地平の果て
180センチを超える長身と、全身を覆うしなやかで引き締まった筋肉。
ミルクチョコレートを思わせる褐色の肌は裸足の足を含めそのほとんどが剥き出しであり、胸……というかやはり大胸筋と呼ぶべき場所にだけ、仕方なくといった感じで暗い緑色のサラシが巻かれている。
服装は、金属質な光沢を放つ純緑のコロモ。
が、それはアリスがしていれば発熱か泥酔を疑うであろうほどに着崩されている。
露出する両肩に逞しく割れた腹筋、長く鍛え抜かれた脚。
エメラルドを想わせる鮮やかな緑髪は頭頂部で適当に束ねられ、長い毛先は土煙の中で揺れている。
20代の半ば、俺よりも少しだけ年上だろうと思わせるそれなりに整った顔には、髪と同色の瞳。
閉じていれば凛々しい唇からは、しかし狂笑。
「アハハハハハハハハ!
最高だ、最高だ、やっぱりお前は最高だ、大精霊!!」
木の大精霊フォーリアルの守護を担う木竜、ヒエン。
とりあえず殴り合いができればそれでいいという希代の戦闘狂は、その称賛を俺へと向けた。
「あの『浄火』とやり合ったヤルググに、五属性最古の上位精霊アレキサンドラ!
世界一位の魔力を持つ『声姫』に、風と土の大精霊!!
それに、魔人!!!!」
楽しさと嬉しさを隠すつもりもないらしく、幼児のような笑顔からは口角が行方不明になっている。
歓喜というよりも狂喜、あるいは躁状態。
「生きてるうちに戦ってみたかった奴らの、ほとんど全部がここにいる!
アハハハハハハ、最高だ、最高だ、最っ高だぁあ!!
オレ様が今まで生きてきた中で、間違いなく今日が最高の日だ!!!!
ないしは……情緒不安定。
まるで巨大な丸太で殴り続けられるような暴力的な魔力からは、ヒエンが正真正銘心底から喜んでいることしか伝わって来ない。
「……」
「……ニャー…………」
現世であれば確実に110番と119番に電話されるであろうその様相に俺は引き気味の無言で応え、エレニアに至っては完全に困惑していた。
「……へぇ、お前が当代の土の大精霊か」
が、ヒエンはただの狂人ではない。
その身は霊竜としてこの生物界最強の暴力を誇る、世界最高峰の戦闘狂なのだ。
「いいねぇ……!」
「「!」」
俺からエレニアへと移り肉食獣の笑みを浮かべたその視線に、その場の全員が本能的な危機感を覚える。
「戯け」
唯一の例外は、俺の傍らで怒気を放射する少女だけだ。
切り出され、数年をかけて乾燥しきり、製材され、建材として数十からあるいは数百年に渡って家屋を支え、今日何らかの攻撃で破壊され、挙句絶対零度の蹂躙を受けた木の欠片。
しかしそこまでされて尚、この少女にとってそれは眷族であり自分自身であり続ける。
その意思と魔力を受けて再生した若木が象るのは、最古の大精霊の最初の子にして木の上位精霊筆頭、ムー。
「妾らが遣わされたのは父上の命があったからであって、お前の煩悩を満たすためではない。
もとより、小童が軽々しく『精霊殺し』を口にするな」
若木が作る、空洞にしか見えない唇からは静かな怒りが流れ、そして呆れたように閉じられる。
一方で、やはり空洞にしか見えない、しかし明らかな意思を感じさせる目は傍らの俺を見上げた。
「アリスに感謝するのじゃな、水殿。
彼の少女との契があったからこそ、父上もまた楔となることを決められた」
「……アリスが?」
ムーの静かな、慈しむような声は。
そして、アリスの名前はそれだけで俺の心を穏やかにしていく。
「アリスが望み、それに父上が応ぜられた…。
……これはもう、そなただけの戦ではないということじゃ」
「……そうか」
あなたに守られるだけじゃなく、あなたの隣で一緒に闘う……。
かつて、ネクタで誓い合ったアリスの言葉を思い出す。
俺に合わせて黒へと新調したバトルドレス。
夜明け前の空のような、深い青色のマント。
瑠璃色がかった銀髪は月の光のように流れ。
