ショート・エール ソーマ=カンナルコ 後編
『クール・エール』は読み返すほど「深く」できるように作っていますが、ここまでの『ソーマ=カンナルコ』はその集大成です。
時間が許すのであれば是非1から3部を再読し、その後でもう一度この4編を読んでみてください。
「おかえりなさい」
ノックせずドアが開けられた瞬間に、だけど私は特に驚くこともなくソーマを迎える言葉を口にした。
何か特徴があるわけでもないけれど……どうしてか、彼のものだとわかるようになった足音。
それを聞き取るまでもなく、だんだんと強くなるこの涼しくやわらかい魔力が、数十秒前から彼の帰宅を私に教えてくれていたからだ。
「ただいま」
そのことをわかりきっている彼も、今はいちいち不思議そうな顔は見せない。
一直線に台所へと歩いてきたソーマは、洗った手を拭きながら振り返る私に腕を伸ばす。
「ただいま」
「だから、『おかえり』って言った……ん」
抱擁と、キス。
朝、出かける前に交わしたそれとの違いは、彼から濃いインクの匂いがすることだろうか。
唇を離した彼を見上げると、瞼が二重になりかけている。
昨日と同じで、どうやら今日もひたすら書類仕事だったらしい。
「体調は?」
「……だから、別に何も。
昨日も……というか、妊娠が確定した後からほぼ毎日言ってるけど、顔を合わせる度に聞かなくても変わったことがあれば私から言うから。
このやり取り、もう止めにしない?」
それでも、彼の次の一言はやっぱりこれだ。
心配してくれていることには感謝しつつも、さすがに鬱陶しいと声色で示す。
まぁ……彼がそれだけ私たちの子供のことが、私のことが大切なのだということもわかりきっているから、あまり強くも言えないんだけど。
……それに、何度言ってもどうせまた聞いてくるし。
「ご飯は、あと火を入れるだけだから」
「じゃあ、先に風呂入るよ。
火入れるのは、その後でいいから」
「そう、じゃあ、いってらっしゃい」
「……」
「……どうして、私は『何言ってんだ、こいつ?』みたいな顔をされてるの?」
可愛いところ、あどけないところ、子供っぽいところ、自分勝手なところ、意地悪なところ、カッコ悪いところ……。
他の国にとっての『魔王』、ウォルの子供たちにとっての絶対の英雄であるソーマ=カンナルコも、自宅だと結構普通の……いや、むしろ割と大人げない人間だ。
「……」
「……落ち込んだ顔をしても無駄…………泣きそうな顔も!」
あるいは……私の、アリス=カンナルコの前では。
「……」
「……わかったから」
「よし!」
一緒にお風呂に入ることを了承して、ようやく私は腕の外へ解放される。
私の手を引く彼の嬉々とした様子に、思わず私も笑ってしまった。
まぁ、このやり取りも毎朝毎夕のことなのだ。
「……なぁアリス、そろそろこのやり取り止めにしないか?
毎回毎回、時間の無駄だと思うんだよ」
「どの口が、それを言うの!?
