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クール・エール  作者: 砂押 司
第4部 嵐
109/177

モノクローム 前編

青、青、青。

青い空と、青い海……。


……が広がっているはずの光景は、しかしどちらかと言えば曇天に鉛色の海と言うべき灰色の景色だった。

ついでに言えば、普段ならだいたい俺の隣にいるはずのマントの青色も今は見えない。

ラルポートからヴァルニラへ向かうデクルマ商会の交易船、『プーレイ』。

その船室の屋根の上で寝転がり厚い雪雲をぼんやりと眺める俺は、出航して2週間が経過しても尚この環境に慣れることができていなかった。


「……」


もう100回以上は繰り返しているのと同じ動作で、俺の右手は黒いマントの下、ラルポートで新調したルルカスの黒い上着の内ポケットに滑り込む。

手袋越しに人差指と中指に伝わるやわらかい硬い感触を確かめながら、俺は度重なる出し入れでもうクシャクシャになりつつある3つ折りの紙をまた顔の上で広げた。

ラルポートよりもはるかに北の、冷たい海の上。

頬を撫でるその冷たい潮風に白い溜息を流されながら、俺の瞳の上ではあいつらしい丁寧かつ流麗な文字がカサカサと震える。


「……馬鹿が」


ミレイユが俺に宛てた最後の手紙の表面では、何度見ても変わらない言葉が黒く揺れていた。





「……」


あの日の朝、限界まで拡張した【水覚アイズ】にミレイユの姿が映らないことに気がついて嘆息した俺の胸に去来したのは、ミレイユに対する怒りや苛立ちではなく純粋な寂しさと……。

確信していたとは言えないまでもそれでも心のどこかでこの事態を予想し、そしてそれに気付いていないふりをしていた己への呆れだった。


「……馬鹿が」


「……」


疲労感と、徒労感と。

静かにつぶやいた俺の隣のベッドでは、アリスが一言も発さずに唇を噛んでいた。

妊娠を機にベッドを分け、それでも手を握り合って目を閉じた前の夜。

そのときにお互い考えはしていても決して口に出さなかった「最悪」が実際のものとなったことに、エメラルドの瞳には冷たい炎が揺れている。


「……アリス」


「わかってる」


だが、その怒りは何も言わないままに約束を破った親友に対するものでも、そしてそれを止められなかった夫に対するものでもない。

師であり姉であり、親友であり家族であったはずのミレイユの覚悟を受け止めるに足りなかった、自身の弱さに対するものだ。


「……ウォルポートの方を見てくる。

村の方は……」


「わかってる。

……フォーリアルやムー様にも手伝ってもらうから」


「……ああ」


体を起こし【思念会話テレパシー】でシムカとセリアースに指示を出す俺と寝室を出て台所に向かうアリスは、言葉を交わしながらも互いに目を合わそうとしない。

渇いた口とザラついた舌、重りが詰められたように痛む目の奥。

夜明けの薄紫の日が細く差し込む家の中で、まるでラルクスの森の中で出会ったあの日の前。

それぞれが1人であった頃に戻ってしまったかのような錯覚に陥る。


が、それは決して俺とアリスの信頼の間に亀裂が入ったからではない。

……逆に、お互いが考えていても決して口には出せない。


すなわち、どれだけ探してもミレイユは見つからないだろう、……と。


そう思っていることがお互いにわかっているからこその、意図的な孤独だった。





いつになく硬い表情のシズイの背からウォルポート、どころかカイラン大荒野の2割を占めるウォル領内全ての捜索を終えた俺が次にアリスと目を合わせたのは、参の鐘が鳴ってからもうかなりの時間が経った頃だった。


「……」


「……」


ミレイユを見つけていればすぐに知らせ、また知らされるはずだと理解できている以上、別れてからゆうに半日以上を挟んでの再会はお互いにそうするべき出来事がなかったことの証明にしかならない。

右手に握られたフォーリアルに、後ろに控えるシムカとサラスナ。

説明するまでもなく状況を理解してアリスと共に村中を探し回っていたサーヴェラ、タニヤ、ルーイー、ガラ、ニア、ランティア。

連絡水路や領内の森を伝い未だにミレイユを捜してくれているのだろうムーやセリアースたちとウォルポートで通常業務に就いているアンゼリカたち以外の全員が集まる前で、シズイから降りた俺はアリスと溜息を交換した。


