ゴー・アウト
イスを蹴って立ち上がった俺は、青いテーブルを横切る白い腕に自身の左手を振り下ろした。
「「!!!!」」
ギャン!!……と、硬い音。
無表情の俺の左手に氷でできた透明な斧が握られ、それが。
躊躇なく、ミレイユの肘を断ち切ったことを。
酸欠になりチアノーゼを起こしかけているルルの両隣の獣人、すなわちキャメロンとハルキ、そしてゴードンが唖然と見つめる。
「が、ほっっ、はっ、は、っっぉえっ!」
「……」
解放され激しく咳き込むルルを無視して、俺は固まったままのミレイユに視線を落とした。
水天石のテーブル、その中央に刃を食い込ませた斧を境としてミレイユの右肘から先は本人の肌と同じ、白い灰となっている。
その持ち主は身を乗り出したままの姿勢で微動だにせず、顔にかかった闇色の髪がその表情も覆い隠していた。
斧の下に端が巻き込まれ、一部が灰に還った赤いショール。
それと同じ色の光が、その闇の中で2つ燃えている。
「……これは、何の真似だ?」
「……」
テンジン。
それが誰なのかはわからないし、その後にルルが何を言おうとしたのか。
そして、ミレイユがその何に反応したのかもわからない。
「ミレイユ」
ただ明らかなのは、俺がアリス以外で最も近しい関係だと。
ウォルにおいて俺が自分の右腕だと認めるミレイユが、本気でルルを殺そうとしたことだけだ。
殺意。
爆炎のようなそれで理性を焼き尽くしたミレイユの瞳に、血の気の失せた俺の顔は映っていなかった。
……それが、後ろに下がらず。
「ミレ……!」
「……がっ!」
まだ咽ているルルに残った左腕を伸ばそうとした瞬間に、俺はその赤めがけて全力で右手の甲を叩き込んだ。
氷をまとわせ鈍器に等しくなった裏拳を正面から食らい顔から吹き飛んだミレイユは、苦鳴と共にイスごと後ろの壁へと叩きつけられる。
同時に、俺は【思念会話】でシムカとセリアースを召喚した。
……もはや、やむを得ない。
「動くな、……ミレイユ」
左右に、2体の水の上位精霊。
目の前に、悲鳴を上げる【白響剣】の半円の切先。
「……」
4年を共にし、口にせずとも固い信頼で結ばれていた主人と。
その主人と妻が最も頼りとし、自分も知らぬ顔ではない水の上位精霊筆頭と。
同じく、村の成立時から長く共に暮らしてきた上位精霊と。
自分が、その3人から攻撃の手を向けられていることに……、……ようやく気付き。
「……はい」
ミレイユは、愕然とした瞳を床に向けた。
「くかか……」
場違いな低い笑い声は、俺の背後からだ。
「仮にもAクラスのウチが、反応もできん。
それに、外すどころか緩めることもできんか」
独り言のようなルルの声には、種類のわからない暗い笑いが混じっている。
「流石、『化け物』やな?」
「!」
「ミレイユ!!」
悪意ととられても、仕方がない。
あるいは、それを隠そうともしない「被害者」に侮蔑をぶつけられ魔力を軋ませた「加害者」に、俺はさらに冷たい声を突き刺した。
「領主代行、……ミレイユ。
アーネル王国自治領ウォル、領主ソーマ=カンナルコの名のもとに……。
デクルマ商会商会長ルル=フォン=ティティ氏への傷害を理由として、現時点をもって領内におけるお前の全ての権限を剥奪する。
また、本件の正式な処罰決定まで領内の自宅で謹慎を命ずる。
……シムカ、セリアース、連れて行け」
「……」
「……御意に、当代様」
「御意」
職務の、権限の剥奪。
すなわち、信頼の撤回。
文面だけを見ればそうとしかならない俺の宣言に、うつむいたままのミレイユは一瞬だけ赤い肩を震わせた。
シムカとセリアースに再生した右腕と左腕を取られたまま、その場でゆっくりと立ち上がる。
問いかける俺の視線から逃げるように、ミレイユはドアへ向かって歩き出した。
「話は、後で聞かせてもらう。
……それとも、今この場で何か言うべきことがあるか?」
「……ルル様…………。
……ご無礼を、いたしましたわー」
少なからずの願いを込めた俺の最後の問いに、ミレイユは軋むような声で謝罪を口にした。
「……」
よかった。
ミレイユが、ここがウォルであることを。
そして、罷免されたとはいえ自分がその場で範となる存在だったのだと今は自覚できていることに、俺は心の底から安堵した。
「いーえ」
肯定であり否定であるルルの返答は、「ありがたく」肯定として解釈しておく。
どの道、こいつらへの対応はこれからだ。
【シムカ】
【は】
一方、ミレイユの背を横目にしながら、俺は声や表情を出さずにシムカの名を呼んだ。