その杖は、世界に認められし優しさの証明。
「それから、アリスより伝言じゃ。
……こっちは任せて、と」
緑色。
深い深い森の奥の、大樹の葉のような緑色。
怜悧なエメラルドの輝きを持つ、美しい色。
アリス。
「……」
『至座の月光』、そして『魔王の最愛』。
そう呼ばれる世界最強の木属性魔導士が隣に立っている気がして、俺の体には尽きかけていた力がまた芽吹いていく。
確かに、俺は弱くなったのかもしれない。
だが、俺はもう1人ではない。
ヤルググが跳ね起き、逆らわず足をどけたヒエンが笑う。
アレキサンドラの7色の目に、ムーは無言の溜息。
「「……」」
それらの間で、エレニアと俺の視線が衝突する。
「さあ、始めるぞ!!」
ヒエンの声と共に、全員の魔力が吹き荒れた。
鼓膜が破れるかと思うほどの轟音は、口火を切ったヒエンと相対するヤルググの間で炸裂した。
「どういうつもりだ、木竜?」
「聞いてどうするよ、土竜!」
音の発生源は、金の小手に包まれた右拳と茶色い肌の右拳が激突した音。
人化はしても本来の数百トン近い体重が交差する一撃は、至近距離での落雷のごとく空気を引き裂いた。
さらに、ヒエンは右手をずらしそのままヤルググの右手首を掴み力で捻る。
金色の肘を破砕しようと振り抜かれた左の掌底は、しかしそれに逆らわず曲げ切ったヤルググの右肘が迎撃。
瞬間的に両腕が塞がったヒエンの前で、黄金の鎧が残像を残して回転。
未だ笑みの消えない褐色の右頬に光の軌道を残して左拳が吸い込まれる。
爆音。
ビルに鉄球を叩き付けたようなその音は、あろうことか頭突きでそれを迎撃したヒエンの額から。
「話には聞いていたが、話すら通じないか」
「アハハハハハハ!
今は、それよりもっと楽しいことがあるからなあ!!」
静かに眉間にしわを寄せるヤルググに対し、裂けた額から血を垂らすヒエンは止まらない。
距離を取ろうとする黄金甲冑に組みつく、というよりも跳びかかり、そのまま長い右足をたたんで矢のような膝蹴り。
「……!」
除夜の鐘にミサイルを撃ち込んだような激音と共にヤルググの体がくの字に浮き上がり、それはそのまま弧を描く。
「本気出せよ、ォオルァアアアアッッ!!!!」
強いて言えば、払い腰のような形でのヒエンの投げ。
ただし、ヒエンの全筋力が総動員して行われたそれは自身よりはるかに重たいはずのヤルググを下ではなく、水平に投げ飛ばす。
背後の家屋を貫通し、その後ろ、さらにその後ろの建物までが倒壊。
「……おっと!」
追撃しようと体をたわめたヒエンが、急停止。
その前の地面に銀の雨が突き刺さる前に、その身は緑色の残像へと変わる。
【水覚】に映る軌道から推定するに、3キロ近く離れた場所からのミスリルの槍による狙撃。
直撃すれば竜の鱗すら貫くそれを、ヒエンは目視と……おそらく勘だけでかわしきる。
「くっだらねぇなあ、ヤルググ!
これが最古の霊竜、『浄火』と戦った伝説のやり方か!?
わざわざ海を越えてまで来たっていうのに、お前もその程度なのかよ!!!?」
「……それこそ、くだらぬ」
侮蔑と失望に絶叫するヒエンの眼前で、瓦礫が爆散。
竜化し本来の姿に戻ったヤルググの金色の瞳には、触れるだけで押し潰さそうな苛立ちが浮かんでいる。
「若き木竜、お前はこの戦いの果てにあるものが何なのかをわかっていない。
戦いとは何かを守るためにするものであり、断じてそれ自体を楽しむようなものではない。
……この世の果てを、ただの娯楽になどするな」
全身の骨まで振るわせるような低い声には、静かな憎悪。
「……くっっっっだらねえ!」
が、それを受けて尚ヒエンはその狂性を失わない。
ヤルググを見上げるヒエンの体積が爆発的に増大、180センチの女の姿は20メートル近い竜の姿へと変貌する。
金色と純緑。
霊竜同士が相対する姿は、まさしくこの世の果て。
「戦いに意味なんて求めるな!
