アフター・エール 母なる月光
「こうして、勇者アークは将軍セギンを打ち倒し、バルドー姫を助け出しました。
その後にアークとバルドーは結婚し、いつまでも幸せに暮らしましたとさ……」
「……」
私たちカンナルコ家は3人家族だけれど、毎日絶対に3人が揃うわけじゃない。
例えば、月に2回の「お泊まり準校」の日は当然ながらアイリは不在だ。
……まぁ、その日は私とソーマも休みをとって王都だったりラルクスだったりに行っているから、厳密には全員が不在の状態なんだけれど。
それ以外の理由で3人揃わないとなると、基本的には今日みたいにパパことソーマが不在の場合だ。
特にアイリが生まれてからは、原則として夕食の時間より後に仕事を入れないようにしている彼だけれど、それでも『魔王』として『霊央』として、彼の選択はこの世界にとってどうしても不可欠なものになってしまう。
明日の朝にはエルダロンへ出立しなければならない『風竜』ハイアとの話し合いが、完全に決着していない。
シムカの口を通してそれを伝えられた結果、今夜のカンナルコ宅のリビングにいるのは私とアイリの2人だけとなっていた。
「めでたし、めでたし」
「……」
普段よりも広く感じる、布張りのソファー。
その左側、定位置に座った私の膝の上では、私と同じ緑色の小さな瞳が『勇者アーク』の最後のページを見つめている。
彼と同じ黒い髪の小さな頭の向こうに見えるのは、結婚式でアークとバルドーがキスをしている場面の挿絵。
子供向けのやわらかいタッチの、だけど細かい部分まで精緻に彫り込まれている版画の中では、鮮やかな色彩で2人が微笑み合っている。
ちなみに、この『勇者アーク』シリーズの著者の名前は、マックス=カンナルコ。
もしかしなくても私のお父さんで、この本は元々私が子供のときに実家で読んでいた本だ。
アイリのために、それをカミラギから送ってもらったわけだけど……、……あらためて読んでみると……その、すごくロマンチックな物語であることに気がつく。
たった1人でもひたすらに自分の信じた正義を貫くアークに、敵国に囚われても人の善の心を諦めないバルドー。
大人になって、親になって自分の子供へ読み聞かせながら想うのは、こんなまっすぐな物語を編んで子供だったお姉ちゃんや私に読み聞かせた、お父さんの心の中だ。
同じ大人に、親になったからこそ。
すごいな、と素直に思える。
「……なんで、キスするの?」
「……え?」
だけど、そういう感慨はやっぱり大人や親にならないと抱けないものらしい。
「なんで、好きだとキスするの?」
振り返って私を見上げながら唇を尖らせるアイリの感想は、その1点に終結していた。
どうして、人と人は好きになるとキスをするのか。
大人として、親として、あるいは人としてなかなか即答するのは難しい質問だけれど……。
「相手との心の距離が、一番近くなる行為だから」
忘れてはいけない。
私の夫はあのソーマで、親友はあのミレイユなのだ。
個体としても集団としても人間を客観視している『魔王』に、数百年の憧れと数千年の叡智を持って人間を見つめてきた『賢者』。
そんな2人を前にして、「ロマンチック」という言葉はあまりに無力だ。
「アイリも、仲良くなった人とは近くでおしゃべりするし、友達とは手を繋ぐでしょ?
おじいちゃんやおばあちゃんや、ネクタのおねえさんやリリちゃんや、それにチーちゃんやタキちゃんとはギュッとしたりするでしょ?
パパやママとは、おでこにキスするでしょ?」
「うん」
……残念ながら、そんな2人に一番近い位置にいる私にとっても。
「人にとって、相手との心の距離が近くなるっていうのはとても大切で、幸せなことだから。
アークとバルドーはお互いにもっと近づきたいから、心を1つにしたいと思ったからキスをしたの」
「……むー」
さらに言えば、その先に性行為や生殖行為があるわけだけれど、流石にまだ4歳のアイリにそこまでは説明しない。
信頼の証に距離を近づけ、一体となる安心感。
そして、それを相手に許されるという多幸感。
「……パパとママも?」
「そう、パパとママもいつまでも一緒にいたいと思ってるから」
「……うん!」
それが、人が生きる上でとても大切な意味を持っているということ。
そのことをぼんやりとでもわかってくれれば、それでいい。
「……だから、お口とお口のキスは大事なの。
アイリも、将来結婚したいと思う人のためにちゃんととっておいてね?」
「みゅー」
最後に母親としてのアドバイスも伝えながら、嬉しそうに笑うアイリをギュッと抱きしめる。
今はまだ、全てが理らなくてもいい。
だけど、大人として、親として、そして同じ女性として。
アイリに伝えてあげたいことは、それこそ自分が子供の頃は想像もしていなかったくらいに、本当にたくさん。
本当に、たくさんあった。
「ねぇ、パパとママの最初のキスは、どんなだったのー?」
「……」
だけど同じように、伝えたくないこともある。
「やっぱり、アークとバルドーみたいな感じ?
結婚式のが最初だったのー?」
「ぇ、えーっと……」
煮え切らない彼を、私の方から押し倒した。
まさかそんなことを即答できるはずもなく、ロマンチックを期待しているアイリの瞳から視線を逸らす。
もちろん、私の方にも言い分はある。
世界に絶望しかけていた私と、世界に絶望しきっていた彼。
私は彼の冷たい強さを、彼は弱い私のあたたかさを。
繋ぎ止めようと、溺れさせようとした結果の、絶望と絶望の交換。
恋するよりも先に愛し合っていた、運命的な出逢い……。
……では、確かにあるのだけれど。
「それとも、何回か『でーと』してから?
1回目で手をつないで、2回目でギュッとして、3回目くらいで?」
「ど、どウだっタカな……」
それでも、まさか殺し逢いの数十分後には体を捧げる話を切り出していたとは言えず、やけに具体的な数を出してくるアイリの前で私はしどろもどろになる。
「キスは、やっぱりパパから?
ママは『かれん』な感じで?
おーしーーえーーーてーーーー!」
「……うぅ…………」
「食われるって、こういうことなんだと思った」。
猫足亭での初めての夜の後、彼に冗談めかして言われた一言を思い出す。
客観的には事実だけど、確かに私も否定はできないけど!
……何故か、お母さんのニヤニヤ顔が浮かんでくる。
お父さんは……すごく可哀想なものを見る目でこっちを見てる!
ソーマは……、……あなたが距離を空けようとするのはおかしいでしょう!?
「マーマーー!
きーきーーたーーーいーーーー!」
「ひ、秘密!」
大人として、親として、女性として、母親として。
私は娘に、こんなことを理ってほしくない!
「マーマーー!!」
「ほら、夜なんだから静かに!
それに、もうそろそろ寝ないと……」
「ずーるーーいーーー!
話がち-がーーうーーー!!」
確かに、話が違う。
暴れるアイリは私の腕の中にいるのに、2人の心は遠いままだ。
ただ、ぼんやりとではあるけれど。
お父さんが、私を冒険者にしたくなかった理由を。
ソーマが、アイリを冒険者にしたがらない理由を。
母親になって初めて、私は理解することができた気がした。
……というわけで、このソーマとアリスの出逢いの経緯も詳しく書かれている書籍版1巻が、明日7/30よりヒーロー文庫にて再び出版されます。
未読の方は是非、「なろう」版の内容を大規模に加筆修正し新エピソードも加えたこちらの『クール・エール』もお楽しみください。
文庫版限定の、可愛すぎるアリスの表紙が目印です!