アフター・エール 真黒なる戦い 1
「まくろなる」です。
「じゃあ、時間も限られていることだし、早速始めようか」
ウォルポート領主館の、地下の会議室。
午後3時を知らせる四の鐘が鳴ったと同時に、私とミレイユの間に立っていたシムカの唇が開いた。
昨日のお茶会を終わらせた第一報のときも途中からそうだったように、その声と口調はソーマのものになっている。
ただ、今日のそれは私の夫やアイリの父親としてじゃなく、4つの大陸と5属性の大精霊の中心である『霊央』としてのものだ。
なので、私も彼の妻としてじゃなく、眼前の円卓に置いた木の大精霊フォーリアルの契約者として。
同時に、ウォル生産部統括として顔を向ける。
隣のミレイユも彼と私の友人としてじゃなく、あくまでもウォルの領主代行として。
そして、今現在のスリプタで最強の存在たる当代の火の大精霊として赤い瞳を向けていた。
「「……」」
アンゼリカたち『十姉弟』も変わらない。
ウォルの各部の代表者として、全員がいつになく真剣な表情を浮かべている。
それは、各国からの大使たちも同じ。
アーネルのモーリス、チョーカのラメル、ネクタのモロー、エルダロンのフルヴォン、サリガシアのキスカ。
全員が、世界会議の時期やこの間のチョーカの食糧危機のときですら経験したことのない緊張感に包まれている。
だけど、当然だと思う。
この空気を作り出しているのが、その大戦を終結させた、あの『浄火』ライズを討った『魔王』本人だからだ。
そんなソーマが、エレニアたちとサリガシアで遭遇しているもの。
そして、私たち他の大陸の住人も直面するかもしれないもの。
その存在が、それほどに危険だと。
対応を間違えれば本当に世界が滅ぶかもしれないと、他ならぬ彼自身が考えているからだ。
……顔に力が入っているからか、少しこめかみが痛い。
ミレイユもアンゼリカたちも同じような顔をしているし、もしかしたら各地の大精霊や王たちも同じような切迫感を覚えているのかもしれない。
今、彼ら彼女らの前ではシムカと同じように、ソーマが派遣した水の上位精霊たちがソーマの声で口を開こうとしているはずだ。
普段と同様の大使を通じた書簡のやり取りでは、今後の対応が間に合わなくなる可能性が高い。
内政干渉や防諜といった観点から各国に無理強いしてこなかった国家中枢への水の上位精霊の配置も、当代の水の大精霊はその一言と共に昨日の各国への連絡の中で強行を宣言している。
各国の首脳部でそれを話し合う時間の猶予すらも認めず、要請というかほとんど命令のそれだけを伝えて、一方的に連絡も打ち切ったらしい。
「まず、あらためて各国には昨日の非礼を謝罪する。
加えて、そんな中でも俺を信用し、眷属たちの配置と今日のこの機会を受け容れてくれたことを感謝する。
それに報いるためにも、今現在サリガシアで起きていることについて、当代の土の大精霊エレニアと共に俺が知り得たことを全て説明したいと思う」
本当に、そうだったんだろう。
それを追認するかのように、シムカから流れるソーマの言葉はお詫びとお礼から始まった。
……でも、ここにいる大使たちもそうだけど、多分、各国のお城の中でも非難の声を上げている人はいないと思う。
私たちが今考えるべきところは、そんなどうでもいい部分じゃない。
「その前に確認だが、昨日から今現在までで俺に何の連絡もなかったということは、サリガシア以外の各地で泥夢は発見されていない……ということで、いいな?」
あの『魔王』にして『霊央』ソーマ=カンナルコに、これだけの危機感を抱かせる相手。
ソーマとエレニアたちは、それを泥夢と名付けた。
サリガシアの言葉で、お酒を飲みすぎたり麻薬を吸ったときに見る悪い夢のことらしい。
……実際、そうであってほしいと思う。
「しつこくて申し訳ないが、『死者の姿を写し取る、黒い油のような何か』だ。
サリガシアの他で発見の報告はない、ということでいいな?