誰かを殴って、誰かを殺そうとすることを正当化するな!!
意味のないことだからこそ、楽しまなくちゃいけねぇんだろうが!!!!」
「……」
それは、ある意味ではまた真理。
善でも悪でもないその正義は、本能的であるからこそヤルググを沈黙させる。
「目の前の奴が気に食わない、生きるのに邪魔だからぶっ飛ばしたい!
それでいいんだよ、オレ様たちが殴り合って殺し合う理由なんて!!
どいつもこいつも、戦いをいちいち美化するな!!!!
そんなものは、不純物だ!!!!!!」
「……わかった、もういい」
が、沈黙はしてもそれで揺らぐような者はここにはいない。
「アハハハハハハハハ!
そうだ、それでいいんだ!!
今はオレ様だけを見ろ、ヤルググ!!!!」
それを受けて、考えを変えるような者もいない。
翼を広げ、金色の竜は咆哮。
尾をしならせ、純緑の竜がそれに突撃する。
地の果てで対称を叫ぶ竜たちは、不純で純粋な戦いを再開した。
「久しいのう、アレキサンドラ」
「……」
一方で、上位精霊筆頭同士はお互いに動かなかった。
「木竜はああ言っておるが、そなたはどう思う?」
「……」
黒い岩石で構築された長身と、頭部に赤、青、黄、緑、白、紫、黒の7色の宝石を持つ上位精霊。
ヒエンとムーの言葉から察するに、これが土の上位精霊筆頭アレキサンドラなのだろう。
シムカよりも、ムーよりも長くを生きているという最古の上位精霊は黙したままムーの空洞を見つめている。
「……相変わらずの、傍観者か」
しかし、それを受けるムーの言葉には敬意というものが一切感じられなかった。
むしろ、そこにあるのはどちらかと言えば侮蔑に近い感情だ。
「この戦いで、誰かが何かを得られているのか?
妾の目には、そこな大精霊殿の同族も含めて山ほど死んでいるだけにしか思えんのだが……」
「否」
それをぶつけられても無反応だったアレキサンドラは、しかしムーの視線がエレニアに向けられた瞬間に首を動かした。
「我ら兄弟姉妹は、父にして母にして主君たる当代様に忠節を尽くすのみ。
その忖度は不敬であり、我らはただその御意の下にあればよい。
……木の、貴様からそのような言が出るとは思っていなかった」
「妾も忖度はせぬ、……が傍観をする気もない。
……期待はしておらなんだが、やはり変わらぬ石頭のままよのう」
「是、理の一端たる我らは不変であらねばならない」
「皮肉だ、阿呆」
意外なことに、アレキサンドラとムーの会話はヤルググとヒエンのそれよりも噛み合っていない。
どうやら何かの因縁があるらしかったが、それは本当に有機物と無機物が会話をしているような不毛さだった。
事実、ムーはそれをわかっていたらしく深い溜息をついているのに対し、皮肉をぶつけられたアレキサンドラはそれに興味すら払っていない。
美しい花を見せたところで、石には何の反応も起きないように。
少なくともムーの徒労感を見る限り、それは千年をはるかに超えて続いているのかもしれない。
「ならば、この現状もまた理の果てか?
これだけ屍が並び、数多の精霊がその契約者を失う今にも不変の価値があるのか?」
「是。当代様が、そう望まれる限りは」
「ならば、ファルの子が死んだこともまた理であったと……。
その後に巡る今にも不変とすべき価値があったと、……そなたは言うのか」
「おい……」
ファルの子。
アレキサンドラに質したその名前を、ムーに確かめようとして。
「……是」
「……!」
ファルの子。
しかし、誰なのかわからないその死をアレキサンドラが肯定した瞬間、……水を司るはずの俺は、深い寒気に襲われていた。
が、それは【潜咬】で地中を移動してきた獣人の左腕が俺の背後に現れたからではない。
「……ならば、そなたは、またそこで。
ただ、理を眺めておれ」
隣に立つムーから、凄まじいまでの憤怒と絶望が発せられたからだ。
同時に、その右手に顕現した白い槍がその左腕を斬り払う。
「ぐ……、……ああアアアア!??!」
【死槍之召喚】による即死攻撃かと思いきや、冷たい視線を向ける目の前で地中から絶叫。
【潜咬】を保てず地表に現れた獣人はおそらく、ルルの部下だったキャメロンと同じカン家の若い男らしかったが…、……これは何だ?