「「……」」


「……あいつの家の状況は?」


全く人の気がなく、実際【水覚アイズ】でもやはり誰も知覚できないミレイユの家の前。

その場にいる全員が何もしゃべらない、まるでホームルームで説教を受けているような空気の中で、思った以上に掠れた俺の声が響く。


「手紙が……、たくさんあった。

あなたにも、私にも、ここにいる皆にも、……他の子供たちにも」


対するアリスの声にも、ひどい疲れの色が滲んでいた。


「内容は?」


「……妊娠中の生活で注意することとか、赤ちゃんの世話の仕方とか、……勉強の教え方とか。

それから新しいレシピのこととか、あと……、……ごめんなさい、って」


「……オレのは、リーダーとして必要なことやこれから勉強しないといけないことが書いてあった」


タニヤとルーイーには、子供たちの面倒の見方や叱り方について。

ガラには、質のいい畜産物を作るために必要な知識やカイラン大陸以外で流通している家畜の生態について。

ニアとランティアには仕事のことの他に、やはり子育てや躾のことについて。

サラスナには、シズイとのオススメのデートプランについて。

シズイには、七並べの詳しいルールや勝ち方のコツについて……。


再度踏み込んだリビングのテーブルの上には、アリスとサーヴェラを含め既に宛先の主が開封しているそれらの他にも膨大な量の紙片が積み上げられていた。


素揚げした黄芋イラテルに糖蜜を絡めてからアミシアを振る、「ダイガクイモ」の作り方。

引き算のくり下がりのわかりやすい説明。

友達と喧嘩をしてしまった後の謝り方。

ボールを真っ直ぐに投げるフォーム……。


嘘をついてはいけない理由。

髪や服の手入れの仕方。

恋文の書き始めの文案。

花屋になるために必要な勉強……。


軽く数百通を超えそうなそれら全ては、『先生』として。

あるいは母として、姉として、友として。

家族として、ミレイユがウォルの子供たちに教え、贈ることのできるありったけの言葉であり。


そして、「もうウォルへ帰ることはない」という、言外の別れと謝罪の言葉だった。


「「……」」


ミレイユは自身の行動の弁解と説明を考えるためではなく、これを遺すために俺に一晩の猶予を願い出たのだろう。

普段の口調とは異なるやや事務的で、しかし流麗としか言いようのない細い達筆が並ぶテーブルの端には、使い潰された数本の羽ペンや空になったインクの壺が転がっている。


おそらく、自分を慕う子供たちの顔を思い浮かべながら。

きっと、ウォルで暮らしたこの4年間を思い出しながら。


それでも自分の裏切りと決別を告げる言葉をしたためるミレイユは一体どんな顔でここに座っていたのだろうか、と俺は立ち尽くしていた。


「これは、……あなた宛」


半身を失い途方に暮れてしまうような喪失感と、表層的にしか理解できていなかったミレイユの覚悟への戦慄。

唇を結ぶことで失意を必死に押し殺す中、同様にアリスの硬い唇が俺を呼ぶ。

『旦那様へ』と見慣れた文字で封書された、クリーム色の紙片。

震えを必死で抑える細い指先には、まだ封の解かれていない俺宛の手紙が挟まれている。


「……」


開くことが恐ろしかった。

この中にどれほどおぞましく、そして悲しい内容が書かれているのか、知らなければならないと理解しつつも俺の本能がそれを恐れていた。


傍目には、丁寧に。

実際には、言うことを聞かないだけの黒い指先でゆっくりと赤い蝋印をはがし、俺の瞳はゆっくりとその答えを探す。


紙の中央に流れる、やはり流麗なミレイユの文字。


「……!」


しかし、意に反してそこにはたった1行の文しか記されていなかった。





『次にお会いできるときは、どうぞかたきとして』





そして、それは俺が覚悟していたどんな内容よりもさらに最悪なものだった。


何だ、これは?

どういう意味だ?

敵とはどういうことだ?


ミレイユ、お前は。


何をしようとしているんだ?


「ソーマ?」


明らかに顔つきが変わってしまっていたのだろう。

内容を知りたい、というよりも俺への心配の感情の方が強くなったアリスの声に、俺は必死で体の震えとこみ上げる嘔吐感を押さえ付ける。

痙攣しそうなまぶたをゆっくりと閉じてから、俺はミレイユの言葉ごと掌中の手紙を握り潰した。


「……『申し訳ありません』、だとよ」


「…………そう」


上手く呼吸ができないまま捏造した低い声は、幸いに吐き捨てるような口調となる。

怒りではなく困惑と混乱で歪む視界の中で、アリスやサーヴェラたちの顔はうつむいていた。


「……」


俺は、何もわかっていなかった。

何も知らず、そして知ろうともしていなかった。


ミレイユ、お前は何だ?