各地の代表者より、返答を」
そんなものは、せめて目を開ければ解ける夢の中だけの悪ふざけであってほしい。
「ウォルおよびウォルポートでは、ありませんわー」
「同じく、儂もネクタの森人たちも見ておらん」
この会議室の中では、ミレイユとフォーリアルがそれぞれシムカに答える。
ちなみに、王制じゃないネクタの森人の代表者は4つの区議会のトップである4人の区長だけれど、今その4人は一番サリガシアに近いカンテンの区議会所に集められている。
代表者兼連絡役としてその場にいるのは「森人どもに任せておけば、どうせ話し合いばかりで父上や水殿の時間を浪費するだけであろうから」と昨日乗り込んでいった木の上位精霊筆頭のムー様で、今のフォーリアルの返答はそのムー様からの【思念会話】を受けたものだ。
ネクタ出身の私としてはアーネルやチョーカが採用する絶対王制にあまりいいイメージはないのだけれど、指揮系統が単純で対応が素早く進むのは、確かにこういう緊急時には見習うべきところなのかもしれない。
「……全ての場所からの返答を確認した。
サリガシア以外で泥夢は発見されていない、何よりだ」
数十秒の沈黙の後、シムカの口からは深い吐息の混じったソーマの声が流れる。
この会議室、アーネル王国の水天宮、チョーカ帝国の帝城、カンテンの区議会所、エルダロン皇国の皇邸ピエモーン。
3大陸5ヶ所の王の言葉を派遣された水の上位精霊たちが聞き取り、それをソーマに【思念会話】で伝え、ソーマがそれに対する返答を【思念会話】で送り、受け取った上位精霊たちが声に出す。
世界全体と会話するという、まさに『霊央』と称されるにふさわしい御業を実行しながらも、その言葉にはただ明らかな安堵だけに満ちていた。
「じゃあ、まずはここまでの経緯を……昨日は説明しきれなかった分も含めた上で、あらためて説明していく。
その後に、今把握できている限りの泥夢の能力と今後の対処方針について伝えたい」
この世界の住人の1人としても、彼の妻としても。
そしてアイリの母親としても、その事実が恐ろしい。
「俺たちが泥夢の存在を知ったのは、昨日の朝のことになる。
サリガシア最南東のバルナバで会議を開いていたときに、その北隣、サリガシア全体で言えば東部のほぼ中央に位置するかつての『牙』の陣営の王都ベストラが、5年前の大戦で死んだはずのその『牙の王』に落とされた……という報告が入って、会議の参加者のほぼ全員、約300名ですぐに移動した。
ちなみにベストラの規模だが、アーネル王国の王都と同じ程度だ」
全員の視線が、円卓に広げられたサリガシアの地図の上で『霊央』の声を追う。
「そのベストラは、本宮、王城にあたるザイテンも含めて大半の建物が破壊されていて、わかっているだけで5万人が犠牲になっていた。
会議の前夜時点で特に知らせはなかったことから、長くても半日足らずでベストラはこの状態になったと考えられる。
補足しておくと、この5万人はほとんど全員が人族中近接戦最強の獣人で子供でも冒険者Eクラス相当の強さ、5千はいたはずの軍人に至ってはAかBしかいないようなレベルでの話だからな」
「「……」」
何かの災害が直撃するか、竜の群れに襲われるか、大精霊が本気で滅ぼそうとするか。
そのどれかでしかあり得ない量とペースの犠牲者数に、ミレイユ以外の全員が顔を蒼白にしている。
多分、私もそうなっているんだろう。
魔人ゆえに顔色が変わらないミレイユも、皆と同じように慄然とした表情は浮かべている。