あなたのそういうところは、私はあんまり好きじゃない!」
「大丈夫、他の部分で取り返してるから」
「開き直らないで!」
「ちなみに、俺はお前の全部が好きだよ」
「とりあえず真顔で言えばいい、ってものじゃないから!」
ふざけながらも、ソーマが湯船に満たしたのは私が好きな少しぬるめのお湯。
さらに、体を冷やさないようにと浴室の気温と湿度も一気に上げてくれる。
彼をジトっと睨みながらも私は、間違っても転ばないようにと差し出される手をしっかり握った。
何だかんだと言いつつも、やっぱり彼とのお風呂が一番楽なのは事実だ。
妊婦や小さな子供、体調の悪い人がいれば誰かしら手伝ってくれる四番湖ももちろん楽だけれど、私の好みを知り尽くしていて、かつ私が全く気を遣わないで済む相手はやっぱりソーマしかいない。
彼が私の体に触れて安らぎを感じるように、私も彼の体に触れているときは安心できる。
「薄くない?」
「……ごめん、少しだけ塩が欲しいかも。
やっぱり、疲れてるな」
湯船の中でのんびりと過ごし、お互いの体を流し合った後。
コロモに着替えて台所に戻った私たちは、少し遅めの夕食を始めていた。
白身魚のマルクパイと、フラクと雪菜葉のミルク煮。
野菜サラダに、丸パンとチーズ。
飲み物は、私に合わせてあたたかいサンティ。
塩をパラパラと落とした彼は、2切れめのマルクパイにフォークを突き刺す。
昨夜に引き続いての、彼と2人の夕食。
うんうん頷きながら3切れめにフォークを伸ばす彼と、自然に浮かんだ微笑を交換する。
これは、偶然じゃない。
カミラギのお父さんとお母さん、カンテンのお義兄さんとお姉ちゃん、隣のニアとランティア、『猫足亭』のバッハとメリンダ……。
見たり聞いたり話したりした限りでも、ソーマと私が触れ合う回数はどんな夫婦よりも桁違いに多い。
その9割は、彼からのものだ。
キスする、抱きしめる、もたれかかる、手を握る、それが叶わないなら見つめる……。
私と彼の目が合う機会が多いのは、視界に入る限り彼が私を見ていることが多いからだ。
もちろん、彼も直接的なスキンシップは基本的に2人だけでいるときしかやらないけれど、眠っているときでさえ彼の手は常に私に触れているのだから徹底している。
だけど、これは私への独占欲なんかじゃない。
もっと根源的な不安……いや、恐怖と呼ぶべき感情だ。
手から離れてしまわないように。
失わないように。
守ろうとするように。
彼は、私を。
家族を失うことを、酷く恐れている。
今だから言えるけれど、出会った当初は監視されているのだろうかとも思っていた。
無駄のない言葉と、躊躇のない行動。
殺すことや滅ぼすことを手段の1つだと割り切れる、凍てついた思考。
透明で冷たい、『氷』。
彼に全てを捧げると決め、おそらくは当時に唯一彼のあたたかい一面を知っていた私であっても、その全てを理解しきることはできなかった。
それに明確な変化をもたらしたのは、結婚前に受けた彼の告白だ。
この世界の、人間ではないこと。
この世界に、家族を奪われたこと。
この世界が、好きではないこと。
この世界で、生きる意味がなかったこと。
彼が心から笑うために、欲しかったもの。
彼が幸せになるために、求めていたもの。
私は彼の家族になって、はじめて「ソーマ」という人間の大部分を理解することができた。
……ただ、それでもやっぱり踏み込めない部分はある。
彼は、未だに元の世界での生活については話したがらない。
科学や技術の知識なら楽しそうに語る彼が、実際にどんな暮らしをしていたか……、……特に、母親のことだけには絶対触れようとしない。
表情に出さずとも気持ちくらいはわかるから、今の私でもその話題だけは避けるようにしている。
…………多分、大切にされていなかったんだろう。
そして、おそらくはその記憶が彼の冷たさの根源だ。
人の命と幸せは、必ずしも優先するべきものではない……。
ソーマがそんな非人間的な考え方に到達したのは、自分の命と幸せを軽んじていたからだ。