以前にシムカ本人からその存在を教えられた、【思念会話】。
大精霊と同属性の上位精霊の間のみで使用可能な思念による意思の伝達は、その忠誠から絶対の秘密遵守となるという点でこういうときに便利だ。
【最低限の人数を残してエルベ湖の上位精霊を全て村に移し、その指揮権をセリアースに渡せ。
その後はアリスとフォーリアル、シズイ、サラスナ、班長たちに状況を説明し、以後は実体化のままアリスの守護を。
……俺が戻るまで、傍についていてやってくれ】
【御意に、ソーマ様】
ただ、せっかく使うそれの内容がこのように殺伐としたものであることは、少なからず俺を暗欝とさせた。
アンゼリカやサーヴェラを筆頭とする子供たちはもちろん、ミレイユを師と仰ぐ住民たち。
そして何より、個人的な親友としても絶対の信頼を寄せているアリス……。
【セリアース】
【は】
それぞれがミレイユにどのような想いを寄せ、そしてこの件にどのような反応を示すか手に取るようにわかるからこそ、思念の中であっても俺の声は氷のように固くなる。
【自宅到着後、お前ともう1人は宅内で。
それ以外に4人を家の周りに配置して、常にミレイユを監視しろ。
俺が戻るまで本人が出ることももちろん、誰か住人が……それがたとえアリスでも、入ることも許さん】
だが、俺はミレイユの主人でありアリスの夫であると同時に、このウォルの領主でもある。
【他の精霊は、小エルベ湖と連絡水路に待機。
万が一、ミレイユが攻撃行動をとった場合は……】
公明正大に、信賞必罰をもって。
守るべきものの優先順位を冷徹に選び抜いた結果。
【全戦力を持って制圧しろ】
俺が思考した末の指示は、どこまでも透明で冷たいものとなった。
【御意に】
あまり感情を外に出さないセリアースの無機質さが、今は俺の感情を軽くしてくれる。
【俺は夕方頃まで戻れない。
それまで、村を任せたぞ】
【【は!】】
絶対の忠実を誇る2人の応が揃ったのは、少し前からそこにいて全てを聞いていた、ドアの前で愕然と立ち尽くすアンゼリカの前を無表情のミレイユが横切ったときだった。
「あ、あの……」
「アンゼリカ、ルル氏の治療を頼む」
ミレイユに対するものなのか、ルルに対するものなのか、……あるいは俺自身へのものか。
3人の姿が見えなくなったことで一気に突沸しそうになった苛立ちを、俺はギリギリで感情のない声に変える。
「……いやいや、お気遣いなく」
「治療を。
それが終わったら、お前も村に戻れ。
文書の方は、……今日はもういい」
歪んだ笑みを浮かべる藍色の瞳を無視して、俺はアンゼリカに指示を重ねた。
右隣で倒れているイスを元に戻す気も起きず、斜めになったままの自分が座っていたイスに深く腰をかける。
力を抜いたことで気道から上がってくる空気は、溜息となって勝手に唇から逃げていった。
「……」
「……はい。
…………ルル様、失礼いたします」
「ほんなら、遠慮なく」
再度アンゼリカに視線を送ると、硬直していた紫色の瞳はようやくルルを直視した。
ペラペラと動く『描戦』の口元を横目にしながら、俺はグチャグチャになりそうな脳内に叱咤激励を飛ばす。
……とりあえず、ミレイユの方は後でいい。
ならば、今この場で決着させるべきことは……。
「……下がれ、アンゼリカ」
「……はい」
数分後、丁寧な【治癒】でルルの首の治療を終えたアンゼリカに身を沈めたままの俺は小さな目礼を返した。
アリスやミレイユと同じく、出会ってもう4年。
アンゼリカにも、それで伝わる。
静かにイスから立ち上がった俺の視線に押されるように、アンゼリカは静かに退室した。
「どうも、わざわざありがとうございました」
「……いや。
この度は、ミレイユが大変申し訳ないことをした。
まずは、領主として心より謝罪する」
ドアが閉まると同時に、俺はその場で腰を直角に折った。
平身低頭。
全面的に非を認める言葉と共に、俺はアリス以外には滅多にやらない謝罪の姿勢をとる。
「……いえいえ。
突然のことでウチもビックリしましたけど、失礼なことを言うたのはこちらも同じですから」
おそらくはこの俺の行動、つまり素直な謝罪を予想していなかったか、していても可能性は極めて低いと踏んでいたのだろう。
瞳を閉じ床を向いたままの俺のまぶたの内側には、【水覚】で映し出されるルルの一瞬の無表情がしっかりと捉えられていた。
それでも、それを声音に出さないのは流石だ。
俺があっさりと認めたウォル側の非を否定はせずに、しかし自分の非も認めて譲歩することで。
