ショート・エール グッド・モーニング
窓枠の形に空が白く切り取られて、ぼんやりと部屋の天井が視界に入ってくる。
隣りで、私を包むような姿勢でまだ眠っているソーマの顔や、クシャクシャになったシーツの輪郭にもうっすらと光が当たり始めていた。
体を包むシーツの中に溜まった体温と、隣りから感じられる少し低めの彼の体温が混じり、油断するとまた眠りそうになってしまう。
だけど、いつかみたいに夕方まで寝てしまうなどといったことは、絶対に避けなければならない。
彼には言っていないけれど、メリンダからは盛大に大笑いされたのだ。
「……ん」
かすれた声がしたので視線を上にあげてみたけど、まだ目を覚ましている様子はない。
眠っているときの彼の顔は、年下かと思うほどにあどけないときがある。
この顔を見られるのは、私だけの特権だ。
そう思うと、なんだかとても、くすぐったいような気持ちになる。
私が起きだすと、寝ている間もその感知能力がはたらき続けている彼を、すぐに起こしてしまうことになる。
杖にふれたり魔導を練習したり、魔力が反応するような行動をとろうものなら、確実に飛び起きてしまう。
だから私の方が早く目を覚ましたときは、いつもこうやって彼が起きるまで、彼の腕の中にいることにしている。
彼は私の瞳の色が好きらしく、食事中などなんでもないときにじっとこちらを見ているときが多い。
逆に私は、起きているときや、ましてや戦闘中の彼からは絶対に想像できない、穏やかで子供のような寝顔を、いつまでも見ていていられる。
……だけど、今日は無理だ。
「うぅ……」
私はギュッと目を閉じて、自分の全身を強く抱きしめる。
足も折り曲げ、まるで卵のように丸くなって、震える。
まだ、全身にあの凶悪な感覚が残っている。
そうだ、昨日、私は……。
ソーマは自分の右手を、精霊からの餞別だ、と嘯いていたが、違う。
あれは、絶対にそんなロマンチックなものではない。
あれは、悪魔の右腕だ。
あれで、私の心は壊された。
あれで、私が17年気づかなかった何かを、引きずり出された。
昨日、私は……。
何を言われ、何をされた?
何を言わされ、何をした?
「~~~~!!」
体が覚えている感覚と、頭が覚えている記憶が、昨夜の全てを忘れさせてくれない。
「~~~~~~~~!!」
自分の痴態と、ありえない言動の数々がフラッシュバックしてきて、私は声にならない悲鳴を上げる。
彼以外の人間にこれを知られたら、確実に私は破滅する。
一生、外を歩けなくなる。
無音の悲鳴と、簡単に屈した自分の体と心に投げつける呪詛が、頭の中で響き続けている。
嫌じゃなかった。
そう思っている、自分が嫌だ!
「うぅ……」
朝からいきなり涙目になった私は、隣で幸せそうに眠り続ける悪魔をにらみつけた。
優しかったけれど、酷い。
酷かったけれど、優しい。
……だけど、容赦がなさすぎる。
それでも彼を嫌いになれない自分は、……嫌いになれない。
「……はぁ」
色々とあきらめた私は小さく溜息をつき、熱くなってしまった額を隣りでまだ眠る彼の胸板にくっつける。
最初に見たときよりもかなり引き締まってきた彼の筋肉は、彼が操る魔導、まるで氷のようにひやりとしていた。
そう、氷。
彼はまるで氷のようだ。
こうして眠っているときや、私で……違う!
私と、楽しい時間を過ごしているときは、あどけない表情や、明るい表情も見せてくれる。
でも、そうでないときは。
永遠に融けないという北の海の氷のように、ソーマの心と瞳は冷たく凍てついている。
その冷たさは、容赦なく人を死に追いやり、殺す。
融かそうと抱きしめても、その冷たさに耐えられずにすぐに離してしまうか。
一緒に凍えてしまうだけだろう。
ソーマは、強い。
水の大精霊として保有する莫大な魔力と、圧倒的な能力。
だけど、それを無視しても彼の強さはあまりに異常だ。
まずは、その知識。
自陣片に家名がないことから、王侯貴族ではないし、おそらく上流階級の生まれでもない。
記憶喪失のため、この世界の常識もほとんど持ち合わせていなかった。
それでも彼の知識量は、ネクタ在住の森人という環境のおかげで幼い頃から大量の本を読む機会に恵まれていた私とも比べ物にならないほど広く、深い。
というよりも、物事の捉え方がこの世界の常識の範囲から大きく逸脱している。
火が燃える。
水が凍る。
木が生える。
傷を癒す。
彼は、この全てを別の言葉で言い換えることができる。
教育を受けた魔導士ですら漠然としたイメージとして納得している、この世界の現象。
彼はおそらく、その大半についてなにか……法則のようなものを体系立てて理解している節がある。
納得ではなく、理解。
この差が、既存の魔導から大きく外れた、彼独自の魔導を形成する源になっている。
そのためか、彼が操る魔導はその見た目や威力に反して、魔力の消費量が意外に少ない。
無駄が、ないからだ。
その上、「白響剣」や「煉獄」など、どれだけ説明を受けてもいまだに理解しきれない魔導もある。
あれと同じ魔導は、おそらく彼以外では発動どころか、そもそも考え付くことすらできない。
逆に、他属性の魔導についても、彼は私よりも深く理解できていることが多い。
たとえばもし、ソーマが木の精霊と契約できていれば、彼は既存の全魔導を、全ての森人よりも完璧に使いこなすことができるだろう。
魔導の部分で言えば、ソーマが他の魔導士と大きくかけ離れている点がもう1つある。
彼は、多分知らない。