自分の命が大切ではない、自分が幸せになるつもりがない。
そんなことすら想像できない人間に、他人の命とその幸せの大切さを理解できるはずがない。
これが、刹那的で冷徹な彼の強さの正体だ。
判断基準になる自分に価値がないのだから、それよりも価値が低くなる「敵」に価値を感じられるはずがない。
周囲の人間の価値が路傍の砂粒と変わらないのだから、それは容赦なんてしないだろう。
歩くときに、踏まれる地面の痛みを想像する人間なんていない。
それは劣等感というにはあまりに冷たく、あまりに寂しく、あまりに残酷な感情だ。
まるで夜に湖の底を覗き込んだような、凍てつく黒。
冷たくて深くて、ただどこまでも続く闇のような黒。
世界よりも大きくて、氷よりも冷たい影のような黒。
痛みも、苦しみも、怒りも、哀しみも。
その全てが永遠に氷結した、極寒の絶望。
永遠に広がり続ける、世界の影よりも冥い虚無。
何の色も匂いも味もしない、ただ冷たい不変の塊。
何の光も熱もない、この世界に何の希望も意義も認めていない。
ただ、凍てついた闇。
そこに映る非人間的な冷ややかさこそが、『魔王』ソーマ=カンナルコの強さの源泉だった。
「……大丈夫か?」
「うん、これくらいなら全然……」
「このまま綺麗にするから」
「ん……」
私が充分に息を整えたのを確認してから、彼はゆっくりと体を起こした。
久しぶりの彼とのベッドの上で、横たえたままの体。
全裸のそれを慈しむように、ぬるいお湯が汗やら何やらを流し去っていく。
消えていく水流を追いかけると、黒い瞳。
気遣わしげなその色に、穏やかな笑みを返す。
「お腹の負担にならないようにゆっくりすれば大丈夫だって、……ミレイユやアンゼリカからも教わってるし。
本当に、気持ちいいだけだったから」
「……そう、だな」
そのお腹に置かれた手は、どうやら【青殺与奪】を発動させていたらしい。
直接中身を確かめてようやく納得したらしく、ようやく彼の上半身がベッドに戻ってくる。
首を上げると、差し込まれる右腕。
いつもの位置に頭を落ち着けると、少し冷たく感じる左手が私の髪を梳く。
「自分も監修に加わった教材を、信じないの?
もう50以上のカップルが、あれに基づいて夫婦生活を送ってるんだけど」
「いや、まぁ……頭ではわかってるつもりなんだけど」
「終わって冷静になった瞬間不安になった、と」
「…………まぁ」
笑みを悪戯っぽいものに変えると、きまり悪そうに黒い瞳が逃げていく。
手を伸ばして涼しい頬を捕まえると、髪を撫でていた彼の手も私の頬へ。
「……愛してる」
「……俺もだ」
キス、キス、キス……。
重ねた唇を越えてお互いの口を食むように、何度も何度もキスをする。
彼の舌は、あたたかい。
「「……」」
合間に見つめ合う瞳の中には、やわらかい光。
……また、キス。
冷たいからこそ、残酷だからこそ強い『魔王』。
だけど、今私が触れているソーマは、こんなにも穏やかであたたかい。
最初に自分を救ってくれたのはアイザンなのだと、かつて彼は語った。
愛と幸を奪った償いに、自身の愛と幸を。
光と熱を奪った贖いに、確かな光と熱を。
凍てついた湖の底でそれを与えられたから、俺は人間でいられたんだと思う……。
人族には全くと言っていいほど知られていない先代の水の大精霊の話をするとき、彼の声には滅多に表れない深い敬意が宿っていた。
そして、その後に自分を導いてくれたのは私なのだとも、彼は続けた。
少し手を伸ばせば助けられるなら、少し手を伸ばして助けるべき……。
言うだけなら、願うだけなら誰にでもできる優しい理想を、命を懸けて現実にしようとする強さ。
闇に沈んだ世界を照らし、氷の心を融かす光と熱。
冷たい悪として消されていたであろう自分を、人間としてこの世界に繋ぎ留めた楔。
面と向かっての評価に面映ゆいを通り越して悶絶しかけていた私を抱きしめたソーマは、確かにあたたかい人間の温度を持っていた。
自分を大切にして、幸せになろうとする。