「アア、あ゛……ア!?」
涙に鼻水、涎を垂らしてのたうち回る男の腕からの出血は、既に収まっている。
が、だからこそ異常だ。
止血が簡単にできないレベルのはずのその断面には、綿のような白い膜が見える。
いや、それは小さな白い点の集合、体……で……!
「!?」
そこまでわかった瞬間、俺は無意識にその場から一歩後ずさった。
かつてカミノザで見た光景を思い出し、それがこの後どのような事態を引き起こすか理解したが故に、動物としての本能が嫌悪と恐怖を抱かせる。
ゆっくりと立ち上がる獣人の左手首をびっしりと覆うそれは……。
「あ……ア……、ぁ、ァあアぁあ?」
小さな、白いキノコの群れ。
シクネクロ。
それは傷口から侵入して動物の脳内を乗っ取り生きた屍としてしまう、カミノザの食獣植物の中でも最悪の称号を冠せられた寄生キノコだ。
ムーは、その悪名高い動物の天敵を槍として召喚し、攻撃と共に植付。
魔力を込めたその胞子を発芽させ脳内全体を菌糸で支配することで、この男の体を完全に乗っ取ったのだ。
「ぁ……ァ……ぁ……、……」
焦点の合わない瞳が作る表情は、恍惚と苦痛がない交ぜになった理性のない笑顔。
左の眼球に鼻孔、そしてだらしなく開いた口の中にも小さなキノコが群生しているのが見えてしまい、胃が悲鳴を上げる。
しかし、シクネクロが恐ろしいのはここまで寄生されながらも宿主が生きていること。
そして、宿主に他の動物を襲わせそれにも感染することで……。
「行け、『死森兵』。
その理をもって、かつての友をその鎖とせよ」
爆発的に、繁殖していくことだ。
「ぁあアっ!」
冷やかなムーの一言を受けて、男は獣人の俊敏性のまま疾走。
距離を詰めていた味方であるはずの獣人の女に激突し、そこで怒号と……魂が砕けたような悲鳴が上がる。
徐々に、絶叫が増殖。
陣形は加速度的に崩壊し、数秒単位で悲鳴の数が増えていく。
「妾はムー、かつて『死森』と呼ばれしカイン=カンノハと契約せし者。
そして……」
しかし、アレキサンドラはそれを見ても尚動かない。
「……そして、その友であった『十翼』。
ファルリース=エフ=フォイエの……、……友でもあった」
相対するムーのつぶやきは、勝利の愉悦ではなく深い失望に沈んでいる。
「アレキサンドラ!」
「是」
そのムーの姿を見て尚一言も発さなかった土の上位精霊筆頭が、その父であり母であり主君である存在の声には反応を返した。
己の名を呼んだエレニアの声だけでその指示内容を悟ったアレキサンドラの周囲には5体の土の上位精霊が顕現し、……そしてすぐに全員が消える。
「……阿呆が」
吐き捨てるムーの視線の先、地獄絵図となっている獣人たちの足元の地面から、オレンジ色の光。
死森兵と化した獣人たちの集団の中心にそれぞれ実体化した6体が発動させた【熾基紅溶】は、容赦なくその一帯を炎上させる。
確かに、1度寄生したシクネクロを除去するためには術者の意思か【腐植】など木属性魔導が必要で、しかもその後に【完全解癒】で穴だらけになった脳を修復しなければならない。
連鎖的に増殖し既に友軍全体の1割近くに達したそれを止めるためには、確かに宿主ごと焼き払うのが最短の一手ではある……、が……。
「……水殿、あの石頭と兵どもの方は妾らに任せよ」
「……頼む」
その光景を眺め再び小さな溜息をついたムーは、木属性高位【黄狗之召喚】を発動。
足元から伸び上がる蔓には鮮やかな黄緑色の葉が茂っているが、絡み合うそれはやがて小型犬ほどの四足獣、あるいは三や五や六足獣の形を作っていく。
シクネクロやグリオン同様カミノザにだけ棲息するその魔物の名は、パリオン。
その葉には揮発性の高い神経毒を有し、応戦した動物に運動障害を引き起こさせるCクラス相当の食獣植物だ。
頭も尾もなく、ただ胴体に足のようなものがくっついているだけに見える不格好な枝葉の塊は、しかし統率された群狼のように全周囲へ駆け出していく。
