月光
ややぬるめのお湯の中で、ゆっくりと腕と足を伸ばし、首を鳴らす。
普段は立ったまま、数分で体の洗浄を終えていたので、こうしてゆっくり風呂らしい風呂に入るのは久しぶりだ。
猫足亭に湯船を作るのは無理だし、やっぱり家を借りた方がいいだろうか。
少し悩むところだな。
不動産屋とかあるんだろうか、とぼんやり考えながら、何も考えずに目の前の景色を流し見る。
目を閉じて、黙って湯船につかり続ける老人。
隣り合って座り、笑い声をあげている2人の中年男性。
湯船の近くを走り、滑って転んでいる少年……危ないぞ?
軽く100人以上の、全裸の男、男、男。
広大な石造りの建物の中には湯気がもうもうと立ち込め、水音と笑い声、カポーーーンという音が響き渡っている。
……前から気になっているんだが、この「カポーーーン」は何がどうなって発せられている音なんだろうか。
ここは、ラルクス中央広場付近にある、公衆浴場である。
この世界での公衆浴場は大きな町、つまり時計塔のある町ならば最低でも1つは運営されている公営施設だ。
大量の水やお湯を出現させたり、水の温度を一定に保つような魔法は、高位の水属性魔導士でないと難しい。
それ以外の人間でも、水属性と火属性の霊術を駆使すればできないこともないのだが、コントロールの対象がそれなりに大きな体積になるので、一般人の魔力ではまったく足りない。
結果として、市民は2、3日に1回程度は公衆浴場を利用し、それ以外の日
は、たらいや桶に用意した水かお湯で体を拭くというのが、この世界のライフスタイルだ。
俺は高位の水属性魔導士に当てはまるため、毎朝と夜に自分で入浴 (という表現が適切かどうかは微妙なところだが)していたため、公衆浴場に来たのは今回が初めてだ。
市民が清潔を保つことは疫病の抑制につながるため、浴場の利用を奨励すべく入場料は銅貨1枚と非常に安い (当然ながら自陣片の提示は必須)。
オプションとして石鹸で体を洗ってもらったり、マッサージや回復霊術を受けるサービス、場内での飲食代は別で費用がかかるものの、いずれも一般人が少し頑張れば払える金額だ。
男女別、各300名くらいが同時に利用できる湯船と洗い場は、銭湯と言うよりも、もはやレジャープールに近い。
古代ローマのテルマエと、現代日本のスーパー銭湯をくっつけたようなイメージが、一番適切な表現だろうか。
公衆浴場のお湯は、それ専任の霊術担当者50人前後がその管理に雇われている。
実際これだけの量の湯を長時間安定させるとすれば、俺でもそれなりの労力を必要とするだろう。
他のサービス担当者も同数程度雇われており、市民にとっては社交場であり娯楽施設であるとともに、職場や取引先であることも多い。
ある意味において、公衆浴場は町で最も重要な施設なのだ。
さて、なぜ俺が今その公衆浴場の湯船の中で和んでいるかといえば、アリスにそう提案されたからだ。
ラルクスへ帰還し、ギルドへの報告と人質2人の治療の引継が終わった後、アリスからは感謝と慰労と謝罪の意味を込めて、猫足亭で夕食をご馳走されることになっている。
その前に、疲れを取ってリフレッシュする意味も兼ねて、公衆浴場に行くことを薦められたのだ。
今現在、アリスも女性用浴場にいるはず (【水覚】を使えば確認できないこともないが、さすがにこの場でそれを使うのはマナー違反だろう)で、五の鐘が鳴ったら浴場の入り口で合流する予定になっている。
結局、俺は盗賊たちを殺さなかった。
ただ、それは慈悲をかけたからではない。
単純に、【完全解癒】の回復効果が凄まじすぎたためだ。
8人の肉体にはありとあらゆる形で損傷を与えたのだが、どれだけ悲惨な状態からでも回復させる【完全解癒】の効果は、もはや気味が悪いレベルだ。
非常に複雑かつ3メートル近い魔法陣を描くために大量の霊墨と10分ほどの時間が必要なこと、1回発動させるのに2万近い魔力が必要なことを無視すれば、神の御業と言ってもいい効果を発揮する、命属性魔法の最高峰は伊達ではない。
ただし、アリスの言っていた通り、破壊と治癒、というよりも復元を繰り返したことで崩壊した8人の精神を元に戻すことは不可能だった。