「そのザイテンの前で現れたのが、肌や白目も含めて本当に全身が黒一色の先代『牙の王』ナガラ=イー=パイトスとその配下の『大槍』サマー=ワイ=ハッセオン、冒険者ギルドの支部長だった『赤土』キリ=サラン=マーカスだ。
今俺の声が届いている人間たちならそれぞれの名前くらいは聞いたことがあるだろうが、3人ともが獣人……というか人族全体でも最強クラスの戦者で……、……5年前の大戦で、間違いなく死んだ奴らだ」
そして、私とミレイユも含めた全員の眉間に深い皺が寄った。
「ナガラはこちらを認識した瞬間に『惰弱』と発言後、『十二牙』、オリハルコン製の大剣を土属性【拡構】で長さ60メートルに相似拡大して振り下ろしてきたので、これを土の大精霊エレニアが鉱物と土属性魔導無効の権能をもって防御しようとするが、なぜかその権能が発動せず失敗。
俺が氷で防御した後にエレニアがナガラへ斬撃を、ヒエンがサマーへ殴撃を当てるが、いずれも人の形をした液体に触れたような結果となり効果はなし。
テンジンも土属性【穿角弾】でキリを攻撃したが、結果は同じだった。
会話も試みるが、感情や魔力を感じられず返答もなし。
……その直後に、少し離れた所の瓦礫の鍋にあった黒い液体が、別のナガラになって立ち上がった。
同時に同じ人間が2人現れたことから、死者本人が復活したわけではないとこの時点で俺は判断し、全員に攻撃を指示した。
何かの生物か現象か魔法……、……より踏み込むなら、おそらくはここ最近で召喚された存在だろうと、そう考えた」
淡々と事実を辿っていくソーマの声には、一切の高揚感も冷たい悪意もない。
多分、意識してなんの感情も込めないようにしているんだと思う。
「が、その攻撃が始まる前に、エレニアが斬りつけた1人目のナガラがエンジュ=エル=リシュオン、14年前の『服従の日』に死んだエレニアの母親に姿を変えて、ヒエンが殴ったサマーの方は200年以上前に老衰で死んだ先代『木竜』のヒイラギ、ヒエンの祖母に姿を変えた。
2人とも……2人目のナガラの方も含めて、やっぱり全身黒一色の姿だ。
エンジュとヒイラギとは一応会話が成立して、その相手のエレニアとヒエンに聞く限りでは記憶も性格も、使う魔導や戦闘技術も生前の本人そのものだったらしい。
ただ、その記憶と性格のままで、2人は本気でそれぞれの娘と孫を殺しにかかっていた」
あるいは、心臓の辺りからせり上がってくる不快感と戦っているのかもしれない。
「その間、後方で展開していた300人の周りには、3人目のナガラと2人目のサマーと先代『毒の王』ネハンと『宴』のナンシーが現れていた。
前衛と接触する中でサマーは4人目のナガラに変化して、ネハンは先代『爪の王』エリオットに姿を変えていた」
私たちと、同じで。
「で、俺はその計8体の死者モドキを水と氷で閉じ込めた。
体組織に一切の水が含まれていないこと、呼吸していないこと、100度の熱湯に沈めても死なないこと、人間を紙の厚さくらいにできるような圧力をかけても潰せないことが、とりあえずはわかった。
それを調べていた中身がいつの間にか、子供の頃に死んだ俺の妹の姿で泣き叫んでいた」
「「!?」」
誰かが、首を絞められたような小さい息をした。
無音の悲鳴のようなその風は、私の顔の前で透明なシムカの体にぶつかる。
「氷が壊れた後に、それは…………先代の水の大精霊、アイザン「様」……、……失礼いたしました。
アイザンの姿に変わっていた」
そのシムカの水でできた体でも、小さな波紋が消えようと……いや、消されようとしている。
シムカの喉に混じった、シムカ自身の声。
