世界を守るもの
エルダロンで『浄火』に、ライズに殺されようとしていた瞬間。
直後、確かに時間が停止した、あの瞬間。
「初めまして、ソーマ=カンナルコ君。
……それとも、中畑蒼馬君って呼ぶべきかな?」
そして、発動した【異時空間転移】。
かつて、俺をこの世界に召喚した光。
「あらためて、初めまして。
私は、時の大精霊」
それが収まった後に目の前にいたこの女は、間違いなくそう名乗った。
背は、高くも低くもない。
極端に痩せているわけでも、太っているわけでもない。
模様ともそうでないとも言える無数の黒い線が入った白いマント、そのフードからのぞくのは長いとも短いともとれる茶髪。
顔は……、……女であることはわかるが、若いのか老いているかもわからない。
……いや、これ、は、なん、だ?
「……っ!」
時の大精霊、そう名乗った女に視線を合わせた直後、瞬間的に込み上げてきた吐き気に、思わず膝を折る。
何というか……説明しようのない、強烈な違和感。
乗り物酔いを何百倍にも増幅したような、立つどころか声を出すことすらできない頭痛のような眩暈。
ピントや色彩感覚さえおかしくなり始めた視線を慌てて女から外し、周囲の景色にそれを合わそうとするが……。
「!? ……!?!?」
それも、できない。
何もない。
色もわからない。
熱くも、冷たくもない。
明るくも、暗くもない。
広くも、狭くもない。
近くも、遠くもない。
「! ? !
? ?
!? 」
音がしているのか、していないのかわからない。
上がどちらか、下がどちらかわからない。
匂いがあるのか、ないのかわからない。
自分が何なのか、わか……。
「ソーマ=カンナルコ君」
「!」
激痛にも似たその浮遊感を、外部から俺を定義する声が裂く。
「……ぅ、ぁ」
同時に、急激に収まっていく……この表現しきれない不快な感覚。
そうだ、俺はソーマ、ソーマ=カンナルコだ。
水が氷結するように固まっていく「俺」という存在感に、ようやく肉体が呼吸を再開する。
「ごめんなさい、普通の人間がここに来るとどうなるのか、完全に忘れてたわ……。
もう大丈夫だと思うから、ゆっくり息をして。
それから、あまり1ヶ所を凝視しないように。
自分の体の感覚を、自分が今まで体験したことを思い出して」
「ハァ……、ハァ……、ハァ……、ハァ…………」
女の声は、どちらかと言えば若い。
黒っぽい、石のようなガラスのような、あるいは金属のような床に指を立てながら、俺は意図的に視線を彷徨わせる。
女の注意を聞くまでもなく、この黒い床でさえ一点を見つめ続けると危険……またあの感覚に襲われることが、今は予感として納得できる。
「君はソーマ=カンナルコ、あるいは中畑蒼馬君。
エルベーナで地球からこの世界、スリプタに召喚された後は、先代のアイザンから力を譲られて水の大精霊になった。
その力で妹の朱美さんの仇でもあるエルベーナを滅ぼした後、君はラルクスで冒険者になり、そしてアリス=カンナルコと出会った。
彼女とパートナーになった君はカイラン南北戦争に介入し、単身でおよそ4万人を殺害することでこれを終結させた。
また、その過程でミレイユやジェシカ=シィ=ケットと出会い、そして多くの子供たちを救った。
アリス=カンナルコやミレイユと共にウォルを築いた君は、ネクタに渡ってフォーリアルに試され、『海王』を破りウォルとカミラギの間に交流の道を開いた。
同時に、アリス=カンナルコと真の意味で理解し合い、彼女と結婚した。
その後は、アーネルやチョーカ、ネクタとの関係を改善しながらウォルをどんどん拡大させ、私生活では父親にもなった。
そんな日々の中で、ルル=フォン=ティティの来訪をきっかけにミレイユが失踪し、君はサリガシアとエルダロンとの戦い、テムジンたち魔人との戦いに巻き込まれた。
これにフリーダ=ウェイブ=トレイダ=シスワ=エルダロンと一時的な盟約を結んで対抗している間に、この戦争自体を利用していた魔人たちがライズを召喚し、そしてそのライズに殺されかけた……」
「……で、自称『時の大精霊』様に助けていただいた……と」
「……少しは、元気になったみたいね?」
「ソーマ」を構成するプロフィールを聞かされながらようやく立ち上がることができた俺の虚勢に、時の大精霊を名乗った女……いや少女も、シニカルな笑みを浮かべる。
10代後半、顔立ちは……まぁ、美人の範疇。
背丈は160センチ程度、やや痩せ型。
白黒のローブでわかりにくいが、おそらく武器の類いは持っていない。