盗賊たちはまともな証言どころか、意思疎通さえできなくなった廃人と化したのだが、どうせすぐに斬首されるとはいえ、ギルドで万が一いらないことを口走られても困る。
そこで、木箱を漁って見つけた時戻しの丸薬を数十錠ずつ全員に飲ませて、完全にその記憶を奪い去っておいた。
……記憶以外の部分にも、多少影響が出てしまったようだが。
アリスが、テレジアとロイ、他に3パーティーの冒険者たち、総勢18名の部隊となってアジトにも戻ってきたのは、夜明け近くだった。
入口近くで待機していた俺と合流したときは、夜通し行動し続けていたアリスもずいぶん体力を消耗していたため、細かい説明は俺が引き継いだ。
部隊を広間へ案内し、生きてはいるものの一切の反応を示さなくなった盗賊たちと、盗品の全てを引き渡す。
テレジアからは、盗賊たちがこのような状態になった理由の説明を求められたが、「氷の拘束が解けてしまった際に隠し持っていた何かの薬を飲まれ、こうなった」というやや歪曲させた事実を伝え、事なきを得た。
この状態が薬の作用の結果であることは間違いがないので、完全な嘘と言うわけではない。
アリスも、一応納得してくれた。
真実は森の夜の、闇の中だ。
尚、俺がアリスと戦った場所に放置してきた魔物の死体は部隊の冒険者が代理で引き取り、先にラルクスへ持ち帰ってくれたとのことだった。
テレジアからは、詳細な報告と報酬の支払いのため、また救出した人質との面会のため、参の鐘が鳴ったらギルドに出頭するよう言われ、俺とアリスは先に帰された。
ラルクスに転移した後は、俺は猫足亭、アリスも近くでとっていた別の宿屋へ直行し、ベッドにダウン。
ギルドで再度顔を合わせたのは、その約5時間後だった。
「さて、まずは何からお話すべきなのでしょうかね?」
ギルドの応接室、並んで座る俺とアリスの前には、柔和な顔で苦笑するエバがいる。
冒険者ギルド、ラルクス支部長。
歴戦のAクラス冒険者にして、高位の火属性魔導士。
人呼んで、『紅のエバ』。
そして『無敵のポニーテール』こと、テレジア=リンディアの母。
……いや、テレジアの2つ名は、今俺が適当につけたんだけどな。
そのエバをもってしても、今回の件をどう理解すべきなのか困惑しているようだった。
基本的にソロのはずの森人のBクラス魔導士に、盗賊団のアジトの発見を依頼したら。
何故か、数日前に見つかったばかりの超国家戦力級Dクラス冒険者 (ただし身元不明)とパーティーを組んでいて。
その討伐に50人以上部隊が必要だと思っていた盗賊団約30名を、2人でほぼ皆殺しにしており。
応急処置の施された人質2名と、残されていた盗品のほぼ全てと、廃人になった盗賊8名が回収されてきた。
……カオスだな、確かに。
「報告は、私が行う」
「……任せた」
「聞きましょう」
アリスが淡々と、まるで人形のように昨日の出来事を報告するのを、俺は黙って聞いていた。
今回の件、俺はあくまでもアリスに雇われた身なわけだから、報告はアリスがするのが筋だろう。
何か聞かれるまでは、黙っていればいい。
途中エバからの、ソーマ殿への報酬は何だったのですか、との質問に対して、アリスが、2人で直接決めたことなのでギルドに報告する必要はない、と斬って捨てたくだりには、一瞬ひやりとしたが。
アリスが全ての報告を終え、エバが、そうですか、と返したのは、約30分後だ。
傍らに置いた杖を右手でひと撫でして、エバは俺の方へ柔和な顔を向けた。
「ソーマ殿、捕縛した8人の盗賊なのですが、あのような状態になった理由を説明していただけますか?」
「テレジアに説明した通りだが。
途中で拘束が緩んでしまったときに、全員が懐から何かの薬を出して飲んだら、ああなった。
黒い丸薬……、多分時戻しの丸薬だと思うが、確証はない。
止められなかった点については、俺の不手際だな。
申し訳ない」
「あなたが謝る必要はない。
あの状態では仕方がないこと」
「いえ、ソーマ殿もアリス殿も、責めるつもりはないのです。
尋問ができなくなったのは残念ですが、斬首刑となることにかわりはありませんので。
