生贄
出勤前の日課として、俺はいつものように線香に火を灯し静かに手を合わせた。
仏壇に並ぶ母親と朱美の写真は、それぞれ3年前と10年前の2人の穏やかな笑顔のままだ。
線香の煙に包まれながら、俺はじっと朱美の写真を見つめる。
入学式の日に、自宅の前で撮った写真。
赤いランドセルの右側のフックには、母親が作ったピンク色の給食袋がかけられている。汚れ一つない黄色の帽子をかぶった朱美の笑顔は、10年たっても小学1年生のままだった。
10年前の昨日、俺の1つ下で当時小学1年生だった妹の朱美は下校中に行方が分からなくなった。
学校から友達と帰り、その友達と別れてから自宅までのわずか200メートル。
その間に朱美は消えてしまったのだ。
その日の内に捜索願を出し、シングルマザーだった母親と俺は半狂乱になって付近をかけずり回り、ニュースでも報道され一時はかなり大きな騒ぎとなった。
だが、結局朱美は見つからなかった。
警察の大々的な捜索が終わってからも母親は有力情報に懸賞金をかけ、周囲の駅でのビラ配りも続けていたが、他のどうでもいいニュースに埋もれるように朱美の存在は完全に消えてしまった。
遺体や骨も見つからぬまま、それから7年。
俺と母親は、他にどうすることもできず朱美の「死」を受け入れた。
それからしばらくして、母親は「朱美のところへ行く」と書き残して首を吊った。
第一発見者は、俺だった。
その後、高校を中退した俺は小さなアパートを借り、近くの町工場に就職した。
未だに朱美がどうなったのかは分からないままであることに、もちろん納得はできていない。
……が、それでも整理はついている。
母親と朱美の不在は、俺の日常にとってもはや当然のことになっていた。
いつものように手を下ろしていつものように目を開け、いつものように立ち上がる。
その、瞬間だった。
「!!!?」
紫と白、黒。
円形を基本とした模様の光が、自分の全身に絡みついている!?
覆われた全身が、徐々に……半透明になっていく!?
現状を理解できず声も出せないまま次の瞬間に全身は白い光になり……。
俺の視界は、爆発した。
「っっっっ!!!!」
次の瞬間、俺は背中から石の床に叩きつけられた!
肺の中の空気が一瞬で出て行き、声を出せない。
「っ!?」
さらに、そのまま右頬を何か硬いもので殴り飛ばされたことを激痛で知る!
強い光で目が視えない中、左右の手足と胸の上に何かが圧し掛かってきたのを感じられたが、そうでなくとも体を動かすことはできなかった。
「男か!?」
「早くロープを!」
「早く!」
「武器は持っていないな?」
「わからんぞ、気を抜くな!」
「人間……だよな?」
「村長、大丈夫ですか!?」
「大丈夫だ……、縛ったか?」
「何だ?この服は?」
「よし!」
「油断するな、魔導や霊術を使えない保証はない!」
「轡を噛ませろ!」
「急げ!」
クワンクワンと耳鳴りがする中何人分もの怒号が聞こえようやく視力と全身の感覚が戻ってきたが、背中と右頬の激痛が俺の感覚の大半を占めていた。
鉄と塩気のある味が口いっぱいに広がり、短く呼吸を繰り返す。
「……!!」
手足が動かず、ロープでグルグル巻きにされて床の上にうつぶせに転がされていることがわかり暴れようとするが、すぐに何人かの男が俺の背中を踏みつけてきて、それもできなくなる。
そのまま俺が動けなくなってから、静かで低い男の声が頭上から降ってきた。
「許してほしい」
「ふはけふな! (ふざけるな!)」
叫びながら背筋だけで首を上げようとするが、後頭部から髪を掴まれて石の床に額をぶつけられた。
冷たく湿った石の床はひんやりと冷たく、その温度がこの状況を現実であると俺に伝えている。
頭を押しつけられながらも俺は目だけを左右に走らせ、粗末な靴を履いた足が周りを取り囲んでいることを理解した。
鋤や鍬などの農機具や、木の棒、下手をしたら槍が突きつけられていることもわかり、やむを得ず暴れるのをやめる。
「すまない、許してほしい」
そう届く声に、俺は深く息を吐くしかなかった。
「……」
「「「「……」」」」
「座らせよ」
俺と周囲の沈黙を静かな命令が裂いたのは、その数分後だと思う。
「魔導や霊術を使おうとすれば、その時点で殺す」
「……?」
同時に、全く理解できない単語が続いた。
魔導や霊術。
その単語の意味を考えるまでもなく、膝をつかされ、肩を引っ張られながら視界が上がっていくにつれ、……俺は、ここが日本ではないことを理解した。
そして、おそらく地球でもないことを。
農村の納屋か倉庫なのだろう。木の柱と石の壁、石の床でできた空間で16人の男たちが手に武器を持ち俺を取り囲んでいる。
木でできた扉は閉め切られており、ランプの炎が全員の顔を赤く照らしていた。
そして、俺の眼前に立つ老人が先程から声を発していた人物で、おそらく村長なのだろう。
俺の周りを取り囲む男たちのほとんどが土などの汚れが目立つ白や茶色やくすんだ緑色の厚い布でできた普段着で身を包んでいるのに対し、村長は光沢のある素材でできた、汚れの一つもない漆黒のローブをまとっている。