「アイザンは体を構成するのと同じ黒い液体で洪水を起こそうとしたので、他の7体もろともに周囲一帯ごと、俺の切札の何でも解かす水で消し去った。
その直後に各地へ入れた連絡が……昨日のアレだったわけだ」
それは、もう完璧にソーマの声に戻っている。
最後の部分、きっと彼は小さく苦笑いを、無理矢理に捏造したんだろう。
「「……」」
誰も、何も言葉を出せない。
本当に、悪い夢であってほしいような話だ。
「というわけで、ここからはその連絡を入れた後の話だ」
だけど、これは現実なのだ。
「少しだけ時間を戻すが、8体の泥夢を消した後、俺たちはサリガシア北端の霊山アトロスにある黄竜の巣の近くで、先代の土の大精霊ガエンが現れたとの報告を受けた。
参考までに、俺たちが戦っていたベストラから直線でも800キロ以上離れた場所に、アトロスは位置している。
……泥夢の出現は局地的なものではなく、サリガシア大陸の全域に広がっている可能性が高い。
どころか、最悪の場合は他の大陸にも既に存在している可能性を否定できない。
そう判断して、上位精霊を通じて各地に第一報と、今日のこの場への参加要請を出すことにした」
だから、続きがあるし終わりはない。
「その後、俺とエレニアを含む約250名でアトロスから最も近いチチブという都市へ転移したが、既にその時点で黒一色のガエンは2体に増えていた。
ただ、エレニアの指示で『土竜』ヤルググが黄竜たちを退避させていたのとガエンの移動速度が元々遅いということもあって、幸いに戦闘には至っていなかった。
俺とエレニアがガエンに対処しようと接近する中で、1体のガエンが姿を消した。
正確には、350メートルの巨大な亀であるアダマンの姿から人間サイズの別の死者に姿を変えたから、一時的に視界から消えただけだった。
俺とエレニアが感知したその姿は……、……ライズだった」
「「……!」」
ついに、その名前が出てしまったと思った。
560年前に世界の半分を焼き尽くし、5年前にも世界を滅ぼそうとした魔人の王。
『創世』以来の2千年以上のこの世界の歴史上、間違いなく最多の人間を殺した、間違いなく最強の人間。
あのソーマが主義も手段も問わず世界中の、どころかこの世界を見守る『時の大精霊』の力もかき集めてなお、差し違えるのが精一杯だった『浄火』。
「……」
そして、ミレイユを。
チーチャを、テンジンを、その身に宿る全ての魔人たちの想いを背負った『魔の王』。
私たち人族が、世界が、二度と戦いたくない相手。
私たち人族を、世界を、一人で灰に変え得る相手。
そんなライズが、わけのわからない死者として復活して……。
「そのライズだが、自爆した」
「「……はい?」」
わけのわからないことになったと、ソーマの声が言った。
「より正確に言うと、俺たちを視認した瞬間に……多分【闢火】を発動させようとしたんだと思うが、それが完成する前に自分の体が炎上して燃え尽きた」
「「……」」
ミレイユが、見たことのない表情をしていた。
安堵と、呆れと、悔しさと、疑問。
全部が等量で混ざった結果、無表情のまま左目の下だけがヒクヒク痙攣している。
小さく口を開けたままの私の横目に、そんな魔人の姿が入ってくる。
「ちなみに、隣のガエンもその余波を受けて体の半分近くが炎に包まれていた。
それを受けて、エレニアが土属性高位の【熾基紅溶】でガエンの残りの部分を攻撃。
溶岩流が触れた部分からさらに炎は広がり、アダマンの体が巨大な分多少の時間はかかったが、最終的にはこちらも灰も残さず消失した」
言いたいことは色々あるけれど……、……とりあえず、一旦安心していいのだろうか?
