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クール・エール  作者: 砂押 司
第5部 世界を変えるもの
137/177

アナザー・エール 賢者 前編

「……? …………!?」


雪景色。

白と黒だけで構成されたその光景が目に入り、次いで、当然の反応として「ここはどこだ?」と考えた瞬間。

俺の意識には、ここがカラルという極小都市の都市壁前だという情報が発生していた。


「? ? !?」


が、俺はカラルという場所に行ったことも、その名前を聞いたこともない。

すなわち、記憶としても知識としても、ここがカラルだとわかる術など絶対にない。


「……!」


にも関わらず、俺の脳内にはそのないはずの知識が次々と湧き出してくる。


カラル。

サリガシア大陸北西部に位置し、現在で言うなら『毒』のヴァルニラの北側、チェイズと呼ばれる国のほぼ東端。

人口は2千に届かないくらいで、治めているのはユーリ家、後に「角」と呼ばれることになる大家たいかの分家であるイン家。

北には主家であるユーリ家が直轄するソダリがあるため比較的治安のいい都市ではあるものの、それでも南のカン家が治めるメイロン、東でファン家が興したクキとは日常的に小競り合いがある程度の、精霊歴988年当時としては一般的な都市。

すなわち、俺がいた時代から……千年以上前のサリガシア。


「……えーっと、ゼロ年代ならVRMMOの実物は知らなくても、概念としては知ってるわよね?