純白の生地でできた襟元には、紫色の宝石が銀色の金属で包まれた首飾りがかかっていた。
長い白髪は後ろになでつけられており、やや細められたその瞳は静かに、まっすぐに俺の目に向けられている。
さほど身長は高くないのだが、泰然と立ったその姿勢が彼の存在を大きく見せていた。
だが、俺の目は周りの男たち俺に突きつけている農具や槍、剣よりも、村長の右手にくぎ付けになっていた。
その手には、オレンジ色に揺らめく炎でできたナイフ、正確には「ナイフ形の炎」が握られている。
アパートで俺を包んだ光の紋様。
本物の剣や槍。
魔法、霊術という言葉。
そして何より、目の前で燃える炎のナイフ。
俺は、今自分が居るのが地球以外の世界であること。
そして、冗談抜きで自分が死にかけていることを悟った。
俺の視線が右手の炎のナイフに注がれているのを感じたのか、村長は少しの火の粉を散らしてナイフを消し、両手を腰の後ろで組んだ。
「お客人よ」
そしてあらためて、語り始める。
「ここは、水の大精霊様のおわすエルベ湖の門である村、エルベーナ。
私は村の長を務める、バラン=モルシュ=エルベーナである。
お客人をこのような状況においていること、まずはエルベーナを代表してお詫びする。
しかしながら、縄を解くことはできぬし、客人殿の言を聴くつもりもない。
先程ご覧になられたように、私はある程度の霊術を修めている。また、周りの皆の中にも腕に覚えがある者は多い」
低く静かな声で続くのは、自己紹介としては最悪の文面だ。
さらに……。
「暴れられたり、詠唱の素振りを認めれば、躊躇いなく殺す」
「……」
村長は、それに輪をかけて最悪の一言を付け加えた。
とりあえず俺は暴れることはせずに黙って、といっても猿轡のせいでどうせ喋れないのだが、村長の言い分を聞くことにした。
「さて、お客人にはこれからエルベ湖におわす水の大精霊様にその身を捧げていただく」
「ふぁあ!?」
が、これには流石に反射的に叫んでしまう。
「黙れっ!!」
「っ!!!!」
左側に立っていた中年の男から胸に手加減のない蹴りを見舞われ、俺はまた倒れこみ、咳き込んだ。
が、そんな俺を引きずり起こさせて村長の言葉は続く。
「……これまでの10年間のエルベ湖のお恵みへの感謝とこれから先10年間のお恵みへのお祈りとして、エルベーナが興ってより350年、大精霊様には10年に1度、贄をお捧げしている。
これより客人殿は舟で湖の中心にお連れし、大精霊様の糧となっていただく。
もちろん、これら一切の事情が客人殿には何の関わりもないことも重々承知している」
そこまで言うと、村長は深く頭を下げた。
「どうか、お許しいただきたい」
「……」
あまりに一方的な通達と謝罪に、俺は怒ることも暴れることもできずに、ただ唖然としてしまった。
何が「もちろん」なのか?
村の為に必要な生贄になれと、今から湖に放り込みますと、そのために異世界からさらってきましたと、この老人が厳かに告げたのはそういう内容なのだ。
あまりに自分勝手で、そして容赦が無さ過ぎる!
ここまでふざけた理由の誘拐などあり得るのか!?
「……」
……ただ、想像を絶する理不尽に混乱する頭の片隅で、俺はこの手段に感心もしていた。
村からすれば、全く無関係な人間を水死させることで、水の大精霊様とやらの加護を受けられるわけである。
何の損もなく、逆に村から生贄を選出するとなれば村人の、少なくともその家族の苦しみは耐え難いものだろう。
おそらくは閉じられたコミュニティの中、栄誉と村のためという名実共に曖昧な理由のために、表立って断ったり逃げたりすることも難しいはずだ。
あるいは、時代劇でたまにある人柱もこんな感じだったのかもしれない。
もっとも、そうだとすれば狂信の前に人命は埃のように軽かったのかもしれないが。
あまりの非常事態に俺がわけのわからない自問自答に溺れていると、村長は頭を上げ、そのまま背を向けて扉に向かって歩き出した。
俺を取り押さえていた男の内最も体格のいい若い男が俺を肩に担ぎ上げ、その後に続く。
周囲の男たちも俺に武器を突き付けたまま、周りを歩きだした。
首をひねると桟橋の横に木でできた舟があり、漕ぎ手なのであろう若い男が櫓のそばで立ちすくんでいるのが見えた。
俺の姿を見て顔が蒼白になっているのが、ここからでもわかる。
他にも3人の男が桟橋で待機しており、全員が村人たちの普段着とは違う青い模様の入った白いローブを着こんでいた。
村長が舟に乗りこむのを見て、俺は自分の死期が……。
思っていたよりも、ずっとすぐ傍まで迫っていたことを実感した。
「~~~~……」
次の瞬間、俺は体の動かせる部分すべてを動かして全力で暴れたが、すぐに土の地面にたたき落とされ、村人たちが武器を振り下ろす影を最後に……。
俺は、意識を失った。
次の瞬間、舟の上で顔を殴って起こされた俺の目の前には、不思議なほどに澄みきった湖が広がっていた。
「許せ」
その村長の静かな声を最後に、俺の意識は冷たい水の底へ沈んでいった。