このままさっさと事態を収拾してしまいたいという焦りは、そこからは見えてこない。
明らかに挑発を行い、さらに侮辱ともとれる発言をした。
ミレイユはそれに反応し、ルルに暴行をはたらいた。
先程までのこの出来事をあらためて客観的に判断しても、残念ながらやはり法的に苦言を呈されるのはミレイユの方だ。
そして、あそこで俺がミレイユを咎めなければウォルの法治能力は元よりミレイユの人格そのものに疑問が集まることは、おそらく必定だった。
だからこそ、俺はミレイユの腕を断ち斬り殴り飛ばすという度を越えた対応をしたのだ。
無論、魔人であるミレイユは負傷しないし傷痕も残らないので本質的な意味で処罰にはならないわけだが……。
それでも、あの一連の行動で俺がミレイユに厳罰を与えたという「ポーズ」は示すことができた。
あの場で俺が避けなければならなかったものは、ミレイユへの罰の主導権をルルに握られること。
ウォルと、そしてミレイユ自身。
まずはそれを守るために、俺はミレイユを打ちすえたのだ。
「……この話はもうなかったことにしましょ?」
続いたルルの一言は、この策とも呼べないような苦肉の策のとりあえずの成功を俺に伝えていた。
「もう、頭も上げてください。
領主様自ら腕を叩っ斬って、殴り飛ばされた……。
ウチらとしてはそれで結構ですし、これ以上の処罰も求めません。
もちろん、『なかったこと』を吹聴するような器用なこともいたしません。
……このルル=フォン=ティティ、『爪の王』ソリオン=エル=エリオット陛下に忠を誓うものとして、その御名にかけてお約束します」
『毒』のネハン=ネイ=ネステスト。
『牙』のナガラ=イー=パイトス。
そして、『爪』のソリオン=エル=エリオット。
獣人がこの3人、すなわち王のいずれかの名前を出して何かを約束するときは、それがどれだけ困難で不条理なことであっても、仮にそれが自身の死に直結することでも絶対に破らない。
この世界の全地域全種族が吐く約束の言葉の中で、皮肉なことにそれは最も信頼できる言葉だ。
たとえ内心でどう思っていようともその名を出した以上、ルルは実際にミレイユとのことを「なかったこと」にするだろう。
「……わかった。
心遣い、痛みいる」
……とりあえずは、成功。
胸を撫で下ろしつつ顔を上げた俺は。
「それで、テ……」
「なかったこと、になりましたよね?」
しかし同時に、その他の部分では失敗したことも悟らされた。
テンジン。
そして、ミレイユに殺意を抱かせた名前。
それを確認しようとした俺に、ルルはニコリと笑いかける。
が、その瞳に浮かぶのは友好的な商人の優しさなどでは決してなく、歴戦の軍師、かつて北の大地で効率的に人を殺し続けてきた『描戦』の藍色だ。
「ウチは商売の話で口を閉じたし、代行……、元代行様も笑顔で出て行かはった。
それでええやないですか?
ウチらも忘れますし、そちらも忘れてください」
「……」
そちらが「思い出す」というなら、こちらも「思い出す」。
それこそ、王の名にかけて。
名実ともに『魔王』と呼ばれる男を相手にして尚有無を言わせぬその口調は、どこまでも軽やかでにこやかだ。
それに即答できなかった時点でこの戦争は引き分け、……いや、俺の負けだった。
「では、ウチらはこれで失礼させていただきます。
お噂のウォルポート、しっかり見学させていただきますわ」
本当に、何も「なかった」ように。
俺が無言になったのを確認し、今度こそまるで商談が終わった直後のように弛緩した笑顔を浮かべた後、ルルは立ち上がった。
慌てて続くキャメロンたち3人を引き連れミレイユが消えたドアへと向かうその後ろ姿では、ユラユラと巨大な尻尾が揺れている。
「……!?」
しかし、それは手を掛けようとしたドアが一瞬で白く凍りついたことで、ピタリと止まった。
「……せっかくだ、俺が案内しよう」
硬直するゴードン、ハルキ、キャメロン、ルル。
後ろから順番に追い越した俺は、歩みのままに凍結したノブを右手で握る。
「領主様、……いいえ、天下の水の大精霊様直々のエスコートですか?」
「何か、不都合でも?」
ルルは、観光地のホテルのフロントが「こちらは初めてですか?」と問うような職業的な笑顔で問い。
俺は、遊園地のマスコットが浮かべるような機械的な笑顔を返す。
「他意はない。
元々予定していた案内役が、何故か今は自宅謹慎中になってるんでな。
純粋な善意で、単純な親切心だ。
別に、デクルマ商会一行の行動には不快も不審も、そして不満も不安もないとも」
「……」