観察したい相手を凝視しないようにする、というなかなか難度の高い行動に眉をしかめながら、先程までは認識できなかった事実をできる限り拾っていく。
ただ、魔力は……、……よくわからない。
「……」
一方で、俺の方も自分の魔力を感じることができない。
これは反省すべき点だろうが、今まで自分の魔力を使い切るテストをやったことがなかったため、この状態からある程度回復するまでどれくらいかかるのか、見当もつかない。
せめて、【氷鎧凍装】くらいは発動できるようになっておきたいが、そもそもこの空間で……。
…………いや、待て。
「おい」
「この場所では、さっきまで君がいた世界と同じ速度で時間が流れてる。
だから、魔力も経時回復はする」
俺の思考を読んだのかわかるのかはこの際どうでもいいが、少女は流れるように俺の疑問に答えを返す。
ただ、今俺が最も憂慮していることはそれではない。
……が。
「ちなみに、スリプタの方の時間は止めてるから。
とりあえず、安心してくれていいわよ」
「……」
この自称『時の大精霊』は、それを踏まえてもどうやら本物であるらしかった。
「あらためて、マキナよ。
よろしく、ソーマ=カンナルコ君」
「苗字は……家名は、『デウスエクス』でいいのか?」
どこまで、ふざけた存在なのか。
機械仕掛けの神。
時の大精霊が、マキナが名乗ったのは、喜劇も悲劇も強引に解決してしまうために古代ギリシャの劇作家が生み出した『時の神』のそれだった。
思わず苦笑してしまいながらも、しかし俺はそれ以上の笑い声を上げる気にはなれない。
時間は止めてる。
常識で考えれば一笑に付すしかないこの発言を、実際に俺は体験してきたばかりだったからだ。
また、反証する手段も意味もないというのもある。
仮にこの状況が俺の記憶にない走馬灯、あるいはマキナの戯言だったとして、ならば現実のエルダロンはとっくに蒸発していることになるからだ。
この空間からの脱出方法もわからない以上、長引けばライズがウォルに、アリスに迫っていくことを俺はただ想像することしかできなくなるだろう。
とりあえず、安心してくれていい。
この際、機械仕掛けでも神でも何でもいい。
情けないことに、今の俺にはマキナの発言を全面的に信じることしかできないのだ。
……ただ、割と最終局面なそんな思考も、マキナの発言はあっさりと停止させてくる。
「残念ながら、これでも一応元人間よ。
……というか、私も日本出身よ?
君より500年くらい後の時代のだけどね。
苗字はネムラ、根村真紀奈が元の名前よ」
「……」
さすがに予想していなかった発言にあらためてまじまじと顔を覗き込もうとして、俺は慌ててその視線を逸らせた。
先程までのレベルよりは随分とマシだが、それでもやはりマキナの顔に焦点を合わせ続けると不快感が増す。
決して、精神的なものではない。
むしろ、反射的な、肉体防御のための本能的な反応に近いそれだ。
「ま、今はどうでもいいことだけどね」
黒。
瞳の色がそれであることだけを辛うじて確認した俺の前で、マキナだけがどんどんと話を進めていく。
「ところで、君は弦理論……ひも理論って理解できる?
超弦理論の方でもいいんだけど……」
「……いや」
今度は内容が衝撃的だったからではなく、単に聞いたことのない単語だったために俺は無言にさせられた。
一方のマキナも、だろうね、と侮蔑ではなく確認の首肯を返す。
「ま、ゼロ年代だし仕方ないね。
完全に証明されたのは、2200年代の後半くらいだったはずだし……、……どう言えばいいかな。
……うーん、思いっきり平たく言うとね、この世界っていうのは本来11次元の存在で、この場所や私はそれを理解……というか体得しきったところにあるの。
でも、今の君やスリプタ、地球では4次元までしか理解できない」
「……は?」
ある意味で、魔法や精霊に接したときよりも理解が追いつかない内容だった。
次元。
これは空間や状況を構成する要素、その数や自由度を指す言葉だ。
かなり強引な説明になるが、あえて理解しやすいように言うと、
1次元は縦の要素のみで、線。
2次元はこれに横の要素が加わり、平面。
3次元はさらに高さの要素が加わり、立体。
4次元は時間の経過という要素が加わり、変化する立体となる。
したがって、地球上の物体の次元は3、事象の次元は4だ。
これ以上の概念は物理学や数学、あるいはSFの中でしか存在しないし、今の人類が直感的に理解することは不可能だろう。
「見下してるわけじゃなくて、文字通りに『次元が違う』のよ。
線しかない世界で面を、面しかない世界で立体の概念を理解するなんて無理でしょう?
