アフター・エール 真白なる闘い 前編
ましろなる、です。
少し肌寒い……、……なら、好都合か。
白くぼやけた視界の中で俺がまず思ったのは、そんな今日という日への実利的な第一印象だった。
目の奥からこめかみに渡る鈍痛に、首の後ろにドロリとしたものが固まっているような不快感。
体を横たえたままの手と足には、上手く力が入らない。
良好とは言い難いコンディションの中で、それでも俺の【水覚】は接近してくる物体を知覚する。
五感で捉えるのと同じように自然に、しかし五感ではあり得ない精度でまだ半分眠ったままの脳裏に映し出されるのは、全長101センチ、つまりは【氷艦砲】の直径とほぼ同じその物体。
が、その質量は水と同じ比重1で概算しても15.6キロと、実に100分の1程度しかない。
「パーパー、あーさー!」
「……」
というか、厳密に言うならばそれは身長と体重だ。
全力疾走から寝室のドアを体当たりするかのように開け、その勢いのままにベッドに突撃してくるのは、もちろんアイリ。
目を閉じ直した俺を揺すりシーツ越しにペシペシと肩を叩いてくるその破壊力は……なるほど、確かに戦艦主砲の直撃の1パーセントほどのダメージを俺に与えてくる。
「起きた? おはよう! ぐっどもーーーにーんぐ!!」
「……」
今日も元気そうで、何よりではある。
……ただ、俺にとってもアイリにとっても残念なのは、その元気を叩きつけられている側に全く元気がないことだ。
というか、眠い。
ものすごく、眠い。
返事をする気が起きないくらいに、眠い。
言うまでもなく、その原因はつい2週間前に決まったサーヴェラ隊のフランドリス行きへの準備のためだ。
隊の教導の実務にはミレイユを専属で当て、そのメンバーが抜けた後のウォルの運営は他の『十姉弟』に任せ、育児をはじめとした家のことについてもほとんどをアリスに丸投げする。
それだけの仕事から解放されても尚、俺の睡眠時間と体力はとっくに限界を迎えていた。
半年後には実戦を迎えることになるサーヴェラたちを鍛えるための、専用カリキュラムの策定と調整。
それに伴い必要となる大量の物資を調達するための、各商会との会合。
演習場としてカイラン大荒野やウォル沿岸、各地の魔物の生息地を使用するための、そして演習相手や講師として騎士団や冒険者パーティーを派遣してもらうためのアーネルとチョーカ、冒険者ギルドへの根回し。
ハイアを通してフリーダと重ねる、サーヴェラ隊のフランドリス駐留によって起こる直接的、間接的な影響の予測とそれへの対策。
そのフランドリス駐留を伝えると共に、アネモネを通して『獣王』ソリオンとエレニアに連絡する俺のサリガシア入りの意向。
その席で整理を依頼した現時点での『真王派』との戦況に、主立った『新旗派』、『黒獣派』の概況の更新。
それを基に分析を重ねていく、サリガシア大陸南側の展望。
その後に予測される、サリガシアとエルダロンそれぞれでの動き……。
これらを全てを並行して考えるのに24時間は短すぎたし、半年は早すぎた。
それでも時間は止まらない。
世界は待ってはくれない。
そして往々にして、物事というのは序盤の出来でほとんどの結末が決まってしまうものだ。
今、仮に俺が妥協すればその分だけ多くの人間が傷つき、打つ手を間違えればそれに比例した数を死なせることになるのだろう。
その悲劇を多少の無理でどうにかできるなら、今は無理をするべきときだ。
ただ、その一方でサーヴェラ隊以外のウォルの住民たちにも、同じように世界は存在し時間は流れている。
前の定例会で出た獣人の問題を半年間放っておいていい理由にはならないし、早くに手を打った方がいいのはこちらも変わらない。
俺が守りたいのは、サーヴェラたちだけではないのだから。
となると、つまりは多少以上に無理をすればいいわけで……。
「起きてない! 起きて! うえーー、アーーップ!!」
「…………」
そういうわけで、俺はこの2週間のほとんどを徹夜と朝帰りで乗り切っていた。
昨日……というか今日にしても家に戻ってくるときには空が藍色に変わり始めていたから、4時を過ぎていたのではないだろうか。
コロモにすら着替えずベッドに入ったとき、目を覚まさせてしまったアリスには「弐の鐘まで起こさないで」と頼んでいる。