魔導士が発動できる魔導は原則として、1度に1つが限界なのだということを。
私もそうだ。
2つの魔導を短い間隔で連続で放てても、同時には放てない。
それは、右手と左手で、それぞれ違う図形を描くようなものだからだ。
上位精霊と契約した高位魔導士が、ようやくできるかできないかという魔導の同時発動。
それを彼は、少なくても3つか4つを日頃から平然と使い、同じ魔導であれば10近い数の行使を、軽い頭痛くらいで済ませてしまう。
右手で丸を描き。
左手で三角を描き。
物語を読みながら。
詩を暗唱し。
そのどれでもないことを考えながら。
ダンスを踊る。
彼がやっていることは、つまりそういうことだ。
頭の中がどうなっているのか、想像もできない。
そう、頭の中。
戦っている時のソーマは不敵な、黒い笑みを浮かべているときが多い。
相手を追いつめるときの声と冷徹な論理は、パートナーの私ですら背筋が冷たくなる。
だけど、彼普段は口数が決して多い方ではないし、ほとんどが無表情、というか仏頂面だ。
……私にそう評されるのは、彼も納得しないだろうけれど。
彼が普段黙っているのは、常にめまぐるしく色々なことを考えているからだ。
いつ。
どこで。
誰が。
何を。
どうするか。
なぜなのか。
彼は常に、ありとあらゆる可能性を考えている。
そこには絶対もタブーもない。
怖くて聞けないけれど、私が敵に回った場合の対処方法も、彼はとっくに確立しているだろう。
1つの目的に対して、彼は自分がとり得る行動の全てと、それまでに起こり得る全ての事象を想像し。
冷徹に取捨選択し、決定している。
だから、彼の言葉には無駄がない。
だから、彼の行動には躊躇がない。
必要な言葉だけを喋り、必要な行動を最適な方法でとる。
そして、必要であれば。
どんな酷い嘘でもつける。
どんな無慈悲な行動でもとれる。
それだけは、わからない。
私は、ソーマのパートナーだ。
この世界中で、彼の最も近くにいる存在は、私だろう。
その私でも、彼の価値観だけは理解ができない。
彼は、あまりに簡単に人を殺す。
状況によっては、人を障害物、景色の一部としてしか認識していないのではないかとさえ思える節がある。
彼は本当に躊躇がない。
表情を1つも変えず、本当に簡単に、あっさりと殺す。
理由を聞けば、検討の末の選択だということは説明してくれるし、実際にそれ以外に方法がない場面が多いから、……納得はしている。
だけど、それを差し引いても、あまりに躊躇がなさすぎる。
納得はできても、理解はできない。
捕縛や説得が面倒だから。
人質になる方が悪いから。
逃がしても仕方ないから。
魔物に負ける程弱いから。
殺す方が簡単なら、殺す。
滅ぼす方が簡単なら、滅ぼす。
彼は決して、殺すことを楽しんでいるわけではない。
だけど、殺してはいけないという概念自体がない。
彼にとってそれはなんでもない、数ある選択肢の1つでしかない。
彼にとって、人の命と幸せは優先するべきものではない。
だけどソーマは、それ以上に自分の命と幸せを軽んじている。
もしくは、諦めている。
彼の判断がいつも刹那的で冷徹なのは、多分これが原因だ。
自分の命が大切ではない人間に。
自分が幸せになるつもりがない人間に。
他人の命と、その幸せの大切さを理解できるはずがない。
だけど、どんな経験をすればそんなことになるんだろうか。
何を見て、何を見せられたら。
何を聞き、何を聞かさられたら。
何を言い、何を言われたら。
何をして、何をされたら。
そんな氷のような、透明で冷たい人間になってしまうのだろうか。
私は、あらためてソーマとのこれからを考える。
彼は強い。
彼は、言ったことは実行する。
彼は、約束したことを破らない。
世界を支配して、戦争をなくす。
私の夢。
荒唐無稽な夢。
でも、彼は実現できると言った。
そして彼は、彼自身の目的でもあるその夢を実現するだろう。
でも、きっと彼は。
多くの人を殺す。
多くの町を潰す。
多くの嘘をつく。
多くの傷を負う。
彼は、私と彼の夢を叶えるだろう。
そして世界を敵に回し、幸せにはなれないだろう。
おそらく、彼自身が無意識にそう望んでいるように。
……でも、だったらソーマ。
そのときは、私もあなたの隣で、あなたの地獄へ……一緒に連れていって。
だけどソーマ、もし……。
あなたが私といることで、少しでも自分を大切にしてくれるなら。
あなたが私といることで、少しでも幸せになれるのならば。
たとえ、あなたが何をしても、私はあなたの隣にいるから。
たとえ、私が凍えても、死ぬまであなたの隣にいるから。
ソーマ、あなたが私の夢を叶えてくれるというのなら。
私に、あなたを救わせて。
あなたに、この体も、この心も、先の人生も全て捧げるから。
お願い、幸せになろうと考えて。
あなたが、私のために死ねると言ってくれたように。
私も、あなたのために死ねるのだから。
無意識に強く額を当てていたせいか、かすれた声とともにソーマが動く。
ぼんやりと開いた瞳の奥は、すぐに凍てついた黒となり。
腕の中の私の瞳を見つめて、少しだけ融ける。
「おはよう、アリス」
まだ、少しだけかすれた。
そして、どこかほっとしたような彼の声が、私をふるわせる。
あなたの氷を少しでも融かせるなら。
私は明日も、明後日も。
死ぬまでずっと、あなたにこう言おう。
「おはよう、ソーマ」
アリス視点の分析なので、当たっている部分も外れている部分もあります。