「その後、チチブの中でも3体の死者……いずれもチチブ出身で武名を馳せた獣人の死者たちだったらしいが、俺も初耳だったレベルのローカルな英雄たちだったようなので、名前は割愛する。
3体の死者モドキが陣に近づいてきたが、これを火矢で攻撃。
最初は命中しても火が消えていただけだったが、20から30本が命中した段階でいずれも炎上、やはりそのまま消失させることに成功した。
この後、ベストラに残した別働隊もナガラとサマーに遭遇しているが、それぞれ3、4本の松明を押し当てることで燃やすことができたそうだ」
「「……」」
……よさそうだ。
先代のアイザンを冒涜した泥夢のあまりに簡単な弱点の発見にシムカが冥く喜んでいるのではなければ、流れてくる声には少しだけ笑みが混じっている。
多分、シムカの先の彼の唇は小さくつり上がっているはずだ。
それすなわち、『氷』にして『黒衣の虐殺者』ことソーマ=カンナルコが、勝利とそれをもたらす残酷な魔導の行使を宣言する『魔王の微笑み』。
なら、私たちは胸をなで下ろしていい。
向けられる方はたまったものじゃない……、……本、当、に、たまったものじゃないけれど、彼の味方として目にする分にはあれほど頼もしい表情はない。
妻としても「おぞましい」としか表現しようがないし、親としても娘には「あれだけは絶対に真似しちゃダメ」と言い聞かせるような表情ではあるけれど……。
それでも、私たちは安心していい。
……いや、これは現実逃避か。
「同様に、今この時点までで発見したヨルトゴ、チョウミン、ナゴン、ロメオ、レンゲの泥夢計16体は、いずれも火を用いた攻撃で消失させることに成功している。
ただし、この内レンゲは先に……キリの姿になった2体と黄竜の姿になった2体に暴れ回られていて、都市1つが壊滅した後だったが」
それなら、あんなに焦って強引に今日のこの場を設ける必要なんてない。
「「……」」
全員が呆然と、卓上のサリガシアの地図を見つめている。
ベストラとチチブを合わせれば、既にサリガシア大陸全体の北東側3分の1。
それだけの場所で、泥夢が発見されていた。
そう、発見できているだけで。
「これで、ここまでの経緯の説明は終了だ。
同時に、今がどういう状況なのかを理解もしてもらえたと思う」
うん、ようやく理解ができた。
ソーマが、エレニアたちとサリガシアで遭遇しているもの。
そして、私たち他の大陸の住人も直面するかもしれないもの。
「おそらくは火で簡単に殺せるらしいことがわかったとはいえ、それはこちらから一方的に先制攻撃できればの話だ。
もしベストラやレンゲのように発見や対処が遅れれば、都市や下手をすれば王城の中で大精霊級の力が炸裂することになる。
しかも、それができるやつが1匹限りじゃなくて、どれだけいるかもわからない。
もちろん、どこにいるかもわからない。
それが、今の俺たちの状況なんだ」
泥夢が、どれほどに危ういものなのか。
「さて、ここからはその泥夢そのものについて、わかっていることを羅列していく。
……まぁ、昨日と今日で対峙したときはこうだった、という部分から類推しただけで、断定しきっていいものかどうかは若干怪しいんだがな」
世界に、災いをもたらすものなのか。
「まず、本来の姿……なのかどうかから既に『おそらく』が必要にはなるが、本来の姿は黒い液体、油のような物体だ。
最小のサイズがどれくらいなのかはわからないが、少なくとも鍋の底に溜まっていた1キロくらいの量から人間1人を再現できることはわかっている。
逆に最大のサイズは見当もつかない。
魔法と同じで無から有を創るように巨大化できて、黄竜やガエンの姿にもなっている。
アイザンの姿で起こそうとした洪水の中身も水ではなく増殖したこの油で、そのときの量は数十万トンにも達していた。
成分は不明だが、少なくとも水は一切含まれていない。
引火することから炭素は含まれているのだろうが、やはり油に近い物質なのだと考えられる。
今のところ、エネルギー源も不明だ」
部屋の中の全員が、手元の紙にペンを走らせる。
