押し出しながら、適当な角度で振り分ける。
この魔導、【氷艦砲】と同じく領域外に出てしまった波をコントロールする方法は、俺にもない。
止められないし、止まらない。
無責任に聞こえるかもしれないが、俺にできることはせいぜい【視力強化】で望遠した視力で、その通り過ぎた後を見つめることだけだった。
大荒野の土を巻き上げながら、茶色い濁流となった【死波】の高さはいまだ数十メートル。
猛烈な湯気と熱気が鬱陶しかったので、領域内の水分子の動きを押さえて温度を下げながら、ずぶ濡れの全身から水気を飛ばす。
熱湯の中にいたことで、ブーツやベルトなどの革製品は完全にダメになっていた。
リーカンで、いいのが売っていればいいのだが……、いや、ラルクスかアーネルに買いに戻ればいいか。
いくら【死波】が膨大な水量を誇るとはいえ、カイラン大荒野の広さはそれ以上だ。
水が不毛の大地全てを覆い尽くし、ウォリア高地で跳ね返されてこちらに戻ってくることはあり得ない。
眼前に布陣していた3万8千人以上のチョーカ軍、その全てが見当たらないことを確認した上で、俺は【視力強化】も解除した。
そのまま踵を返し、アーネル軍の中央最前線、ナンキ将軍のもとへと向かう。
恐慌状態に陥ったアーネル兵から、反射的に攻撃される可能性もあるので、念のため【氷鎧凍装】の発動準備だけはしておこうか。
が、歩みを進めるにつれ、アーネル軍の誰もが声を発していないことに気がつく。
4万5千、非戦闘員も含めれば5万近い人間がいるにもかかわらず、俺に聞こえるのは、自分の足音だけだ。
ザック、ザック、と地面を踏みながら、俺はこの後の流れを整理する。
家に帰るまでが遠足です。
これと同じ理屈で、敵国を降伏させるまでが戦争だ。
【死波】がどこまで到達したのかは、俺にもわからない。
おそらくははるか後方にあるであろう、チョーカ兵の糧食や物資が残ってくれていればいいんだが……。
そんなことを考えながら、山肌のような顔を雪山のように真っ白にしたナンキが視界に入り、俺は微笑みを浮かべた。
ガジャッ!!!!
その瞬間、アーネル軍の中央部から、激しい金属音がする。
俺の顔を見た数千人が、体を震わせたのだろう。
この戦いで、アーネル軍から死傷者は出ていないはずだ。
それなのに俺の目に入る全員が。
自分の身内の遺体を見たような、茫洋とした表情を浮かべていた。
「ナンキ将軍、回収部隊の編成をしないのか?
戦況の確認と敵軍後方部隊がいれば応戦、戦利品や物資押収が必要だろう?
……まぁ応戦は俺がするから、隊は機動力と輸送力重視でいいが」
「……す、すぐにとりかかりま……。
いや、すぐにとりかかる」
「急がなくてもいいぞ?
水が引くまで少し待たないと、馬も足をとられるだろうしな」
ナンキが無意識に敬語を使おうとして、精神力でそれをねじ伏せた。
無視したが、まぁ普通はそうなるだろうな。
コップの水なら飲み干せる、だが、湖の水を飲み干せと言われたら。
大きな石なら持ち上げられる、だが、山を持ちあげろと言われたら。
不可能だ。
想像した瞬間に試そうとも、達成するための方法を考えることもなく。
できるわけがない、と答えるだろう。
生き物は自分よりも圧倒的に大きな存在に、本能的な恐怖と、そして敬意さえ覚えるようにできている。
ならば。
軍隊となら闘える、だが、水の大精霊と闘えと言われたら。
……できない。
ここにいるアーネル軍の全員が、傭兵の全員が、民間人の全員が。
そんな想いにとらわれているに違いない。
彼らにとって俺は同じ人間ではなく、もはや本能的な畏怖の対象と化した。
あの光景を直接見て、そうならない人間はいない。
そのために、俺はわざわざアーネルに寝返って生き残る傭兵を増やし。
参戦の必要もないのに、アーネル軍全軍を布陣させ。
強化された視力で、チョーカ軍が死ぬ様を全員に見せつけたのだ。
今後この戦場に立った人間が、俺の前に立ちふさがることはおそらくない。
あの恐怖に克てる人間など、いない。
アーネル王国の主力は、もう俺とは戦えない。
そして5万人以上の目撃者が、この恐怖を語るだろう。
そうして、ゆっくりとゆっくりと。
どす黒い冷たさがアーネルを、世界を侵していくだろう。
俺は、アリスたちのもとへと戻る。
エレニアたち4人は、蒼白な顔で俺を出迎えた。
全員が、俺に弱々しく目礼する。
アレを、自分の故郷で使われたら……。
【死波】を見たらそういう感情も抱くだろうから、これは当然の反応だ。
視線を奥へやると、サーヴェラとアンゼリカ、シズイとサラスナの子供組は、一様にポカンとした表情をしていた。
竜の視力は知らないが、サーヴェラとアンゼリカには【視力強化】を使っていない。
ここからの距離だと、あまり現実感のない光景ではあっただろうが、俺の凄さが伝わればそれでいい。
アリスは、いつもの無表情のままだった。
俺の視線を、緑色の瞳で受け止める。
どちらかと言えば鋭い、怜悧なエメラルドの色。
「……おかえりなさい」
「ただいま」
それだけ言うとアリスは、小さく溜息をついたようだった。
そして、戦闘後恒例の、俺に呆れたような表情に戻る。
「私たちは?」
「リーカンに戻ってろ。
……その樽だけは、持っていく」
「わかった」
ナンキから回収隊編成完了の声がかかったのは、それから30分後のことだった。
ナンキ自身が率いる回収隊1万がカイラン大荒野を進むも、生存者は1人もいない。
広範囲に散らばった死体の全てが、破裂か圧壊か煮沸されている状況で、全身がきれいに揃っている死体はほとんどなかった。
ただでさえ粉砕された回収隊員の心をさらに液状化させながら、俺たちは進み続ける。
半日ほど進んだところで、陣形のまま放棄されていた大量の糧食や物資を回収し、俺たちは反転してリーカンに帰還した。
翌日、チョーカに向けて降伏勧告の使者が出発すると同時に、より大規模な捜索回収隊が編成された。
別の目的もあった俺は、霊竜の姿となったシズイやサラスナに騎竜した状態で、連日に渡り空からその捜索も手伝ったが、使者がチョーカの代表者と共に帰ってきた時点で、それも一旦打ち切られた。
チョーカ軍被害。
死者21,678名。
行方不明者16,000名以上(アーネル参謀本部が推定したチョーカ軍全兵数より算出されたが、実数は不明)。
重軽傷者、及び生存者なし。
アーネル及び『スリーピングフォレスト』連合軍被害。
なし。
194年に渡って続いていたカイラン南北戦争。
その13度目の武力衝突は、この結果と共にアーネル側の勝利が確定した。
そして、これが南北戦争における最後の武力衝突となったのである。