救出してくださった2人、ミルスカ殿とパンヒール殿にもお話を聞くつもりですから」
「それなんだが、2人の状態は?」
「聞かせてほしい」
「グレッグがついていますが、2人とも命に別条はありません。
お2人が適切な応急処置をして下さった結果です。
直に目を覚ますでしょう」
「その件なんだが」
「テレジアを通して、アリス殿からお話は聞いています。
グレッグの見立てでは、【完全解癒】を使うまでもないとのことですから、心配はないでしょう。
時戻しの丸薬も、こちらでお預かりしておきます。
私も、忘れてしまうかどうかは、本人たちが決めた方がいいと思っていますよ?」
「なら、いい」
「任せる」
「2人が気が付いたら、お知らせした方がいいですか?」
「必要ない。
2人を助けたのは、助けられると思ったから。
せっかく助かった命を無駄にしないでほしい、とだけ伝えてほしい」
「俺からは、何もないな」
「そうですか、わかりました。
では2人になりかわって、お礼を申し上げます。
アリス殿、ソーマ殿、本当にありがとうございました」
「いい」
「どういたしまして」
「報酬は、全てアリス殿にお渡しすればいいですか?」
「いや、」
「それでいい。
俺はアリスから報酬を貰うことになっているから。
ガブラとかグレートラビィの分だけ、渡してくれ」
「……」
「わかりました。
では、後ほど下のフロントでお受け取りください。
それから、ソーマ殿」
「なんだ?」
「今回の件における貢献を認め、冒険者ギルドのラルクス支部長、エバ=リンディアの名において、ソーマ殿をBクラス冒険者として認定いたします。
できることならば、今後もラルクスのためにその力を貸していただければと思います。
アリス殿も、今後もお願いいたしますね」
「飛び級でいいのか?
じゃあ……、ありがたく」
「善処する」
「それでは、お疲れ様でした。
何かあれば、また訪ねてきてください」
ゆっくりとお湯につかり、石鹸で全身の汚れを落とされ、ここ何日かで使い慣れていないせいで思っていた以上にこわばっていた筋肉をマッサージしてもらい、よく冷えたレモンのような果汁が入った果実水を飲み。
要するに、公衆浴場をしっかり堪能してから、着替えて入口に向かった俺が見つけたのは、その一角にできた人だかりだ。
そのほとんどが、若い男である。
アリスを探そうと、入口、といってもホール並みの広さなのだが、全体をカバーする形で【水覚】を発動させると、その人だかりの中心から反応が返ってきた。
……俺は無表情でそちらへ進む。
入浴前と入浴後の20人近い男たちに囲まれている湯上りのアリスは、壁にもたれかかり、うんざりとした無表情で、その全てを無視していた。
茶色のミニワンピース型のバトルドレスを着こみ、足は同色のサンダルブーツで包まれている。
つまりは、旅装からマントと防具を外しただけの姿なのだが、ノースリーブから伸びる細い腕や、白い足、まだ湿っているためかまとめずにそのまま下ろしている瑠璃色がかった銀髪は、その人形のように美しい無表情と相まって、凄まじいまでの引力を発生させている。
人間とは桁違いの、森人の美貌。
不機嫌を隠し切れていないアリスの姿はそれでも尚、周囲の男たちが熱烈な視線を送り突発的に求愛する程、女たちがその周囲で嫉妬と諦念に身を震わせる程に、圧倒的に美しかった。
同じくマントとブーツを外した、黒の上下とサンダル履きの俺を見つけたアリスが、こちらに気付き、一瞬だけ口元をほころばせてまた無表情に戻りながらこちらへ近づいてくると。
俺は湯上りの体が一瞬で冷え切るような、猛烈な殺意のこもった視線を周りから受ける。
思わず反射的に【氷鎧凍装】を発動させそうになり、慌てて力を押さえつけた。
「悪い、待たせた」
「いい、行こう」
結果として必要以上に硬い声で謝った俺と、周囲の全てを見ていないアリスが連れだって公衆浴場を後にする間、俺は力学的には存在しないはずの、視線の圧力というやつを確かにその背中に感じ取っていた。
「いつもあんななのか?」
「あんな、とは?」
「視線とナンパ」
「ナンパ?」
「あぁ、えーと……、お誘い」
