アフター・エール グッド・ナイト
「ただいま」
「おかえりなさい」
完全に日も暮れて、だけど【灯火】と月光石で夕方くらいの明るさにはなっているリビングのソファーの上。
私が読んでいた小説のページから玄関の方へ顔を向けたのと、外の闇から溶け出したようにソーマがドアをくぐるのはほとんど同時だった。
「アイリは寝たよな?」
「とっくに」
「だよな……」
マントを受け取りつつチュッと唇だけを合わせながら、多分12時間ぶりくらいに交わすのはそんな会話。
残念そうなというより疲れた表情を浮かべた彼は、音を立てないようにアイリの寝室へと向かう。
準校にお迎えに行った後、五の鐘が鳴る前には夕食を食べて、一緒に四番湖でお風呂に入って、先週私の農場に連れて来られてからますますヘビーローテーションになっている『勇者アーク』シリーズの読み聞かせをして……。
ここ何日かそれに一切参加できていないソーマが溺愛する娘と言葉を交わすには、アイリがトイレで起きない限りはまだここから10時間くらい待たないといけない。
「……例によって、シーツに巻きつかれてたけど」
「ベッド、柵がある方がいいのかな?」
「怪我するような高さじゃないけど、頭から落ちるのは怖いしな」
「後からつけられるのって、売ってた?」
「あったと思う、多分……。
いいのが見つからなかったら、俺が作るよ」
「うん」
それでも、寝顔を見てまるで【爆灼】のような寝相を直してあげることで、多少はアイリ成分を補給することができたらしい。
少しだけ険がとれた表情になったソーマは、ボスンとソファーに腰を下ろした。
「お風呂、どうするの?」
「……あー……、……もうこれでいい」
おかえりのキスのときに感じた、強いインクの匂い。
左だけ二重になった瞼に、まだ浅くはない眉間のしわ。
そこから入浴していないことを悟った私の問いかけに、面倒くさそうな表情を浮かべた彼が溜息をつく。
比喩じゃなく透明になった彼がやっているのは、全身の【精霊化】。
一瞬で体についている汚れどころか中身まで全部綺麗にできるそれは、確かに合理的だけど……。
「……かなり、疲れてる?」
「…………まぁ」
ソーマ=カンナルコという人間がどんなに忙しくても絶対に朝と夜はお風呂に入る綺麗好きで、それも可能な限り妻と入ろうとするへ……もとい愛妻家であることを知っている私からすれば、すごく異様なことだと映る。
「もう寝る?」
その証拠に、キッチンで晩酌の準備をしていた私が手を止めても彼は何も言わなかった。
「……そうする」
つまり、晩酌の後にだいたいしていることも今夜はする元気が残っていないということで……、……これは本当に重症だ。
「今日もハイアとの話し合い?」
「そう……だけど、結論は出た。
明日朝一から最後の詰めをして……、……そのまま定例会でアイツらにも言うよ」
ボトルを片付けてソファーに座っても、右隣のソーマは天井を見上げたままだ。
【精霊化】で体の汚れや筋肉の疲れはリセットできても、精神的な負荷をなかったことにはできない。
まだ残ったままの眉間のしわが、「アイツら」の部分で深い影を作る。
『風竜』ハイアを通しての、エルダロン皇フリーダからのとある要請。
先々月の頭から続いていたその折衝、ソーマをもってしても即決はできなかったその内容を、もちろん私とミレイユは聞かされている。
だから、いちいち苦悩の原因を質したりはしない。
今日、彼が下した結論の重みを理解できているからだ。
選択するというのは自由の証明でもあるけれど、その裏で求められるのは決断した結果に対する責任と覚悟だ。
それが、一介の冒険者からウォルの領主となり今は『霊央』として、世界全体のバランスに手が届くようになったソーマのものともなると、重みの桁が違ってくる。
彼の選択は数十、数百万の人を救うことも。