さっき君が私やこの場所を上手く把握できなかったのは、単純に私やこの場所に君が理解できない要素が含まれていたから。
逆に、今それができてるのは、私が周囲一帯ごと4次元基準まで『翻訳』したからよ」
が、それを踏破した。
そう語るマキナの言葉を、おそらくはギリギリまで意訳してくれたのであろうそれを何とか理解しながら、俺は無言で戦慄していた。
つまり、あの周囲を認識しようとしても認識できないという謎の状況、無理に認識しようとすると体が拒否反応を示すこの不快感。
俺が味わった、今も若干残っているこの感覚こそが、マキナの言っていることの証明であるからだ。
……ただ、これはもはや人間の。
あるいは大精霊だとして、それでもやはりその手が届く領域の話ではない。
というか、届いてはいけない。
「私が『時の大精霊』なんて呼ばれてるのも、スリプタでこれを理解しきれる人間がいなかったし、表現しきれる言葉もなかったから。
そもそも、この世界に『時の精霊』なんていうものは存在しない。
自陣片も【時空間転移】も【召転】も【異時空間転移】も、あれは魔術じゃなくてただの技術。
私は『高次の存在』で、『この世界のことを唯一理解しきっている管理者』なだけ」
それは、もはや。
「神様みたいなものね」
そう呼ばれる領域の、役割だからだ。
アイザン、バラン、アリス、シムカ、エレニア、アーネル王、ミレイユ、ザザ、アリア、マックス、フォーリアル、ルル、テンジン、チーチャ、ネハン、ウルスラ、フリーダ、ライズ……。
俺が出会ってきた人間たちは、それぞれなりの信念を持ち、決断と実行する覚悟、そして守りたいものを守るための強さを持っていた。
俺自身も、そうであるとは思っている。
が、マキナが立っているのは真の意味でこれとは別次元の世界だった。
人だとか、親だとか、将だとか、王だとか。
何を持ち出そうと、どんな強さを誇ろうとも、マキナには誰も届かない。
マキナがどれだけ強いのか、何ができるのかという話でない。
どれだけ離れているのか、という概念自体がそもそも間違っているのだ。
画用紙に描かれた人間と、その周囲の景色をクレヨンで描こうとしている子供。
俺たちとマキナの間は、それ以上に隔絶している。
「……というわけで、『魔王』君。
少しは落ち着いてくれたかな?」
落ち着きはしたが、最悪の……これは精神的な意味の方での、最悪の気分だった。
フォーリアルも、ライズも。
いや、そんな比較以前の存在が、圧倒的という言葉でも尚足りない遙か高みの存在が、ずっとこの世界を見下ろしていた。
そんな事実を知ってしまったこの感情は、絶望というよりも失望に近い。
『創世』という単語から時と命の大精霊は5属性より上位の、別格の存在だとは想っていたが、流石にここまで世界の枠から外れた存在だとは考えていなかった。
理解できない、というか理解できてはいけない領域の住人。
それこそ混沌とした世界を片手間に整理できる神に等しき存在が本当に実在し、自分が生きてきた場所がある意味で本当に演劇に過ぎなかったのかもしれないという衝撃。
そして、何より。
そんな存在が、俺と同じ日本人、人間であったという真実。
人の身で人を超え、少なくとも2千年を神として過ごしてきたという事実。
その心を理解しようにも、これ以上近づこうとした瞬間に自分が崩壊するだろう予感。
チーチャのそれすら鼻で笑えるような狂気の中で、それ以上に平然とできている狂気。
「別に身構えなくていいわよ、君の不利益になるようなことをしたいわけじゃないし。
むしろ、私と君の目的は一致してるのよ?」
畏怖か、恐怖か。
そんな感情を浮かべていた俺に、マキナはやはり理路整然と微笑む。
俺の心中が予想できるのか、読めるのか、あるいはどうでもいいのか。
いずれにせよ、俺には予想も理解もできない、どうしようもない状況で人間のように笑えるこの少女が、俺は怖い。
「……!」
無意識に後ずさった俺の踵に、硬いものが当たった。
【水覚】が使えないことで狭くなった、しかし使えないが故に知覚しないで済んでいた空間の中で、それが膝ほどの高さの黒い立方体であることを振り返ることで確認する。
同時に現れる……いや、もしかしたら最初からあったのかもしれない手すりと背もたれも視認して、ようやくそれが椅子であることがわかった。
「とりあえず、座ってくれるかな。
立ち話で終わるには、長い、永いお話になるから」
隣、いつの間にかそこにあったもう1つの椅子に、白黒のローブが腰を下ろす。
「私はスリプタを、君たちが住む世界を守りたいのよ。
……絶対にね」
「どういう……!?」
とりあえず、今は指示に従うしかない。
硬い……そう、確かに硬いそれに腰を落ち着けた瞬間に、周囲の景色が変色した。
「だから、まずはついてきて。
君は知らなければならないし、考えなければならない。
そして決断して、覚悟しなければならない。
そうでなければ、『世界を変える』なんてことはできない」
視覚が。
聴覚が。
嗅覚が。
味覚が。
触覚が。
切り替わった……。
あるいは分裂した、としか言いようのない、未知の感覚に包まれる。
ただ……、不思議と、不快感や不安感はない。
「そうでしょう? 『世界を変える者』」
流れ込んでくるのか、流れ出しているのか。
近くで遠くに聞こえるマキナの声と共に、俺は……、…………、……………………。