「だったら、いつも」
「……ご苦労様」
「慣れれば問題ない。
無視していればいいだけ。
それより……、今日は涼しい?」
「あ、それ俺。
周りの空気の中の水分に干渉して、温度を下げてる。
寒かったら、やめるけど?」
「このままでいい……、……あなたも大概だと思う」
同じ中央広場に面しているので、公衆浴場から猫足亭まではすぐだ。
そのわずかな距離の間に、俺は周囲から10回以上の殺意のこもった視線を向けられていた。
【水覚】で知覚している以上、相手が一般人であることはわかりきっているのだが、こんな調子では正直町の中に暗殺者が紛れ込んでいても発見ができないかもしれない。
せっかくマッサージを受けたというのに、猫足亭でアリスと席に着くころには俺は軽い疲労感を感じていた。
「はい、ソーマ君、アリスちゃん、お帰り」
「……お帰り?」
「宿を移った。
こちらの方がギルドに近くて便利」
「部屋の綺麗さも、ご飯の美味しさも、なかなかのものだと自負してるんだけどねぇ?」
「それは、これから確かめる。
とりあえず、メニューのここからここまで。
それから、ネクタの果実酒をボトルで出してほしい」
「はいはい。
魔導士2人が相手だと、今日は忙しくなるねぇ。
まあ、たくさん食べとくれ!
……ほれ、あんたら!
あんまりジロジロ見るんじゃないよ!
美人だったら、ここにもいるだろうが!」
「うん、あんたはいい女だ」
女主人のメリンダの厚意と心意気に感謝しつつ、わざと声の調子を上げてメリンダを称賛すると、酒場の全体で笑い声が起きる。
小さく笑ってアリスに視線を戻すと、無表情の中にわずかな殺意が混じった緑色の光を返された。
……殺意?
あわててもう1度見ると、アリスも小さく笑い、じょうだん、と口を小さく動かす。
冗談でもやめてくれ。
青酸ガスを操れる女がヤンデレなんて、もはやホラーの領域になるんだから。
ツルりとした白い石製の果実酒の小さいボトルが、木製のタンブラー2つと共に運ばれてきた。
乾いた髪を後ろでまとめバレッタで束ねるアリスに、メリンダが、水はどうしよう、と問う。
アリス、人によっては、うなじのために死ねる奴もいるんだからな?
水はいらない、と俺は答えた。
「これは原酒なので、冷たい水で割って飲む。
……氷も入れてくれると嬉しい」
2つのタンブラーに指2本分ほどの深さまで赤い原酒を注ぎ、アリスが両方を差し出してくる。
タンブラーの中に冷水と4個のキューブアイスを発生させて1つを返すと、タンブラーの中を見て、本当に便利、とアリスが小さくつぶやく。
自分でもそう思うよ。
赤く透明な液体が満たされたタンブラーを軽く回すと、カラカラと氷がぶつかる音が聞こえる。
俺が差し出したタンブラーに、アリスも自分のタンブラーを軽く当てた。
「で、報酬の件なんだけどな」
「……今ここで、その話をするの?」
運ばれてきた大量の料理を大方食べ終わった後に俺が切り出すと、その小柄な体のどこに入っていくのかというような量を一緒に食べていたアリスが、タンブラーを傾けるのを止めてこちらをにらんできた。
その緑色の目には、若干の怯え。
「違う」
私の体を、好きにしていい。
アリスが提示していた報酬案が何だったのかを思い出し、俺は憮然と否定した。
公然猥褻の趣味は、俺には断じてない。
タンブラーの中の甘くて冷たい酒を一口飲み、俺はアリスに報酬の希望内容を提示した。
「しばらくの間、俺とパーティーを組んでくれないか?」
「……」
どういうことか、と視線で問うアリスに俺は自分の考えを伝えていく。
そういえば、この説明をしていなかったな。
「実は、俺には5日前までの記憶がないんだ。
何かの魔法に巻き込まれたんだと思うが、実際のところはわからない。
ラルクスの近くで気がついたところで、テレジア、ギルドの職員のパーティーがガブラに襲われているところを助けて、ここに案内されてきたんだ。
だから、この世界の地理や知識、霊術や魔導のレパートリー、魔導士が旅をするときなんかのコツがあれば、その辺を教えてほしい。
アリスがこの町に滞在している間で、構わないから」
「……」
「どうだ?