五感を仮想空間に移して、みんなでゲームするやつ」


身に覚えのない膨大な知識の洪水に膝を折った俺の隣で、マキナが自身のマントと同じ色の大地を踏む。

VRMMO、すなわち仮想現実における大規模多人数オンラインシステム。

自称500年後の日本人、11次元を体得しきったという少女が発したその単語で、俺の脳内の混乱は徐々に収まり始めた。


「ただ、これはゲームじゃないし、そもそも仮想でもないけどね。

ここは過去のスリプタ、その記録と記憶の中。

言うなれば、記憶現実(MR)ね。

それを一方的に観るだけだから……、……ま、すごくリアルな映画だと思ってくれればいいのかな。

透明人間になって、タイムスリップしてきたみたいな感じよ」


「SFにSFを……重ねるんじゃねぇよ」


マキナが平然と説明する言葉を頭痛と共に消化しながら、俺は確かに膝をついていたその場所でも、マキナの白と黒のブーツの下でも、雪が一切乱れていないことを実感する。


雪は確かにそこにあるし、体温との差として冷たさも感じている。

が、雪は融けるわけではないし、触れられた跡が残るわけでもない。


なるほど、「透明人間になって、タイムスリップしてきた」は実に的確な表現だろう。

相互作用のあるゲームではなく、ただ一方的に刺激を受け取る映画。

それにパンフレット片手に飛び込んだのだと解釈することで、ようやく俺の心臓もリズムを落ち着けだす。


意識すれば、確かに俺は「あの謎の空間で椅子に座っている」。

が、さらに同時に俺は「精霊歴988年のカラルに立っている」。


「あくまでも、過去におきた現実の記録だからね、それを見ているだけの私たちによる影響なんて出るわけないわ。

……私たちは、この世界では何でも知ることができるし、何でもできる」


「!」


実際、マキナの声に立ち止まることもなく……どころか、俺とマキナの体を「すり抜けて」、

数十人の獣人ビーストたちが小走りに雪を蹴散らしていく。


「だけど、それだけよ。

私たちは、この世界では何も変えられないし、何もできない」


全員が傷だらけのまま、それぞれの肩や背にやはり傷だらけの同僚を抱えた一団の、その赤い雪跡が遠くに微かに見える建物へと消えていく。

それを見送った後の俺の体を、今度は一人の少女が走り過ぎていった。


ショートにした髪はサリガシアの黒い大地よりも遙かに黒く、雪雲からわずかに覗く夜の闇よりも遙かにくらい。

その下の美しい、焦りでやや険しくなりつつも充分にそうだと言える顔は病的なまでに、いっそ死人のそれであるかのように白い。

翻すローブは茶色、すなわち黒と赤が混じった色。

その瞳は……、……やはり、血液そのものの赤。


ミゼット。


記憶としてその魔人ダークスの名前を知った、あるいは知っていた俺は、無表情のマキナと共にその背を追いかけ始めた。





魔人ダークス

『浄火』など誕生すらしていない精霊歴988年の現在において、その存在は一般に知られたものではなかった。

そもそもが、この当時はネクタを除く全ての大陸で小国家が群立する、興亡と戦乱の時代だ。

血で血を洗う隣国同士で魔人ダークスのそれに限らず情報など共有されるわけもなく、各種ギルドも未完成という状況ではそれが一元化されることもあり得ず、結果として魔人ダークスに関する各地それぞれの騒動は、各地でのそれぞれの騒動のレベルのまま喪われていくのが常だった。


また、魔人ダークスたち自身もこの状況を最大限に利用していたというのもある。

吸魔血成ヴァンピング】による天井知らずの魔力と、人間の筋肉とはまた違ったシステムで生み出される桁外れの剛力。

水覚アイズ】のような反則じみた感知魔法以外では補足することすらできず、さらには外見を変化させることで文字通りの神出鬼没を可能とする【散闇思遠バッティング】。

大精霊などという完全な人外である俺があらためてこの世界基準で考えても、彼ら彼女らは完全なるチーターだ。

そんな人間、どころか生物の完全な上位互換である魔人ダークスが本気で都市に潜伏すれば、常人にそれを看破、ましてや追撃する手段など皆無に等しい。


ある者は、大都市の一画にある屋敷で、大病に伏せった主人に成り代わり。

ある者は、歓楽街で娼婦として生きながら、客を適当に食い殺し。

ある者は、旅人として小さな集落を転々と移りつつ、その幾つかを完全に滅ぼし。

ある者は、腕利きの魔導士として小領主に近づき、実質的なナンバーツーとして振る舞い……。


『浄火』によって魔人ダークスというものの強さ、恐ろしさが広く認知されるようになるその遙か前の時代。

自分たちの存在を可能な限り隠蔽、あるいは偽装して世界に散らばっていた赤い瞳の隣人たちは、決して少なくはない、しかし戦乱の不幸に紛れる程度の数の人間たちを餌食にしながら、結果として完璧に人間社会に溶け込んでいた。


ミゼットも、その一人だ。


周辺国からの難民としてカラルに紛れ込んだミゼットは、サリガシアでは珍しい、しかし決していなかったわけではない人間ヒューマンの孤児と偽ってこの都市での生活を始めた。

ミゼットが賢かったのは、カラルに入った当時は8歳程度にしていた自分の外見を、年数と共に徐々に成長させていったことだ。

また、本来は特に必要でもない飲み食いや少なくない魔力を費やしての切り傷の再現、あるいは風邪の演出といった偽装を他人の目があるところで定期的に行い、完全に人間ヒューマンに擬態していた。

結果、設定上で15歳となる今のミゼットのことを、疑う住民など誰もいない。


「エリクス、エリクス!?」


「あぁ、ミゼット、来たか!」


むしろ、疑うことなどあり得なかった。


負傷した数十人の獣人ビーストたちと、ミゼットが駆け込んだ建物。

当たり前だが俺たちを待たずに閉められたドアを透過・・した中には、男たちの呻き声と薪が爆ぜる音、そして猛烈な血の臭いが充満している。


「くそっ、カン家の卑怯者共めが!」


「追い返せたとは言え、最近はしつこいな」


「向こうも余裕がないんやろ。

エルとぶつかったファンが、西に進もうとしてんねんから」


「に、してもなぁ……」


100対100程度の、カラルとメイロンの間での争い。

目の前の男たちがそれを終えて帰ってきたばかりの負傷兵であることを、耳にする男たちの会話と頭に浮かぶ記録、そして流れ込んでくる記憶から理解する。

同時に、俺はミゼットがその名前を叫んだエリクス、外見的にも同い年くらいの少年兵へと視線を合わせた。


「エリクス……、……どうしてよ!?

あなた、私にプロポーズしてくれたんじゃなかったの?