つまり午前9時に当たる時間、もっと言えば今日開催する祭りの準備に間に合うギリギリの時間だ。
……が、感覚的に、今は絶対にその時間ではない。
「……ママは?」
「朝ごはんのパン、もらいに行ってる!」
朦朧とする頭でアイリに確認すると、それを裏付ける証言が感嘆符つきで返ってくる。
なるほど、ということは今は朝食の準備をする時間なわけだ。
つまりは……、……ほぼ夜明け直後か。
「……ママから、『パパは昨日遅くまでお仕事だったから、起こさないで』とか言われなかった?」
「言われた!」
目を閉じたまま、消えない頭痛と共にシーツを被り直しながらの問いかけに、愛が理る人になってほしいと命名した娘はフルパワーの肯定。
「だから、ママにはナイショにしてください!」
「…………いや、内緒も何も……」
眠気に混ざり始めるのは、斬新……というよりもいっそ哲学的なものさえ感じさせるアイリからのお願いに対する混乱だ。
こういう、意外とその場の感情に任せて突き進んでしまうところは、間違いなく母親からの遺伝だと思う。
一方で、俺を共犯に巻き込んでそのママからのお叱りを回避しようとする狡猾さは……まぁ、俺からか。
面白さと自己嫌悪の間というこれも珍しい取り合わせの感情を味わいながら、俺は寝返りと共に反省する。
いやいや、子育ての序盤はまだまだ終わっていないはずだ。
「パパ、お祭り!」
「……」
剥ぎ取られる、シーツ。
仕方なく薄目を開けると、ベッドに登ってきたアイリは満面の笑み。
俺と同じ色でアリスと同じ絹のようなやわらかさの髪の上には……、……既に薄緑色の毛皮のフードがきっちりと装着されている。
4歳生であることを表わす薄緑色に染められた、上下一体のヤギの毛皮の防寒服。
分厚いフードを縫いつけてあるそれは、厚手の着ぐるみパジャマのようだ。
サリガシアの耐雪装備を参考にしっかりと油も塗り込めているため、毛艶も相まってアイリの笑顔が眩しく映る。
「お祭りー!」
まぁ、親の贔屓目を差し引いても可愛いのは認める。
若干、油臭いが。
そして、今日の昼から開催する住民の親睦のための大がかりなイベント、すなわち「お祭り」でその服が必要なのも認める。
……ただ。
「……それ着るのは、参の鐘の前でいいんじゃないか?」
「すぐだもん!」
すぐ、じゃねぇ。
6時間後を「すぐ」だと言っていいのは、世界が滅ぶかもしれない戦いの直前だけだ。
……が、今日の臨時イベントを楽しみにしていたアイリからすれば、確かに6時間後はすぐだと感じるのかもしれない。
いや、おそらくは隣のスピカも、アイリの1つ上のニアとランティアの娘をはじめとしたウォルの子供たち全員もそうはしゃいでいるのかもしれない。
この世界に召喚されてもう8年。
25歳となった今となっては、幼い子供たちのその夢中になれる感覚が愛らしくもあり羨ましくもある。
今の俺に、この子たちのような夢幻の想像力と無限の体力はない。
だから……、……やっぱり、眠い…………。
「ねーなーいーでーー!」
「……おやすみ」
再び寝返りをうった俺の腰にかかる、15.6キロの重量。
天下の『魔王』に馬乗りになるという暴挙に出たアイリは、世界でもう1人だけそれを可能とするアリスそっくりの唇を尖らせる。
ベシベシ、ペチペチと叩かれる俺は打楽器にでもなった気分。
別に痛くはないが、できればもう少しペースを落としてくれるとありがたい。
「おーきーるーのーーー!!」
が、むしろペチペチのBPMはどんどんと上がっていく。
……やむを得ないか。
「おやすみ」
「み゛ゃーーーー!?」
腹筋だけで上体を起こした俺は、そのままアイリを捕獲。
一緒に倒れ込んだ後は、右手で小さな薄緑色の背をトン……トン……とゆっくり叩く。
少しだけ肌寒い朝、胸に広がる愛娘の体温がひたすらに心地よい。
「ね、寝かしつけられようとしている!」
その通りだ、おやすみ。
「眠くないもんー! おーきーてーー!」
うん、力も強くなったな。
そのまま元気に、だけど今だけは少し大人しく、愛が理る人になってくれ。
「パーパーーーー!」
「時間になったら、ちゃんと一緒に行くから……」
「おーまーーつーりーーーー!」
……本当、その無限の体力はどこから湧いてくるんだよ?