まぁ、そっちの旅のスケジュールとの兼ね合いもあると思うんだが。
……そういえば、お前の旅の目的って何なんだ?」
「いくつかある。
でも、そのうち一番重要だった目的は多分達成できた」
「ふうん……」
アリスから明確な返事はないまま、しばらく沈黙が流れる。
「少し……、考えたい」
「わかった。
今日は、ごちそうさま」
「いい」
立ち上がったアリスは、無表情のまま2階の宿へと上がって行った。
部屋に戻った俺は、歯を磨いて寝る準備をする。
この世界にも歯ブラシはある。
マイツ草。
エノコログサ、つまりはネコジャラシの小さくて固いやつだと思ってほしい。
季節を問わず、水辺に大量に群生しているそれは、市場に行けば銅貨1枚で20本近く買える。
基本的に使い捨てだ。
尚、歯磨き粉は塩を使う。
この世界では否応もなく歯茎を鍛えられるから、歯周病とかないんだろうな。
口をすすいだ水をトイレに吐きだして、ベッドに向かった瞬間だ。
小さなノックの音が、ドアから聞えてきた。
「もう少し飲みたい。
いい?」
新しい果実酒のボトルとタンブラーを持ったアリスを、黙って部屋に招き入れる。
とはいえ、部屋にはテーブルやイスがないため、俺たちはベッドに座り、氷で作ったテーブルにボトルを置いていた。
先程よりやや、いや、かなり多めに注がれた酒に水と氷を足し、ずいぶんと濃い目の酒を舐めるように飲む。
まったく酔いが回らないのは俺が酒に強いのか、それともこの酒が弱いのか、元の世界でも酒を飲んだことがなかった俺には、よくわからない。
しばらくの沈黙の後、アリスは小さな声で切り出してきた。
「パーティーを組む件は、問題がない。
明日ギルドに行けば、すぐに手続きはできる。
期間についても、当面は大丈夫」
「そうか、ありがとう」
「それで……」
「……」
「……私の提案を断ったのは、私の体に……不満があるから?」
「っ!!!?」
俺は飲んでいた酒を吹きだし、激しくむせた。
その話は終わっていたんじゃないのか!?
振り返ってアリスをにらむが、しかし。
アリスの表情は真剣なものだった。
深い森の中のような緑色の瞳は、フルフルと揺れている。
ほとんど中身の減っていないタンブラーは、両手で包みこまれていた。
俺は、何かを言おうとし。
溜息をついて、ほぼ中身がなくなったタンブラーを氷のテーブルの上に置いて、左手で自分の髪を軽く掴む。
直接触れていなかったため、テーブルの縁からは水滴が落ちている。
床にはこぼした酒が赤く散り、部屋の中には微かに甘いにおいが立ちのぼっていた。
後で、片づけよう。
「お前は、綺麗だと思う」
「なら、」
俺も男なので、性欲がないわけではない。
アリスは万人が美しいと思う姿をしているし、そのアリスを抱きたくないわけがない。
だが。
「……自分のことを好きなわけでもない奴を、仕事の報酬として抱いたって虚しいだけだろ?」
アリスは美しく、気高い。
だからこそ、そんなことで抱くのは絶対に嫌なのだ。
それは澄み切った、静かな湖に。
どす黒い猛毒を垂らして穢す行為に、とても似ているから。
正直に告白しよう。
アリスとパーティーを組みたいという俺の報酬案は、まだアリスと一緒にいたいがために絞り出した、俺の苦肉の策だ。
ゆっくりと時間をかけてアリスと親しくなっていくつもりだった、俺の浅はかな下心の表れだ。
だから。
「お前は、俺のことが好きなわけじゃないだろう?」
「好き」
「……え?」
「好きだと言った。
これで問題ない」
そう言って、俺はアリスに押し倒された。
いや、ちょっと待て!
