水の大精霊
「……っきろーーー!!」
わめき声に反応して目を開けると、全裸で半透明で満面の笑顔の幼女がいた。
……いや、何だこれ!?
「起きろ?起きた?おはよう?グッッッドモーーーニーング!!」
幼女は口元を手で囲って、全力で叫ぶ。
うるさい。
……英語?
「起きてない?起きろ?ウェイクアップ?グッッッドモー……」
「うるせえ!」
思わず叫んで睨みつける俺を見て、幼女はキャラキャラと笑っている。
無意識に右手で頭を押さえようとして、俺は自分が縛られていないこと、そして自分が水の中にいることに気がついた。
「あー、息できるようにしといたよー?」
反射的に息を止めた俺の顔を、幼女が得意気に覗きこむ。
おそるおそる息、というか水を吸うと、どういうメカニズムか普通に呼吸ができることがわかった。
同時に自分が水の底で土の上に座っていることと水面がはるか上にあることを確認し、どうやら自分がエルベ湖の底にいるのであろうと理解する。
と、いうことは……。
「お前が水の大精霊か?」
「イッッッエーーース!わたしが当代の水を司る大精霊、アイザンちゃんだよーーー!」
……こいつか。
そして、普通に水中で会話もできるんだな。
どうやら人間、ここまで明るく非科学的なものに触れると逆に冷めてしまうらしい。
俺が苛まれているのは生贄にされる恐怖ではなく、よくわからない脱力感だ。
「で、あなたが今回の生贄さーん?」
が、生贄にされるということも直視はしなければならないらしい。
アイザンの透明な瞳の中には、無表情になった俺の黒い瞳が映る。
自分が座っているので何とも言えないが、アイザンは小学校高学年くらいの体格ではないだろうか。
体は透明で、近い表現としてはクラゲを思わせる。
小首をかしげてこちらをのぞきこんでくる表情には何の邪気もないように思えたが、とはいえこんな存在に人間の感性が当てはまる自信はなかった。
が、できることはやっておこうか。
「違う」
俺は、まっすぐアイザンの目を見て否定した。
「俺はたまたま舟から落ちてきただけで、お前への生贄ではない。
静かにしていたところ、騒がせて申し訳なかった。
仕事もあるので、これで失礼す」
「いや、絶対ウソでしょ?」
駄目だった。
アイザンの苦笑いにつられて、俺も思わず笑ってしまう。
何故だかわからないのだが、俺はこの時点で生き残ることを諦めた。
エルベーナの村がどうなろうと知ったことではないが、不思議なことにアイザンの糧となることは、それほど嫌ではなくなっていた。
元の世界に戻らなければいけない理由も……ない。
そもそもこの場を生き延びるべき理由も……、……特に思いつかない。
朱美が死んで壊れてしまったのは母親だけではなかったのだと、俺は無色の諦めの中で初めて気がついた。
だから、この後の問いかけにも深い意味はない。
「お前さぁ、どうしても生贄が必要なの?」
ただ単純に、聞いてみただけだった。
「え、別にー?」
「は?」
著しく状況が変わった。
「……生贄、別に必要ないのか?」
「……? うん、別にー」
「今まで落とされてきた生贄は?」
「食べたよー?」
「……なんで?」
「くれるってゆーから!
返すのも悪いじゃん?」
「帰せよ!!
今まで、帰してくれって言う奴も一人くらいいただろう!?」
「うーん……みんな、食べて下さいってお願いしてくるかー、黙ってるかー、死にかけかー、死んじゃってたしー。
ほっといて、湖が汚くなるのもいやだったしねーー」
「350年も、ずっと無意味に人が殺されてたのか……」
「あ、わたしが大精霊になったのは70年前だよー。
その前のことは知……」
「どうでもいいわ!!」
アイザンの言葉をさえぎり、俺は本格的両手で頭を抱えてうずくまっていた。
自分が召喚されたこと。
村で袋叩きにされたこと。
生贄が必要だと信じ切っていた村人。
この350年で死んだ、俺以外の34名の命。
俺の覚悟。
全てが無意味だったということになる。
報連相 (ほうこく、れんらく、そうだん)って大事。
職場の研修でしつこく言われた言葉の重みを異世界の湖の底で思い知り、俺はあまりの疲労感に軽いめまいを覚えていた。
「……えーと、大丈夫?」
どのくらいそうしていたのか、戸惑ったようなアイザンの声で顔を上げる。
「「……」」
アイザンと無言で苦笑いを交換する。
「……えーと、……帰る?」
「……ああ」
アイザンの申し出に、俺はゆっくり立ち上がりながら肯定の返事をした。
「帰る。
それから、エルベーナにも生贄が必要ない、っていう話はするからな」
「うん、そうだね……」
異世界からの生贄要員の誘拐というあの村のとった手段は言語道断だが、これ以上無意味な被害者を増やす必要もない。
俺は水中で、見えないため息をつく。
俺とアイザンとの間には、ひどく弛緩した空気が流れていた。
お互いに命の危険があるわけでもなく、生贄制度の廃止についても、元から異世界人の俺と生贄がなくなっても問題ないアイザンからすれば最早どうでもいい話題になっていた。
だから、次の俺の問いかけもどうでもいいものだった。
本当にどうでもいい、しなくてもいいような質問だった。
「なぁ、俺の前の生贄はどんな奴だったんだ?」
だが、これはしてはいけない質問だった。
俺にとっても、アイザンにとっても。
そして今後、俺が殺すことになる全ての人間と魔物にとっても。
「今から10年前でしょ?