何を見て。

どこから来たんだ?

そして。


どこに行こうとしているんだ?


「……馬鹿が!」


主人のいなくなった家の中で、俺の声が静かに爆発して消える。

それがミレイユだけに向けたものでないということを除けば、俺の激情は本物だった。

















「ソーマ=カンナルコ殿?」


「……何だ?」


灰色の思考の海に沈んでいた俺は、その穏やかな声を聞くと同時に手紙を胸の中に戻した。

声の主はハルキ=シー=スウェイン、すなわちミレイユが姿を消す前日、今から1ヶ月半前のその日にルルと共に領主館を訪れ、その原因を作った商会員の1人だ。

白っぽく軟らかそうな巻き毛に、同じく耳の上でクロワッサンのように丸く巻かれた2本の角。

常に眠そうな薄茶色の瞳には、しかし感情のない俺の視線を受けて隠しきれない緊張が滲む。


「……サリガシアが見えましたので、そろそろ降船のご準備を。

直に、ヴァルニラに入ります」


「そうか」


口では肯定の返事をしながらも空を見たまま起き上がろうとしない俺の声に、ハルキの顔には狼狽の色が混じり始めた。





ウォル全体、そして村とウォルポートの統治の補佐。

村の住民、特に子供たちの生活管理の統括。

学校での教育に、幼児の心身のケア。

食事のメニューの拡充と最終的な決定……。


これまでミレイユにほぼ任せきりだった、『領主代行』や『先生』としての様々な仕事。

その当人が消えてしまった後も、しかしウォルでそれらの仕事が滞ることはほとんどなかった。


なぜならその当人自身が、それに対する詳細な引継や説明、自身が不在となった後の人事異動の部分についてまで丁寧な手紙を残していたからだ。

少なくとも、ウォルポートでの『領主代行』として。

そして村の運営における統括としてのポスト的な意味では、ウォルに大きな変化は起こらなかった。


が、それはあくまでも形式的。

労務的な部分においてだけだ。


『先生』として。

あるいは友人や、姉や。

母として。


子供たちはもちろん大人の住民からも、『十兄弟』のように今は率いる側となったリーダーたちからも。

そして、アリスからも……、……俺からも。

語り尽くせぬほどの信頼と感謝、……愛情を寄せられていた存在の突然の失踪は、俺やアリスを含めウォル全体に深刻なショックをもたらした。


子供たちのケアに走り回り。

その面倒を見るリーダーや大人たちの相談にも乗り。

それでも、説明してやることのできないミレイユの真意を探しながら。


……正直、ミレイユがいなくなってから2週間分ほどの記憶が俺にはない。


それはアリスも同じだった。

俺と共に朝から晩まで村中を回り皆の柱として気を張り続けたアリスが泣くことを自分に許したのは、親友が去ってから3週間が経ってからだ。

妊娠がわかってからはそれまでのダブルベッドをアリスに明け渡したため、新しくその隣に置いていたシングルベッド。

その日の深夜、そこに転がっていた俺の胸の中に無言で潜り込んできてひたすら肩を震わせたアリスに対して俺がしてやれたのは、その小さな頭を撫でて細い背中をさすってやることだけだった。