また、逆に数十、数百万の人を殺すこともあり得てしまうのだから。
……もちろん、申し訳ないとは思っている。
彼が今抱えている苦悩は、私と出会わなければ無縁だったはずのものだ。
戦争をなくしたい。
全ての不幸な子供たちを救いたい。
この残酷な世界を変えたいと願い、その責任を背負うと覚悟していたのは、他ならない私なのだから。
……だけど。
だけど、同時に。
「ソーマ、はい」
「……」
ソファーの左端にずれてから、サンダルを脱いで彼の方へ向き直る。
ポンポンと叩くのは、緩く折りたたんだ自分の足。
青地のコロモの裾を伸ばすと、意図を理解した彼の頭がそこに降りてくる。
イラ商会からもらった当初は3人用でも大きすぎると思ったこのソファーも、こうして膝枕をしてあげるときはちょうどいいサイズだ。
「そんな顔だと、アイリが怖がる」
「……ぶぅ」
「っ」
まだ固い表情のままの彼の頬を撫でると、意外と似ているアイリの真似が返ってきて吹き出しそうになる。
少しだけやわらかくなった頬をもちもちとこねた後は、人差し指を目頭の方へ。
眼窩に沿って軽く押す度に、ピクピクとした振動が伝わってくる。
そのまま2周、3周。
「ぅー……」
閉じ切れていない口から、小さく漏れる声。
眉間のしわを潰した後は、そのまま指先をこめかみへ。
押すというよりは筋肉をずらすイメージで、小さく円を描いていく。
薄い耳をしっかり揉んだ後は、顎先から骨を辿ってまた頬へ。
掌に感じるのは、ほとんどアイリと同じ温度になったやわらかさ。
「あなたがそう決めたなら、私もそれでいいと思う」
「……」
無言で見上げてくる彼に、微笑みを返す。
「ミレイユも、それにあの子たちも同じ。
私も含めて皆、あなたが決めたことを手伝えるくらいには強くなったから。
……あなたは、もう1人じゃない」
だけど、だけど同時に。
彼が「苦悩していること」を嬉しく思う私がいるのも、また事実だ。
なぜなら、彼が苦悩しているのは簡単には殺せないから、簡単には滅ぼせないからだ。
多くの人の命と幸せを、優先しようとしているからだ。
自分の命が大切で、幸せであろうとしているからだ。
他人の命と、その幸せの大切さを理解できているからだ。
その上で私の……いや、今はきっと「私たち」のものになった夢を叶えようとしているからだ。
それでも幸せになろうと、しているからだ。
「私が、ミレイユが、皆があなたの隣にいる」
決して冷たいだけの氷なんかじゃない、こんなにもあたたかい人間だからだ。
「……そうだな」
私の手の中で、黒い瞳が静かに閉じられる。
一切の力が抜けて、アイリと同じあどけない表情となっていくソーマ。
小さな溜息はそのまま穏やかな寝息に変わり、掌に伝わる温度が少しだけ上がる。
安らかな顔の、眉間にしわはもうない。
彼を起こさないように、軽く頭を撫でる。
愛おしさと力の強さを比例させることに、意味はない。
30分くらいしたら、ベッドに移ってもらえばいいか。
そんなことを考えながら、アイリと同じ色の髪を梳く。
指に通るのは、こっちまで眠りそうになるような心地よいあたたかさ。
ソーマの、あたたかさ。
『魔王』。
『霊央』。
彼をそう呼ぶ残酷な世界の時間は、それでも1秒ずつ過ぎていく。
だけど、どうか今だけは。
私のために、ウォルのために、そして自分自身のために背負うと決めたその二つ名のことを忘れてほしい。
ただの、人間のソーマであってほしい。
この幸せな時間を、生きてほしい。
だから、その一番近くで私は明日も、明後日も。
ずっと、ずっと、あなたにこう言おう。
「おやすみ、ソーマ」
あなたは、愛を讃ずる人。
あなたが、私たちを幸せを希むように。
私たちも、あなたの幸せを望んでいるのだ。
もちろん、1部ショートの『グッドモーニング』と対になっています。
ソーマもですが、アリスも成長しましたね。