普通は逆だから!
しかも、結構力強いぞ!?
「冒険者の先輩として言わせてもらえるなら、もう少し体を鍛えるべき。
あなたの能力は無敵に近いけれど、あなた自身の体力がそれについていかないのなら意味はない。
それから……」
ほんの数センチの距離で俺の瞳を見つめる緑色の瞳が、人形のような無表情が、少しだけ雰囲気を変える。
味わったことのある雰囲気。
これは捕食者の、そう、【大顎之召喚】によって出現した、あの巨大ハエトリグサのそれだ。
「私も、自分のことを好きでもない人と体を合わせるつもりはない。
あなたは、私のことを好き?」
そう言って、アリスは妖艶に嗤う。
「好き?」
何の罰ゲームなんだ、これは。
いや、俺が悪い……か?
悪いか。
くそっ、顔が熱い。
絶対今、俺の顔は赤い。
「好き?」
そう言って嗤うアリスも、……耳が赤いな。
「好き?」
「好きだよ」
そう言って、一瞬でいつもの無表情に戻ってしまったアリスの体に腕を回し、唇を奪う。
甘い果実酒の味と、それ以外の花のような香り。
一拍置いて、悔しそうな顔をしたアリスは、しかし目を閉じて舌を入れてくる。
その動きは、食虫植物のそれだ。
くっそ、負けられねえ。
俺の人生において、最大の激戦が始まろうとしていた。
「ふ、口ほどにもない」
「……ずるい」
ベッドに座り、タンブラーに冷水を作って飲み干した俺を、すこしやわらかくなった無表情とジトりとした緑色の瞳がにらんでくる。
もう1つのタンブラーに氷水を作って渡すと、シーツで胸元を隠したまま起き上がってきて、それを受け取った。
見る以上の行為を今までやっていたのに、今更隠す意味はあるのだろうか。
今度聞いてみよう。
殺されるかもしれないが。
激戦はアリス優勢でその火ぶたが切られたものの、お互いに初陣ということもあり経験による差は皆無。
グローバルな情報化社会で17年暮らしてきた俺が次第に優勢となり、嬲るような長期戦の末に、こじんまりとした城塞は完全に陥落した。
攻城戦の勝利については、途中でいくつかの弱点箇所を発見できたのも大きい。
必要以上の血が流れないように、最大限配慮した上で持久戦に臨んだ結果、敗軍の将にも大きなダメージを与えることはなく、歓喜の声をもって城は開け放たれた。
「次は、負けない」
「再戦ならいつでも受けつけよう、アリス君」
ただ、弱点がはっきりした分、次回もお前が負けると思うぞ。
タンブラーを置いたアリスは、そのまま俺の首に抱きついて、引き倒す。
「……次こそ勝ふうっ!?」
とがった耳を甘噛みして体勢を入れ替えると、アリスの瞳には氷が融けたような絶望の色が浮かんでいた。
結局この日は朝までに3戦し、アリスが3敗した。
空が白み始めるのを感じながら、その空と同じ色をしたアリスの髪に顔をうずめる。
右側で小さな胸を上下させていたアリスがビクっと体を震わせ、上目遣いで緑色の瞳を向けてきたので、さすがにもうしない、このまま昼まで寝よう、と提案すると、コクリと頷き、俺の右腕を抱き締めたまま目を閉じる。
右腕に心地よい圧力と温度を感じながら、俺の意識は深い森の中のような暗闇の中へ、やわらかく落ちていった。