「…………アイリ?」
「……!!」
今にも俺の腕を吹き飛ばそうとしていたその無限を氷結させたのは、しかし、ただ一言の静かな声だった。
いつの間に帰ってきていたのか、寝室のドアをくぐる成人女性としてはやや小柄な影。
当代の木の大精霊の契約者にして、俺の最愛。
すなわち……。
「……アリスだよな?」
……いや、違うかもしれない。
一瞬【氷撃砲】の発動すら選択肢に浮かんだのは、声でも魔力でも【水覚】でもアリスだとわかるその存在の外見が、真っ黒だったからだ。
アイリの着ている完成版の試作として作られた、ヤギの毛皮の防寒服。
上下一体かつ何の装飾もないそれには、もちろん同色のフードも付いている。
それに通された紐は風が入らないように固く絞られ、顔に当たるはずの部分にはたった1つだけ、大きな穴と深い闇が広がっていた。
そこから垂れる、2房の銀髪……。
真っ黒な体、尻尾はない。
耳も目も鼻も見当たらず、巨大な口だけがある。
巨大な牙はナイフよりも太く、長い。
ハッキリ言って、直立して二足歩行するガブラにしか見えない。
「ギャーーーー!?!?」
当然、アイリは大騒ぎだ。
「帰ってきてたーーーー!?」
……いや、どうやら自分のママと理解した上での悲鳴だったらしい。
「……ただいま」
フードの紐を緩めると、現れるのは憮然とした表情のアリス。
かすかにパンの匂いと……やはり油の臭いを漂わせたアリスは本物のガブラをしのぐ速度で踏み込み、問答無用でアイリを抱き上げる。
普段は優しい緑色の目は、『魔王』を緊張させる程度には笑っていない。
「あ、あのね……」
「ママ、『パパはお仕事で疲れてるから、起こしちゃダメ』って言わなかった?
とにかく、ここだとパパの邪魔だからお話は台所で」
それを向けられる側の同色の瞳に浮かぶのは、絶望の光。
魂を抜かれたように大人しくなったアイリを抱えたまま、直立ガブラは廊下の薄闇へと歩みを進めていく。
絵面としてはもはや完全に魔物が幼子を攫っていく惨劇の光景なのだが、自分でも呆れるくらいに助ける気もその元気も湧いてこない。
それよりも、疑問が1つ。
「……ママさ、まさか今の格好で外に出てたのか?」
「今日は寒かったから。
すごくあったかいから、貰っておいてよかった」
「おど……いや、恐がられなかったか?」
「…………多少」
だろうな。
まぁ、工房で試作品を見た瞬間に「欲しい」と言うまでは予想できていたのだが、まさかそれで外に出るとは……。
確かにシーツを被った「てるてる坊主 (業務用)」よりはマシかもしれないが、見た目は完全に討伐任務が組まれる危険生物だ。
しかもそれでまだ暗い森の中をうろつくなど、子供たちにとっては完全なるトラウマ案件だろう。
寒がりなのはわかっているが、仮にも『至座の月光』と呼ばれる存在がそれでいいのかとは問い質したくなる。
……まぁ、「それでいい」と即答されるだけだろうが。
「そうか……、……じゃあ、とにかく9時までは寝るから。
アイリのことは、よろしく」
廊下へ向き直る黒い後ろ姿とその肩越しに助けを求める娘の表情をあらためて眺めた後、色々なものを諦めた俺は頭を枕に戻す。
まぁ、それでも、アリスにはただただ感謝だ。
「う、裏切られたーーーー!?」
「そんな約束はしてないだろ、おやすみ」
「……大丈夫?」
「ああ……。
……アイリ、お祭りには時間通りに連れて行くから。
これは約束な」
「……ぶぅ」
再び振り返ったアリスに目を閉じたままうなずき、その肩越しのアイリと約束を交わし、意識を手放す。
アイリの無限の体力を、温度と一緒に分けてもらえたからだろうか。
眠りに落ちていく中で、頭痛と首の不快感はほとんど感じなくなっていた。
1部の『ファースト・コンタクト』、3部の『スリーピング』を読んでいただくと、さらに楽しめる内容となっております。