年越しのお祭り、一緒に踊ろうって言ってくれたじゃない!」


「……」


ミゼットが縋りついたベッドには、細身の少年兵が寝かされている。

静かに目を閉じたその顔には、まだ幼さが残っていた。


「私、私、……どうしたらいいのよ!」


「……いや、僕が一緒に踊るけど」


「……え?」


ただ、別に死んではいないが。


「生きて……る、の?」


「生きてるよ、この通り」


疑問と共に赤みが支配していくミゼットの顔を、同じく若干赤みを帯びたエリクスが見つめ返す。


「だ、だって隊長が『エリクスが大変だ!』って、私に叫んで……」


「その後、『だから、【治癒リカバー】を使うぜ』って、言っただろう?

……まぁ、お前はその前に走り出してったわけだが」


「「……」」


俺の体をドアが通り抜け、続けてその隊長、ヤオがニヤニヤ笑いながら部屋に入ってきた。

その際の雪明かりで、部屋の中にいる男たち、エリクス以外の全員が同じ表情を浮かべているのを俺は、そしてミゼットも確認する。

よくよく見れば、傷があった男も背負われていたはずの男たちも、全員が重傷とまではいかないレベルだ。

……つまり。


「……騙したわね、隊長?」


「いや、息子のようにも思ってる大事な部下の1人が『結婚を申し込んだのに、返事がもらえてなくて。しかもその後避けられてるみたいで……』って、ブチブチ落ち込んでたからなぁ?

ここは、親分として一肌脱いでやるべきところだと思わねぇか?」


そういうことなのだろう。


「あの、どんなときでもツンと澄ましてるミゼットが、慌てふためくところも見たかったしな!」


「「ハハハ!」」


相当に悪質な類いの悪戯ではあるが、周囲でゲラゲラ笑っている怪我人たちと同様にヤオの表情に悪意のそれはない。

ありがた迷惑の部類ではあるが、心からの親愛と安心感に満ちた笑顔だった。


「あ、あの、ミゼット……ごめんね?」


「……」


一方で、エリクスは申し訳なさそうな、そしてミゼットは口元をひくつかせた表情だ。

普段2人でいるときにどういった力関係なのかが何となくわかってしまい、俺も無意識に苦笑してしまう。


「わかったわ、エリクス。……結婚しましょう」


「ミ、ミゼット!」


ヒューヒューと口笛が、バラバラと拍手が鳴り響く中で、ミゼットは笑顔のままエリクスへと振り返った。

体を起こそうとするエリクスの表情に、安堵の光が宿る。


「でも、その前に死ねぇえっっっっ!!!!」


そこに右肘を落とそうとしたミゼットを、慌ててヤオが押さえにかかった。

暴れるミゼットに振り回されるヤオを見て、部屋の中の男たちがさらに大きな声で笑う。

揺れる炎に映る全員の影は、まるで踊っているかのようだ。


赤と黒のダンスの中ではついにミゼットも笑い、エリクスも笑い、俺も笑う。


「……」


その中で、白いマントの少女だけは変わらず無表情のままだった。





能ある鷹は爪を隠す。

能力のある者は軽々しくそれを見せつけない、という意味の言葉だが、俺はここに一抹の皮肉を感じないこともない。

というのも、「情けは人のためならず」に代表されるように、ことわざというのは自分本位の考え方をしていることが非常に多いからだ。


見せつけない、あるいは「見せつけるべきではない」。


どれだけ隠そうとも、鷹は結局その爪を振るって引き裂いた肉しか栄養源にできない猛禽類だということを考えると、果たしてこの「能」というのは単純な戦闘能力のことなのか、それとも擬態や忍耐の能力のことなのか、俺はこの諺を作った人間を小一時間問い詰めたい気分になる。

決して竜などではなく、火縄銃か弓矢、罠があれば人間でも何とかできてしまう程度の強さの鷹をチョイスしているあたりが、制作者の人格を疑うポイントだ。


……少し脱線したが、しかし、そういう意味ではミゼットは両方の能力に長けていた。

カラルよりも北、現代のサリガシアにおけるヨルトゴに差しかかる辺りで最初の記憶がスタートしたミゼットは、自分が魔人ダークスであるという認識とその戦闘能力と共に、それを一切隠すことなく振る舞えば遠からず自分が狩られる存在になることを、その時点で理解できていた。


