白と黒
俺の操る黒のナイトが変則的な動きで、白のポーンの築く防壁を飛び越えて、残り1つとなっていた白のビショップを討ち取る。
ビショップが立っていた場所に我が物顔でそびえるナイトは、そのままクイーンを釣る餌でもあり、ルークに対する牽制にもなっている。
戦争。
国家間での外交状態の1つ。
経済戦争や情報戦争、文化、宗教による戦争を無視すれば、主に大規模な軍事的な衝突を意味する言葉。
当然、俺は直接経験したこともないし、イメージとしては歴史の教科書かその他の本、映画くらいでしか見たこともない。
今の若い日本人の大部分と同じように、具体的に想像ができない。
忌避感があるかと聞かれても、それに答えるだけの知識や経験が俺にはない。
アリスは黒のナイトを無傷で討ち取れる手を探しているようだが、そんなものはない。
ルークを逃がせば自陣に損耗はないものの、それは無意味な1手でもある。
だが、悩みに悩んだアリスは結局その1手を選択した。
ただその一方で、戦争とは本質的に人間が不可避の現象ではないのだろうかとも思っている。
人間には食欲、性欲、睡眠欲の3大欲求が本能としてあるらしいが、おそらく戦ってそれらを勝ち取る、勝利欲か戦闘欲とでも言うべき本能が4つ目にあるのだろう。
もしなければ、生き物として欠陥でしかない。
そして、人間が幸いに、あるいは不幸にも欠陥を抱えていなかったのは、歴史を振り返るまでもなく証明されている。
アリスの手を見た俺は、ノータイムで自陣のビショップを一気に前進させる。
次の手で、このビショップはクイーンを押し倒すことになる。
これで、アリスはクイーンを動かさざるを得なくなった。
左の頬を差し出したときに、自分が次に相手に差し出すべきは白く輝くナイフか黒い銃口、あるいは核ミサイルの切っ先なのが、全能たる神が作ったはずの実際の世界、社会の構図だ。
その神が自分の信じるものと違う、という理由で起こっている戦争すらあるのだから、多分神は存在しないか、いても悪辣なのだろう。
俺としてはいてもらわなくても全然構わないが、いるならいるで話はしてみたいと思っている。
とりあえず、左の頬を殴るところから話はスタートするだろうが。
逡巡の後、白いクイーンは逆に俺のビショップを討ち取った。
だが、すかさず俺の黒いナイトが、女王に狼藉をはたらく。
アリスは無言で、それを見つめていた。
さっき逃がしたルークを動かせば馬を押し潰せるのだが、それに気づいているのだろうか。
ところが、この世界では実際に戦争が起きている。
カイラン大陸の北側に位置するアーネル王国と、南側に位置するチョーカ帝国。
約200年前、正確には194年前に開戦した戦争が、まだ終結していないらしい。
始めた頃の人間は全員死んでいるはずの戦争のために、10代の人間が命を懸けるというのは、非効率な気がしないでもない。
長考の末それに気づいたらしく、アリスはそれを実行する。
俺の顔を見て少しだけ得意そうに笑っているが、甘い。
一気に前進した俺のルークが敵陣の最奥まで侵攻、王城の主人であるはずのキングは、その王城から殺害予告を突きつけられるかたちとなった。
チェック、と本日だけで22度目の俺の言葉が響く。
一瞬で無表情になったアリスの口からは、昨日から3度しか出ていない言葉だ。
無論、200年ずっと戦争をしてきたわけではない。
開戦してから1度も停戦をしたことがないというだけの話で、大規模な武力衝突はこの間12回だけだ。
砦や城を挟んでのにらみ合いは常に継続されており、小規模な小競り合いは数え切れないほどに起こっている。
戦争未経験の俺の勝手なところ感ではあるが、もっとシャキシャキ戦え、と思ってしまうのが本心でもある。
アリスはその指と同じ、白のキングを前に逃がす。
俺のルークはそのままアリスの前を横切り、逆側で安穏としていた白のルークと入れ替わった。
これでアリスの残存兵力はポーン4、ルーク1、キング1だ。
いまだ10以上の駒を残す俺としては、追い込むことも面倒なのでさっさと自決してほしいのが正直なところだ。
が、実際にそうなりそうなのだ。
アーネルとチョーカ、13度目の大規模衝突が近づいている、というアーネルの国中で漏れ出した声は、多くの冒険者をアーネルの南、国境直前のカイラン大荒野を目指させる理由となった。
一方でチョーカもそのほぼ全軍が北上しているとの、もっぱらの噂、いやおそらくは事実がまことしやかに囁かれている。
この戦争はもうすぐ終わる。
アーネルが勝ち、ついにカイラン大陸は統一される、というのがアーネル国内を3ヶ月程前からにわかに活気づかせる最大の要因だった。
「チェックメイト」
俺が短く発した声が、白のキングの生きる道がなくなったことを表していた。
これで俺の3勝0敗、昨日からの分も合わせれば5勝0敗だ。
薬や霊墨、陣形布の補充の途中で見かけた雑貨屋で売られていたチェスセットだったのだが、アリスがここまで弱いとは思っていなかった。
猫足亭で過ごす間の暇つぶしになればと思って買ってきたのだが、軽く涙目になっているアリスを見る限り、二度と使うことはないかもしれない。
持ち歩くものでもないし、バッハに断ってこの部屋の備品にしてもらうかな。
こちらの世界でもチェスが一般的なゲームで、アリスに確認したルールも完全に同じだと知ったときには作為的なものすら感じた。
が、オセロやトランプとほぼ同じゲームもあるあたり、人間の想像力はどんな環境でもあまり変わらないのかもしれない。
罪を犯し、戦争を起こし、闘いを好む。
どんな世界でも、人間はきっとそうなのだろう。
「ずる……」
「くはなかっただろ、別に?
ルールに反する行為は何もしてないし、子供のころにもやったことがあったんだろう?」
「そうだけど、……あなたの手は、悪意がありすぎる」
「お前の手が甘すぎるんだ……。
犠牲が出ないように戦って勝てるのは、駒自体が強いか、違うルールで戦うときくらいだろう?」
「……」
「再戦はいつでも受け付ける」
「……しばらくは、やらない」
子供のようにむくれるアリスに苦笑いしつつ、おれはチェスセットを片づける。
そう、俺とアリスがこれから挑むのは大陸1つを使った戦争だ。
とは言っても、このチェスとはかなり趣は異なる。
盤面には白と黒の駒が並んでいるが、そこに透明なキングと緑色のクイーンだけが乗り込んでいくのだ。
「さて、1手目は誰が、どこに打つんだろうかな?」
小さくつぶやいた俺が部屋の隅に置いたチェスセット。
ケースの中に並んだ白と黒の駒は用済みになった死体のようで、たたんで小さくなった盤面はゲームを楽しむつもりがない、今の俺たちの心情を表しているようでもあった。
……まぁ、そもそも俺は、ルールを守るつもりがないけどな。