単語や事実の点と点を繋げて線に、線と線を繋げてその行く先を。
これが考えるという、想像するという行動の第一歩だ。
それができない人間に、何かを守ることはできない。
「元が液体だからか、泥夢は形に関係なく武器や拳での攻撃が全く効かない。
これは魔法でも同じで、水属性も土属性も何かをぶつけるようなタイプの攻撃は無意味だ。
呼吸もしていないと考えられるため、風属性も使える魔法はほとんどないだろう。
木属性については、油をどうにかできるような成分を放つ魔法があるなら有効かもしれないが、試してみないことにはなんとも言えない。
現状、泥夢を殺せた方法は燃やすか、分解するかしかない。
ただ、分解に関してはおそらく俺以外が再現するのも、制御するのも不可能だと思う。
よって、攻略方法としては今のところ高熱を近づけて引火させる、一番簡単な手段で言うと火をつける一択だ。
魔法で起こした火でなくても有効なのは確認しているが、ある程度の量は必要になる。
カイランとエルダロンについては各地に火種と松明、火属性の魔道士を用意しておくのがすぐに思いつく備えだな。
火の扱いが苦手なネクタについては、ある程度の数の火の上位精霊を派遣する方向で調整したいと思っている。
まぁ、それは他の各国に対しても同じだが。
……ミレイユ、そういうわけだから後で全ての上位精霊の数と契約者の所在を確認、報告しろ。
そこから各地に振り分ける」
私の知る限りで、ソーマは最もその想像力に長けた人間の1人だ。
同時に、その内容を躊躇なく実行できる人間でもある。
主義も倫理も感情も関係なく、必要なら武力も財力も権力も振るうことができる強さを。
その強さを使う覚悟を持つ『魔王』。
「当代の火の大精霊として、確かに承りましたわー」
「すまぬの、2人とも」
世界を変える者。
その強さと覚悟は、9年前、そして5年前まではバラバラだった世界に、言葉だけで1つの防衛線を築いていく。
水の大精霊の指示に火の大精霊が頷き、木の大精霊がそれに感謝する。
私とモローも頭を下げて、それに応じたソーマは……少しの間、無言になった。
「……で、その泥夢だが、死者の姿を写し取る能力を持っている」
また、無言の時間。
多分だけど彼自身は深い溜息をついていて、シムカがそれを音にしていないんだろう。
「これに関しては断言しておくが、あくまでも写し取る能力だ。
記憶や性格もある程度再現しているようだが、それでも絶対に死者本人じゃない。
同時に2人の本人が復活するわけがないし、そもそもアイザンもライズもあんな馬鹿なやつじゃないからな。
発動条件は、おそらくその死者に会ったことのある人間が直接触れることだろう。
どういう基準で写し取る死者が選ばれているのかは、まだ確かなことが言えないが……。
……ああ、それからこれもおそらくだが、生きている人間の姿にはなれないらしい。
俺を含めた当代の大精霊やそれに近い強さを持った人間が、誰も出てきてないからな」
だけど、続けられた内容を考えれば、ソーマがそうしてしまった気持ちはよくわかる。
愛していた人や、親しかった人や、憧れていた人や、畏れていた人。
火という弱点があるとはいえ、彼らや私たちはこれからその姿をしたものと延々戦い続けて、殺し続けることになるかもしれないのだ。
……それを思うと、どうしても考えてしまう。
「死者の姿になった泥夢だが、サリガシアでのことを話した通り全身が、眼球の白い部分や口の中なんかを含めて本当に全身が黒一色だから、人間なのか見分けがつかなくなるというようなことはない。
技や魔法も生前に使えたものは全て再現できるようだが、それも全て増殖した泥夢での再現になる。
よって、武器であっても金属じゃないし、魔法であっても魔力や精霊、実際の物質は絡んでいない。
特に後者は強く意識しておかないと、相手の魔法を完封できるレベルの高位魔道士ほど痛い目を見ることになる。
ライズが自爆したのも火を生み出したからではなく、おそらくは再現しようとした【闢火】の温度が泥夢そのものの自然発火点を超えたからだろう。