「征け、お前たち」
その後を追うように、10体の木の上位精霊が顕現。
それぞれがさらに【黄狗之召喚】とシクネクロを宿した白い槍を発動し、神の庭の軍勢は大地を染めていく。
その中心をゆっくりと歩き始めたムーの悲しげな視線は、溶岩流で獣人を殺し続けるアレキサンドラの方を向いていた。
「……」
「……」
建物を瓦礫に、瓦礫を破片に変えながら土煙の中で激突し続けるヒエンとヤルググ。
溶岩流の中で灰になる死森兵、その中でパリオンと入り乱れる獣人を挟んで対峙するムーたちとアレキサンドラたち。
世界の果て、あるいは阿鼻叫喚といっても差し支えない光景の中で、俺とエレニアだけが取り残される。
「……まだ、続けるのか?」
「ニャハハ、当然ニャ」
周囲の音が小さくなっていく錯覚を感じながら、俺は苦笑を浮かべるエレニアの顔を見つめていた。
オレンジ色の髪に、真鍮のような金色を反射する瞳。
かつてウォルを開拓したときに比べれば、随分と鋭くなった輪郭。
そして、未だ揺るがぬ闘士と魔力。
「フリーダは討ったんだろ?」
「まあニャ」
10年前、当時の王族を討ち服従を強いたエルダロンへの、フリーダへの復讐。
すなわち、この戦いの目的は既に成し遂げられたのではないかという俺の問いに、当代の土の大精霊は首肯する。
「じゃあ、終わったんじゃないのか?
俺とお前らは今……何のために戦ってるんだ?」
それならば、既にこの戦いの意味は失われているはずだった。
「それとも、俺がお前らに何かしたか?」
「……ニャハハ」
が、歪む金色がそれを否定する。
「逆ニャ、ソーマ。
お前がウチらに何もしなかったから、何もする気がなかったから……。
ウチらは、お前を討つことを拒まなかったのニャ」
それは冷たい、冷たい金色。
「お前とアリスは確かに強いし、確かに優しいニャ。
ウォルの存在やカイラン大陸中の子供を救う、善の存在ニャ」
氷に触れることで冷え切った、痛いまでに冷たい金属の色。
「だけど、ウチらにとってはそうじゃなかった。
少なくとも、テンジンとチーチャへの対価に、生贄にするのに迷うような存在じゃなかった……。
ただ、それだけの話ニャ」
静かな笑顔で伝えられたのは、シンプルな優先順位の話だった。
俺が、エルベーナの人間の命よりも自分の復讐を優先したように。
チョーカの4万人よりも、その後に救われる命を優先したように。
世界の全てよりも、アリスの夢を優先したように。
アイザンの命よりも、自分の心を優先したように。
俺が、サリガシアの現在よりもウォルの未来を優先したように。
サリガシアが、俺の未来よりも獣人の現在を優先したというだけの話だった。
そして、それは俺から見れば悪なだけで、サリガシアから見れば善であり正しいことだった。
俺からすればウォルを守ることが善であったように、エレニアからすれば獣人を守ることが善であるだけだった。
どちらも正しく、どちらも善。
だからこそ、そのどちらも悪。
ただ、それだけの話だった。
「そうか……、……じゃあ、仕方ないな」
「そういうことニャ」
苦い笑いに、エレニアも同じ表情を返す。
ただ、それだけ。
だからこそ、これを解決する手段はない。
どちらもが正しく善であるからこそ、俺とエレニアには戦う以外の答えが残されていなかった。
どちらもが悪であるからこそ、殺し合う以外の結末が用意されていなかった。
「悪いが、俺は生贄だけにはなってやるつもりはない。
ミレイユを連れて帰って、アリスにただいまって言って、……父親にならなきゃいけないんでな」
それ以外を探すには、もう時間が遅すぎた。
「いいや、悪いけどここで死んでもらうニャ。
獣人の誇りと、魔人との契約、……それに親への顔向けもあるからニャ」
大気に満ちる、波濤と重力。
嵐のごとく、それは渦巻く。
「「死ね」」
言葉の後に、それは激突した。