武力、財力、権力。

種類はどうあれ、他者を圧倒できる力がどれほど簡単に人を溺れさせるかは、俺自身もよくよく知っている。

もしもアリスとの出会い、アイザンの遺言がなければ、俺は『浄火』以上の悪名だけをこの世界に残して、討たれていたに違いない……。

その実感があるからこそ、俺はそこからのミゼットの行動に純粋に感心した。


生まれたばかり……とはいってもその時点で既に成人女性の姿だったミゼットは、次の瞬間から自分の力を徹底的に封印して人間ヒューマンの1人として生きていくことを選択し、そしてそれを実行する。

維持するための魔力を削るために子供の姿となり、少しでも節約するために髪まで短くした。

人間など片手でほふれる力がありながら、ときには進んで頭を下げ余計なトラブルの芽を摘んだ。

目立たないように、目にも留まらないように、どこにでもいる戦災孤児の1人として、南を目指す難民たちの中で過ごした。


人間を殺すなど、もってのほかだった。

どころか、少しでも疑われる、注目を集めることを避けるため、あらゆる罪を犯さないように注意した。

他者を傷つけ、けがし、奪い、殺す行為。

その一切を意図的に、強固な意志でもって封印することができた魔人ミゼットは、皮肉なことに誰よりも理想的な人間性とその評価を獲得していた。


それは、腰を落ち着けることにしたカラルでも変わらない。

最初は得体の知れない、しかしどこかくらい魅力のある少女と見られていたミゼットは、7年を経て誰よりも真面目な、美しい善人として住民に受け入れられていた。

エリクス=ゼン=ベイリックスも、その1人だ。

同じく戦災孤児であり、ミゼットがカラルに入った当時に同じく8歳だった少年は、徐々にミゼットと親しくなり……。


……そして、俺がアリスにそうであったように、ミゼットにかれた。


少年の背が伸び筋肉がつくのに合わせるように、エリクスがミゼットに寄せる想いは強くなっていく。

少年に合わせて自分の背を伸ばし肉をつけていくミゼットも、惹き合い響き合うようにその感情を否定できなくなりつつあった。


どうせ、一緒に生きることなどできない。

いや、これはもうすぐに姿を消してしまった方が、お互いの幸せになるはずだ……。


そう自分に言い聞かせつつも、同じ瞬間には本来血だけで生きられる自分には必要ないはずの料理の練習をしている。

あるいは、【散闇思遠バッティング】でいくらでも外見を変えられるはずの自分が、気づけば日が完全に落ちるまで明日に着る服を決められないでいる。


7年間もの間自分の爪を隠し続けた自制心すら、エリクスへの想いの前では灰のようだった。


エリクスなら、わかってくれるかもしれない。

そうだ、だいたい魔人ダークスの全てが悪人というわけじゃない。

吸魔血成ヴァンピング】のことさえ受け入れてもらえるなら、私は魔導士として戦場でもエリクスの隣に立てる。

……多分、子供はできないだろうけれど…………、……それは、エリクスが望むなら他の奥さんに任せればいい。

皆のお姉さんに、お母さんになれるなら、エリクスのお嫁さんになれるなら、そんなことはどうでもいい。


その考えを甘いと思いつつ、だけどそれしかないじゃないと信じつつしていたある日、ミゼットはエリクスから結婚を申し込まれた。


嬉しかった。

だけど、それ以上に怖くなった。


エリクスとなら、全部が上手くいくと想っていた。

だけど、そんなわけがないとも思えてきた。


返事どころか何も言えずにその場から逃げ出してしまった数日後に、しかしミゼットが聞いたのはエリクスが自分を呼ぶ声ではなく、「エリクスが大変だ!」と叫ぶヤオの声だった。


頭が真っ白になった。


上手くいくとか、自分が魔人ダークスだとか、そんなことは本当にどうでもよくなった。

ただ、エリクスに無事でいてほしかった。


エリクスに、会いたかった。


そして、会えた。





それだけで、ただ、ただ幸せだった。





「痛い、痛い、痛い!