わたしより小さい女の子で、黄色い帽子かぶってたよ。
あなたと同じ黒い髪と黒い目で、今まで見たことない大きな赤いカバンしょってて、桃色の布袋も持ってたよー?」
俺は写真の中の、朱美の姿を思い出していた。
目の前には、困惑しきったアイザンの顔がある。
アイザンの首には誰かの両手がくいこみ、誰かが意味のない、手負いの獣のような叫び声を上げ続けている。
真っ赤な意識の片隅で、この咆哮が自分の喉から吹きだしていると気付く。
10年前に朱美が消えた理由。
探しても探しても見つからなかった理由。
俺の全身に残った痛みと、湖の底の冷たい水の温度と、目の前の化け物。
それらが、何の救いもない答えを指し示してくれていた。
前回の生贄に選ばれてしまったのは、俺の妹だったのだ。
俺と同じようにあの村に飛ばされ、冷たい石の床に押しつけられ、叩き伏せられ、一方的な死刑宣告を受け、石をくくりつけられ、冷たい水の底に棄てられ。
そして、アイザンに喰われたのだ。
朱美は殺されたのだ。
あの村人たちに。
朱美は殺されたのだ。
アイザンに。
朱美は殺されたのだ。
この世界に。
朱美は殺されたのだ。
魔導だか霊術だというものに。
殺された、朱美は殺された。
朱美は、朱美は殺された。
殺された、ころされた。
あけみはころされた。
殺された。
俺は叫び続ける。
アイザンの首にかかる指に、力を込め続ける。
自分の意志とは別に、俺は全身で叫び続ける。
人は、水の中でも泣ける。
そんなことを、歪む視界に思い出していた。
「……えーと、どうしたの?」
声が、聞こえた。
目の前の化け物の、アイザンの声。
その、本当に何でもないのだという様子の声に、虚ろになった視線をぼんやりと向ける。
「ねー……」
俺の両手と10本の指は、力を入れすぎて真っ白に染まっていた。
叫び続けていた喉はつぶれ、かすれた息が軋んだ風のような音を出す。
「とりあえず、外すよー?」
アイザンはそんな俺に一切頓着せず、自身の首を絞め続ける手首を掴んで血色の失せた指を振りほどいた。
手首は決して強い力で握られているわけではないが、どれだけ抵抗してもそこから1ミリたりとも動かせなくなる。
それでも尚も暴れる俺を見て、アイザンはひとつ溜息をついた。
「!?!?」
その瞬間に、俺の鼻と口に大量の水が流れ込む。
突然呼吸ができなくなったことと鼻の奥に走る激痛に一瞬意識が薄くなるが、次の瞬間には前と同じよう普通に呼吸ができるようになっていた。
「あー、ゴメンねーー。
とりあえず落ち着いてくんないかなー?
もうあなたをどうこうする気はないんだしー、とりあえずじっとしてよー。
あと、そんなんじゃわたしは死なないよーー?」
一方のアイザンは激しく咳き込む俺の手首を離しながら、苦笑交じりにぼやく。
その首には痣すらも残っていない。
なるほど、俺を正気に戻すため一瞬だけ溺れさせたのか。
咳き込みながら、俺は自分の喉のヒリヒリとした痛みを知覚できる程度には回復していた。
「……で、いったいぜんたいどうしたのよー?