大丈夫だ。

きっとあいつは戻ってくる。

少しだけ、待っていればいいだけだ。


俺が、何とかする。


夫として、そしてアリスを守るために命を懸けると誓ったソーマ=カンナルコとして言ってやるべきそんな言葉を、しかし俺はアリスに約束してやることができなかった。

胸元に広がり続ける火のようなその温度をただ抱きしめながらただ俺にできたのは、いつ明けるのかわからない朝を一緒に待つことだけだった。





だが、時間というのは残酷なものだ。


どんな怒りや悲しみや憎しみでさえ、それはいつか流し去ってしまう。

決して単純なものではない俺の母への想いや、朱美あけみへの想いや、アイザンへの想い。

そうしたものが4年、あるいは14年の間に随分と変化したように……。

ウォルも1ヶ月が経つ頃には、『先生』がいなくなったことに少しずつ、静かに慣れ始めていた。


ミレイユを、連れ戻す。

俺がそれを決意したのはそんな村の空気を感じ取ったためでもあるし、何よりアリスがそれを望んだからだ。


「ウォルポートのことはもうアンゼリカたちに任せていれば大丈夫だし、村のことはサーヴェラたちがきちんとやってくれる。

私も、すぐ隣にはニアもランティアもいるんだし何かもっと大きなことがあればフォーリアルやシムカに頼るから大丈夫。

……だから、あなたはミレイユのことだけを考えて。

ミレイユも、私たちの大切な家族なんだから」


深い森の奥の、大樹の葉の優しい色。

磨き抜かれたエメラルドの、怜悧と決意の透き通った色。

数度の夜の涙と共に己の迷いと不安、心配と弱さを流しきったアリスが俺にそう切り出したのは、今から2週間前のことだった。


「……言ったでしょ、ソーマ。

私はあなたに守られるだけじゃなくて、あなたの隣で一緒に闘いたいの。

私は大丈夫だし……、この子のことも大丈夫だから」


迷いと不安、心配と弱さ。

未だそれを拭いきれていなかった黒い瞳をまっすぐ見つめながら、アリスはまだ目立ってはいない自分のお腹を小さな手で撫でる。

その姿は『至座の月光』や『魔王の最愛』といった二つ名に冠される強さとは関係のない、『母』としての無条件の強さと『友』としての無条件の信実に満ちていた。


「それに、この子を教えてほしい『先生』は、……やっぱりミレイユだもん」


「……そうだな」


だからこそ、俺は最後までアリスにミレイユの手紙の内容を伝えることはしなかった。

今のアリスの強さを支えているのは、夫である俺への。

そして、友であるミレイユへの絶対の信頼だったからだ。


机に向かい、アンゼリカたちに渡すための注意事項や不在の間の方針を書き出していく俺の手元に、穏やかな微笑みを浮かべたアリスが今の自分は飲めないカティのあたたかい杯を出してくれる。

心の片隅を覆う氷の冷たさに気付かれないよう、苦くて甘いそれを俺は口に含んだ。

















「聞こえているから、大丈夫だ。

それとも、他に何かあるのか?」


「いえ……、……それではご準備をお願いしますね」


顔だけを横に向け感情のない視線と質問をぶつけると、その場で立ち尽くしていたハルキはようやく踵を返した。

融けかけの氷像のようなその表情と挙動にさしたる興味も湧かず、俺は自分の体温が移って少しだけぬるくなった屋根板から上体を起こす。





ミレイユを、連れ戻す。


アリスとウォルの住民たちを安心させるためにも、そして「敵」という言葉と失踪の真意を確かめるためにも。

いずれにせよ必要だと判断したこの決意は、しかしさらに俺の困惑を深めるだけだった。


ミレイユがどこに行ったのか。

その場所の見当どころか可能性すら、俺をはじめとする誰も持ち合わせていなかったからだ。


王都に召喚される前に住んでいた場所は?

生を受けた出身地は?

それはこの世界だとして、いつの時代なのか?


そもそも、「ミレイユ」とは本名なのか?


出会った当時から今に至るまで自陣片カードを持たせなかったのは政治的な判断もあったからだとはいえ、あらためてミレイユの素状に関する情報を何も知らないことに、そしてアリスとの砕けた会話の中でさえその部分を巧妙に避けられていたことに、あらためて俺たちは愕然とさせられた。


また、これは手紙の内容を知る俺だけであるが……。

同じ理由で、俺にはミレイユが姿を消した動機、そして「敵」を名乗った必要性もわからなかった。


が、……極めて不愉快なことに、それを知っていそうな人間になら心当たりがあった。


「ウチらと一緒にサリガシアに行かはる、と?」


支店の開店準備を終え、今度はサリガシアで売るための品を買い付けていたデクルマ商会の事務所を再訪したのはそのためだ。


「ああ、船客として乗る以上きちんと運賃は払うし食事の世話もいらん。

テン……、以前話していた失踪事件について、直接現地で情報を集めておきたくてな」


デクルマ商会の商会長、ルル。

「テンジン」の名を出してミレイユを失脚、そして間接的に失踪させたその張本人は、凍気一歩手前の冷気をまき散らしながら唇の端をつり上げる俺の申し出に無表情で了承の返答をした。





こうして、ネクタへの帰省とは真逆のこの灰色の船旅は始まったのだ。

経由したラルポートから出航し、商会員の獣人ビーストはおろか操船のために雇われている風魔導士の船員たちとすら必要最小限の接触を持たないこの2週間の中で、俺はひたすら思索に没頭していた。