おいミゼット、俺たちがメイロンとって、怪我してるのは本当なんだ!!

少しは手加減を!!!!」


「うるさい、黙れ、この馬鹿!

それでもきちんと手当てしてあげてるんだから、黙って感謝しなさい!」


「ちょ、お前、それは本当にみるんだから……、……ギャアァァアアアァア!?」


ダンスが落ち着いた部屋の中の空気は、先程までとは打って変わって猛烈なアルコールの匂いが支配していた。

おそらくはこの世界で最強の度数を誇るサリガシア特産の酒、氷火酒インドラ

氷結による濃縮を繰り返すことで60度を軽く超えたそれのボトルを、しかしミゼットは隊員が持つタンブラーではなく背中の切り傷に傾けている。

その隣のベッドでは既に同じ処置を受けたエリクスと、その下の床でヤオが悶絶していた。


「ああ、もう、どいつもこいつも馬鹿ばっかり!

こんなことまで、する必要あったの!?」


低い声で唸りながら、しかしミゼットはテキパキとその背中に清潔な布を当てていく。

その「馬鹿」には、いったい誰までが含まれているのか。

恥ずかしさで沸騰しそうな頭と嬉しさで蒸発しそうな胸を必死で落ち着けようとしながら、八つ当たりを兼ねた治療の手は止めない。

まだ無事な……いや治療が終わっていないのだからまだ無事でない男たちも、絶望に満ちた顔をしながらも部屋から逃げようとは……出ようとはしない。


隊員たちからミゼットが愛されている理由には、エリクスとのことの他に、その確かな手当ての技術のこともあった。

元は難民時代に周囲からの信頼を勝ち得るため手に馴染ませた技術であるが、ある意味で人体に共感を抱くことができないミゼットのそれは、躊躇がない上に正確無比だ。

回復手段として命属性霊術こそあれど、霊墨イリスが無限でない以上は、なにより終わりのない戦争で怪我人が有限でない状況ではそれを節約しないわけにもいかない。

サリガシアの抱えるニーズに、ミゼットはここでも応えきっていた。


また、同時にこれはミゼットのニーズを満たす行為でもあった。

傷口を押さえる手ににじみ、まくった腕にわずかに飛ぶ血。

そうしてミゼットに触れた血がほんの少しずつ減っていくのを、見当をつけていた俺の瞳だけが看破する。

布で拭きながら、あるいは水で洗い流しながら、ミゼットは巧みにその何割かを皮膚で吸収していた。


これこそが、ミゼットという魔人ダークスが今まで生き永らえてきた方法だ。


高いビルの上、暗い地下室、閉い箱の中、深い水の底。

刃物に、針に、爪に、牙。

猛獣に、蛇に、この世界にはいないが毒虫に、得体の知れない人間。

闇に、汚物に、幽霊に、……そして血液。


人間というのは死を連想させるものに恐怖と嫌悪を覚えるよう、進化の過程でプログラミングされている。

本能とも呼ぶべきそれは、長い時間と数多の犠牲を費やして遺伝子に刻まれた、合理の果ての生存戦略だ。

人間は死の危険にまつわるこれらを忌まわしく思うのが当然であるように設計されており、……必然、それらに何の意味もなく近づこうとする人間を蔑み、そして、それらに立ち向かおうとする人間を敬うようにできている。


カラルにおいても誰もが本能的に忌避する怪我人の、ときには遺体の世話を買って出てきたミゼットは、既に住民たちから後者としての立ち位置を勝ち取っていた。

魔人ダークスであるがゆえに、人間が恐怖すべきものに恐怖できない。

どころか、人間の血液がなければ生命維持ができない。

寒気やだるさどころではない、もっと直接的な渇きや痛みとしての血への飢え……。


魔人ダークスにない本能をもって魔人ダークスの本能をコントロールしてきたミゼットの覚悟と努力が、結果として「他者を害さず、平和的に血液を得る」という奇跡を成立させていた。