……ここまで見てきたものだけで判断すると、泥夢は技や魔法、もしかしたら死者の姿も『現象』として再現しているだけなのかもしれないな」
自分が泥夢に触れたとき、いったい誰が現れるのだろうかと。
私は、彼のようにその誰かを殺せるのだろうかと。
「……あぁ、それから。
説明の部分としてはこれが最後になるが、これからの泥夢との戦いにおいて大前提となることを話しておく」
「「……!」」
今まで味わったことがない種類の、嫌悪感。
確定している地獄に踏み込まなければならない、絶望感。
それに沈もうとしていた私たちに、ひどく静かな声が投げ入れられた。
部屋の中の全員が、おそらくは彼の声を聞いている世界各地の全員も、その硬さと冷たさに背筋を伸ばす。
「泥夢と、共存できるとは思うな」
続いた言葉には、まるで氷のように一切の温度がなかった。
「泥夢が、何を目的にしているのかはわからない。
そもそも生物なのか、現象なのか、魔法なのか、意思疎通ができるのかもわからない。
もしかしたら俺たちの対応に問題があっただけで、実はちゃんとした手順を踏めば和やかな死者との再会を仲介してくれる夢のような存在なのかもしれない。
あるいはそれが叶わなくとも、資源や兵器として世界の役に立てられる存在なのかもしれない。
が、それでも断言する。
仮にそのどれであったとしても、俺たちは泥夢がこの世界に存在することを認めてはならない。
必ず、滅ぼさなければならない。
泥夢の在り方は、いずれは必ず死ぬという生き物の在り方を。
それを基準として成り立つ人間の在り方を、否定するものだからだ」
そして、揺らぎも迷いも全くない。
「仮に、本当に死者を復活させているのだとしても、俺たちはそれを許してはならない。
それは生きた者の、そして生きる者の価値を陳腐化させる行動だからだ。
命やそれを費やして生きるという行為が尊いのは、いつかは永遠に失われるのだという、そこに唯一無二であり有限のものだという価値があるからだ。
その根底を否定することは、人間として、生き物としての在り方の大前提を否定することに他ならない。
簡単に、大量に代わりを用意できるものに価値はない。
それは、命や人生も同じだ。
今の俺たちが泥夢に恐怖や嫌悪を感じているのは、泥夢が死者の、つまりは生きていた者の価値を著しく下げてしまう存在だからだ。
同時に、それはまだ生きている、そしていずれは必ず死ぬ俺たちの価値に対しても同じだ」
それは、これが『霊央』の言葉だからだ。
私たちを、この世界を守るためにどうすればいいか考え抜き、悩み、選択し、その結果を背負うと決めた王の声だからだ。
「泥夢との共存を許した場合、いずれ生きるということそのものに価値がなくなる可能性がある。
いつでも死者に会えるのならば死を恐れる必要はなくなり、命ある者は死を避けるためにやってきた努力をする必要もなくなる。
最高も最良も最善も最愛も目指す意味がなくなった世界に、向上や進歩は生まれない。
それを何代も重ねれば、その生物は滅びに対抗する力や知識を作り出す力さえも失うだろう」
それが伝わってくるから、私たちからも揺らぎや迷いが消えていく。
覚悟が、決まる。
「俺たちは、泥夢の在り方を認めてはならない。
それは、過去から現在に至るまでの全ての命ある者たちの行動を否定し、これから生きる者にとっては確実に未来を閉ざす選択だからだ。
…………まぁ、私怨もあるけどな」
「「……」」
そんな私たちの頬を、最後の一言が少しだけやわらかくした。
全員が声にならない苦笑いをする中で、背中や指先にあたたかい血が流れていくのを感じる。
五大精霊の中心たる『霊央』。
「さて、ここからは質疑の時間にしよう。
それが落ち着いたら、具体的な配備についても相談していきたい」
そして1人の人間でもあるソーマも、幾分か力を抜いて座り直したようだった。
明けましておめでとうございます。
2026年が、皆様にとってよいお年でありますように。