それに、考えなければならなかったのはミレイユのことばかりではない。


描戦びょうせん』、ルル=フォン=ティティ。

姿を消した魔人ダークスの心中が察せない他方で、この獣人ビーストがなぜミレイユを害するようなことをしたのかも俺には全くわかっていなかった。


ミレイユから憎まれること。

ミレイユが不在になったことでウォルが混乱すること。

諸々を含めて、俺とアリス、そして木の大精霊たるフォーリアルの不興を買うこと……。

冷静に考えて、実際のところルルの行動の結果はルルにもデクルマ商会にも何のメリットももたらしていない。

そして、それはサリガシア全体に対してもである。


サリガシアと『声姫』の因縁。

せいぜいが決戦級の軍隊に対し、国1つを魔導の支配領域とする世界最強。


正直に言えば、今回のことに限らず仮に獣人ビースト側からウォルに対して何らかのアプローチがあるとすれば、それは同盟の打診や懐柔などの前向きなものしかあり得ないだろうと、俺は高をくくっていた。


俺を筆頭とするウォル陣営をエルダロンにぶつけ、それに乗じてフリーダの首を獲る。

現状に満足しきっていない限り、サリガシアにとってはそれくらいしか『声姫』を討つ手段は残されていないはずだったからだ。


が、だからこそ俺はフリーダとの会見の模索を優先して、サリガシアとは距離をとってきたのである。


ましてや、ルルは軍や国家の中枢を担い天才とも謳われた軍師。

頭が悪かろうはずもなく、俺が考えつく程度のことには先に至るはず。

当然、あからさまなことはしないだろう……。

そう、思っていた。


しかし、実際に行われたのはそんな目算とはかけ離れたあの暴挙だ。


……あるいは。

これはサリガシアの現況とは関係のない、ルル個人の私怨によるものなのだろうか?

ミレイユか、俺か、アリスか、ウォルの住民の誰かか。

まぁ、後者2つはおそらくないにしても、少なくとも俺は4年前の南北戦争で傭兵の中にいた獣人ビーストを殺したことがある。

その中に、例えばルルの関係者がいたとすれば……。


肉親を奪われたときに、人がどれほど冷たく狂うかを。

恋人を失ったときに、人がどれほど憎悪を覚えるかを。


……実際、俺は双方の立場で思い知らされている。

白字ホワイト赤字レッドかも、正しいか正しくないかも、善か悪かも、その前では関係がない。

そして、真に狂った人間はどこまでも残酷になれる。

民族の未来も国家の都合も超えてルル個人の感情が爆発した可能性も、否定はできなかった。


……そしてついでに言ってしまうと、俺はミレイユに自陣片カードを持たせていなかったが故に、結局あいつが赤字レッドだったのかどうかを確認できていない。

俺自身がアリスと出会う前に既にエルベーナを滅ぼしていたように、ミレイユも俺たちと出会う前、あるいは召喚される以前に何かをやらかしていた可能性も否定はできないのだ。


「……」


が、それがどうもしっくりこないのもまたこの2週間の真実だ。

復讐としては中途半端でもっと徹底的に貶められただろう、という部分を別にしても、ルルの行動もそれを受けたミレイユの行動もあまりに不合理すぎる。

少なくとも、ルルが得をしたり何かを達成したようには見えない。

ミレイユも、進んで悪を享受するような愚か者ではないし弱者でもない。


……やはり、キーワードは「テンジン」か。


体を、起こす。

首をクキクキと鳴らしながら、俺は屋根板の冷たい部分に手をついて鈍色の空をにらんだ。

流石に白字ホワイトであるルルたちを口を裂くわけにもいかない以上、サリガシア北方で頻発しているという失踪事件、すなわち俺が渡航する名目となっている件の犯人だというその「人物」。

ルルの放とうとした最後の単語のように激発こそさせずとも、少なくともミレイユを動揺させたその人物に直接問い質すのが、……それがどんな内容であれ、やはりミレイユのことを知る近道か。


『次にお会いできるときは、どうぞ敵として』


最後の最後でこの言葉を俺に残し、アリスを散々泣かせたあの馬鹿のことを知るための……。





「……!」


……そして、その機会はそれほど先の話にはならないかもしれない。


小さな点、無数の点。

まるで虚空から雲が生まれ、雲の中で雨粒が生まれ、それが雪の結晶へと変わっていくように。

軒下の氷柱が雫ごとに育ち、小さな棘から巨大な剣へと化すように。

赤い光の点に過ぎぬ火の粒が、やがて都市すら焼き払う大炎と化すように。


最大半径2千メートルを誇る、俺の【水覚アイズ】。





その、ほぼ中心。

すなわち数メートル先を歩くハルキの背後に、突如「黒い右腕」が現れる。





「え、……あ゛っっ!!!?」


異常を感じ振り返ろうとしたハルキの胸部を紙きれのように破ったのは、それに握られる同色の錫杖しゃくじょう

シャラン、と涼しげな音を放つその先端では、赤い心臓がまだ拍動を続けていた。

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