アイザンに救われ私に導かれることで、彼は確かに変わった。
非人間的な冷たさや残酷さだけが目立っていた彼は、あたたかく、そして優しくなった。
かつては自分の命にすら価値を見いだしていなかった『氷』が、今は家族や領民を守ろうとする「人間」になった。
アイザンと。
そして、私に出合って。
ソーマは、きっと幸せになった。
私は、何よりもそれが嬉しい。
実際にカイラン南北戦争が終わったことよりも、多くの子供たちを助けられたことよりも、フォーリアルの契約者になれたことよりも、ネクタの家族と和解できたことよりも。
ソーマが幸せそうであることが、誇らしい。
彼が、ミレイユとくだらない冗談を言い合っていることが。
彼が、子供たちから質問攻めにされて苦笑いしていることが。
彼が、私を抱き枕にしたままあどけない表情で昼寝することが。
彼が、手紙でお父さんに父親になる気構えを教わっていることが。
幸せそうなソーマ=カンナルコが、さらに幸せになろうと生きていることが。
世界に誇れる、魔導士アリス=カンナルコの冒険の成果だ。
……だけど。
それは同時に、彼がかつての非人間的な強さを失った、ということなのかもしれない。
私は、それで構わないと思っていた。
人間を捨てることで強くなるよりも、弱くなってもいいから人間の幸せを彼には得てほしかった。
その分は私が支えればいいと思っていたし、その覚悟も誓いもとっくに済ませたつもりだった。
ソーマが、死ぬとしたら。
それは弱さからではなく、強さからだと思っていた。
「…………どうした?」
胸の中で震える私を優しく抱きしめたまま、彼は静かに問いかけた。
涙で滲む視界の中には、優しくあたたかい黒が映る。
私はこの瞳を今までに何万、あるいは何億回見つめたんだろう。
彼の魔力が、足音がわかるようになったように……、……今の私には、この瞳の中に浮かぶ小さな光の色が、彼の感情がわかる。
わかってしまう。
……これは、かつてプロンで私に叫んだモルガナが浮かべていた光。
私に、未来を託す光。
「…………」
嗚咽を我慢する私の背を、ソーマは無言で抱きしめ続ける。
涙が止まらないことなんて、水の大精霊である彼なら見ないでもわかっているんだろう。
その間に必死で探すけれど、やっぱり言葉は見つからない。
彼は明日の朝、ライズとエンキドゥを連れて出かけてくると言った。
……それだけしか、言わなかった。
「ぃ……」
一緒について行く。
そう言おうとする前に、ソーマの左手がお腹に触れた。
彼が守りたいもの。
私に守ってほしいもの。
優しい体温が、そのまま彼の想いになる。
……ああ、そうか。
私が彼の感情をわかるくらいなんだから、彼も私の感情くらいわかるんだろう。
わかってしまったんだろう。
たとえ、私がどんなに上手く嘘をつこうとしても。
気づかなかった、ふりをしても。
「アリス……ありがとう」
俺と出合ってくれて。
俺を導いてくれて。
俺を愛してくれて。
俺を、幸せにしてくれて。
「……っ、……っ、……っ…………」
泣き叫びたい自分の弱さを、噛み殺そうとする。
残る時間を、そんなくだらないことに使いたくはない。
……この世で起きる悲劇の大半は、事前に言葉を交わしておくことで回避ができる。
ソーマの言葉は、いつだって公平だ。
事前に言葉を交わしておくことで回避ができる悲劇は、あくまでも「大半」でしかないのだから。
……だけど、どうして。
どうして、世界はこんなに残酷なんだろう。
「アリス」
「……」
涙を止められない私に、ソーマは静かに声をかけた。
私以上に世界の残酷さを知っている彼の声は、だけどとても穏やかだ。
黒い瞳には、優しさと安らぎ。
気高く、清らかで、透明な。
哀しみと、それ以上のあたたかさをたたえる。
何かを守るため、己を捧げる笑顔。
人間だから、できる笑顔。
「明日以降のことを、今から話す」
私の髪を梳きながら、流れ始める彼の言葉。
……だけど。
彼が語る、未来の中に。
やっぱり、彼はいなかった。