いきなり、酷いじゃない」
アイザンが話しかけてきたのはそれから多分、数分後だ。
のろのろと俺が視線を上げるのを待って、フンと鼻を鳴らす。
「ホントにさー、」
「10年前……」
病人の様な声で、俺はアイザンの言葉をさえぎった。
許せない。
吐きそうになる。
汚し尽して、殺してやりたい。
だが、確認はしておきたかった。
「10年前、お前はその女の子を殺したのか?」
喉も潰れていなかったし、決して大きな声ではない。
しかし、その一言はアイザンの動きを止め、気のせいか周りの水温をさらに下げる程度の響きは持っていた。
「……」
ゴクリと、アイザンの喉が動く。
「殺したのか?」
「……いいえ」
再度の問いに、アイザンはまっすぐに俺を見て答えた。
「嘘じゃないわ、だって……」
否定の質問にピクリと体を震わせた俺を見て、アイザンはそれでも淡々と。
だが、答えにくそうに俺から目をそらして小さな声でつぶやく。
「だって、もう死んでたもの」
天を、仰いだ。
最初に湖の底で気がついたときには白く揺らめいた水面は、今は墨を溶かしたような闇色に染まっている。
俺は自分の身に起きたことを順番に思い出し……半分を思い出す間もなく充分にあり得ることだと結論付ける。
あれは、6歳児が耐えられるような暴力ではなかった。
「死体は……食べたわ。
カバンとか服も残ってない。」
目の前の大精霊は、嘘はついていないのだろう。
全身を包む水の温度と全身を締め付ける痛みの熱感が、俺にそう理解させる。
深い溜息が漏れた。
まだ体のどこかに残っていたのか小さな泡が口から漏れて、目の前で弾けて消える。
「ねぇ、」
「妹だ」
静かな言葉が、アイザンを凍りつかせた。
表情のない俺の顔と、感情の消えた俺の言葉。
全てを理解したアイザンの目からはやがて涙があふれ、浮かんではすぐに周りの水に混ざって消えていく。
湖の温度は変わらない。
アイザンはその場に崩れ、両手で顔を覆って体を震わせ続ける。
俺は黙って、それを見降ろし続けた。
「償うわ」
どのくらいの間、そうしていたのか。
やがて立ち上がったアイザンが俺に告げたのは、その短い一言だった。
「……どうやって?」
アイザンの目に、迷いはない。
透明な瞳はただどこまでも澄み切り、まっすぐに俺の瞳を射る。
「わたしの力を、全てあなたに捧げます。
あなたはその力を、あなたの好きに使えばいい」
アイザンの言葉は、どこまでも清らかで。
「命をもって、償います」
そして、透明だった。
「……」
自分でもわからない、何かの感情に任せて出そうになった叫びを、しかし俺は声にすることはなかった。
理性ではわかっていた。
アイザンが朱美を殺したわけではない。
死体を喰ったとしても、話を聞く限りでは決して悪意があってのことではない。
アイザンに死を求めるのは筋違いだと、理性の中ではわかっている。
「……」
どうしてそこまでするのか。
あるいは、そこまでしなくていい。
人間としてそう言って赦してやるべきなのだろうと、理性ではわかっていた。
「……!」
が、体の奥にどす黒い何かが生まれていることを、俺は否定できなかった。
朱美を喪ってから母が失い、俺が失ってきたもの。
怒りだとか、悲しみだとか、恨みだとか、憎しみだとか。
そういったものでは言い表せない感情が、その底に理性を深く飲みこんでいく。
心を満たす、黒く冷たい悪意。
まるで凍りついたようなそれが自分の中で何かを終わらせたことを、俺は理解し。
受け入れた。
「俺はその力で、人を殺すぞ」
だから、俺は最後にアイザンを傷つけた。
「あの村を壊し、魔法を壊し、世界を殺すぞ」
アイザンの覚悟を、汚してしまった。
「それでも……」
穢れのない透明な湖に、どす黒く冷たい猛毒を垂らす。
「……いいのか?」
俺は、どうしても赦すことができず。
そしてアイザンは、それを許してしまった。
「あなたの好きに、使えばいい」
澄み切った声で、アイザンは笑う。
それは、人間にはできない笑みだった。
人間が、してはいけない笑みだった。
気高く、清らかで、透明な。
冷たさと、哀しみをたたえる。
何かに殉じて、己を捧げる笑顔。
アイザンの体と笑顔には無数のひびが入り、そして砕けた。
それは周囲の水に混ざり、一瞬で無色透明の光に溶ける。
「……」
その全てが湖に消えるのを見送って、俺はアイザンの言った「贖罪」の重さを理解した。
「……馬鹿が」
それは、誰への蔑みだったのか。
誰もいなくなった水の中で一言そう吐き捨ててから、俺は湖の底を蹴った。