「ミゼット……、……怒ってる?」


「あ、な、た、はどう思うの? エリクス?」


「その顔は……怒ってるけど……照れ隠しも、かな?」


「……!」


「わかるよ。……ずっと君のことだけ見てきたんだから」


「……ぅ、うぅ」


笑顔を我慢できない魔人ダークスが、人間たちの笑顔の中心にいる。

俺の体感で数時間前なら想像もできず、数ヶ月前までは実際に目にもしていた、そんな奇跡。


その奇跡の中に、確かにミゼットはいた。

間違いなく、ミゼットは幸せの中にいた。





だから、上手くいくと思っていた。





「……さてと、ミゼット。

少し早いかもしれないが、これは結婚祝いだ」


隊員たちが囃し立てる中、ヤオが取り出したのは1枚の、確かに手に入れようとすればそれなりの代金がかかる、黒い金属片だった。


「俺らは今更気にしないが、やっぱりお前は人間ヒューマンだしな。

おまけに獣人ビーストと結婚するわけだし、先々のことを考えたらやっぱり自陣片カードは持ってた方がいい。

いざというときに、これ以上の身分証明はないからな」


ミゼットが反射的に、あるいは無意識に受け取ってしまったのは。

未だ【吸魔血成ヴァンピング】の魔力が残る手でそれに触れてしまったのは。


そんな油断だったとも、願望だったとも言える。


氏名 ミゼット

種族 魔人ダークス

性別 女

年齢 213歳

魔力 19,860

契約 風

所属 -

備考 - 


「「……!!!?」」


部屋の中の空気が凝固したのは、種族が魔人ダークスだったからではない。

人間ヒューマンではあり得ない年齢だったからでも、それなりの魔導士として扱われるに値する魔力だったからでも、本人すら知らないうちに風属性と契約できていたからでもない。

そこに並ぶ、その文字が……。

















全て、赤かったからだ。

















「……え?」


誰よりも、ミゼットがそれを信じられていなかった。

魔人ダークスとして生きはしてきたけれど、並の人間よりは清廉に歩んできた自負がある。

私の名前は、新雪のような白い文字で示されないとおかしい。

こんな、血の色みたいに赤いはずがない。

……そうだ、これは私の手の血がついたんだ…………。


「……あれ?」


が、布で拭いても水で洗っても、手でどれだけこすっても「ミゼット」の名前は、「魔人ダークス」の文字列は白くならない。

墨のような黒い金属板の、オレンジ色の炎の揺らめきが反射するその表面でも、その色だけは変わらない。


赤い。


それは血にまみれた、人が忌むべき赤字(罪人)の色。


「……ミ、ゼット…………?」


「……エリクス」


その声で、初めてミゼットは自分が人間たちの瞳に囲まれていたことを思い出した。


「……ち、違……」


初めて、赤字レッドが問答無用の討伐対象であることを思い出した。


「違う……、私違うの」


初めて、エリクスがヤオが隊員たちが、自分を見ていることを思い出した。


「私……!」


初めて、その瞳に恐怖と嫌悪、蔑みの光が赤く反射していることを思い出した。


「違う!!!!」


初めてのはずなのに、逃走のために発動する【散闇思遠バッティング】はまるで呼吸のように簡単だった。

赤い炎と共に煙突から一気に闇色の空へと駆け上がったミゼットは、都市壁を越えて灰色の森を目指す。

そこに、何か当てがあったわけではない。

ただ目が向いたまま、本能のままに逃げただけだ。





「……追いかけないの?」


同じく空に浮かび、そのもやのような姿の背中を動かない目だけで追いかけていた……。

しかしこの世界の記録として、ミゼットの記憶としてその森の中の景色を網膜に焼きつけられていた俺に、マキナがつぶやく。


「しつこいようだけど、言っておくわね。

私たちは、この世界では何も変えられないし、何もできない」


森を目指して空を蹴った、絶対に幸せは待っていないだろうとわかりきった光景を見るために進み始めた俺の横を、白いマントが追い越していく。


「それが、今の私たち」


その声は、『氷』と称された俺のそれよりもひどく凍てついていた。

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