間は、わずか30センチ程度。
その距離で笑顔の俺から瞳を覗きこまれて、この日初めてルルの顔には明確な動揺が浮かんだ。
綻ばせた口元から紡がれる言葉とは裏腹の、明確すぎる憤怒と殺意。
『黒衣の虐殺者』。
自分の目の前に立つソーマ=カンナルコという男が、『描戦』以上に多くの人間を。
それも何の躊躇もなく殺してきた人間……、いや、人外だと今更思い出したのだろう。
「……ご心配されんでも、約束はお守りしますよ?」
「それは当然、……忘れていないが?」
当たり前だ。
非は、確かにミレイユにあれど。
しかし、ルルがその原因を作ったことを。
俺の「家族」を害したことを。
俺は決して、「なかったこと」にはしない。
「忘れないとも、ルル=フォン=ティティという獣人と交わした約束のことは。
……それこそ、当代の水の大精霊の名にかけてな」
凍ったままのドアノブを回すと同時に、テーブルに突き立ったままだった氷の斧がパシャリと水に変わる。
青い天板に醜く残った傷と亀裂からは、まるで出血のように融けた水が溢れていた。
「サリガシアに帰った後……仲間にするええ土産話になりますわ」
冷やりとした部屋で、ルルは剛気に笑ってみせる。
が、笑顔の捏造という点では、こいつはミレイユの足元にも及ばなかった。
「どういうことなの、ソーマ!?」
日没までもうすぐという、オレンジ色の中。
ルルたちのエスコートを終えて戻った村の船着場で俺を待ち構えていたのは、フォーリアルを携えたアリスだった。
ミニのバトルドレスではなく、体を冷やさないよう、お腹を締め付けないように今は丈の長いワンピース。
バレッタでまとめることなく、耳の前に垂らす2房は変わらず残しながらも背中をまっすぐに隠す長い銀髪。
「少女」から「大人の女性」、そして「母」へと最近はその美しさの質を変えているアリスの表情には、しかし怜悧で高潔なエメラルドの緑色、夕焼けの光を強烈に反射する怒りが輝いている。
自分が救いたいもののために、世界にすら立ち向かえる強さ。
心から愛するもののために、自分すら捧げられるまっすぐさ。
俺が捧げられ、愛おしいと思った。
そして救われ、ただ憧れた。
「ただい……」
「説明して!」
「落ち着くがいい、アリス。
シムカから聞いた通りのことであったならば水殿の行動は間違っておらぬと、何度も言うておるじゃろう」
【……】
アリスのその意志の強さと愛の深さを、俺は誰よりも知っている。
淡々と諭し続けるフォーリアルの言葉と、隣で申し訳なさそうに控えているシムカ。
2人を視線で労いながらこれからしなければならないことを考えて、俺はさらに深い暗欝と苛立ちを覚えざるを得なかった。
「……シムカからは、何て聞いた?」
溜息と共にそれを覚悟し、俺はアリスの両肩に手を置く。
「……ミレイユが、商談相手の獣人を……、……殺そうとした…………って」
「その通りだ。
俺が止めなきゃ、本当に殺してただろうよ」
「……」
「その上で、俺の制止を聞き入れなかった。
……本来なら、その場で斬首されても仕方のない案件だったんだ」
ミレイユの罪を再認識させることで、俺はアリスを黙らせる。
「ミレイユは領主代行だ。
それが公の場で領内法を犯して何の咎めもないなんてことになれば、ウォルの信頼が揺らぐ。
俺がその場であいつをぶちのめしてすぐに厳罰を科すと約束したからこそ、この程度で済んでるんだ」
「……でも、ミレイユが何の理由もなくそんなことをするはずがない!」
「俺も、……そう思ってるさ」
が、それは同時にアリスにとっても、今のウォルにとっても。
そして俺にとっても、いかにミレイユの存在が大きくなっているのかを。
にも関わらず、そんな存在が人を殺そうとした理由がわからないことを。
俺たちが結局ミレイユという人物のことを何も知らず、何も理解していなかったということを。
あらためて再認識させられる作業でもあった。
「今から、それを本人に確かめに行く。
……フォーリアル、悪いがムーを呼んでおいてくれ」
「……よかろう」
理解している、つもりだった。
だが、実際は何も知らなかった。
それを俺たちは最悪のかたちで思い知り、そしてこれからさらなる最悪を理解させられる可能性もあるのだ。
「……馬鹿が」
口の中だけでつぶやいた侮蔑はミレイユへのものではなく、ただ薄暗い自己嫌悪からくるものだった。
「入るぞ」
「……」
短い断りの後にドアを開いた俺を迎えたのは、夜の果てのような静けさだった。
タイミングによっては多くの子供たちと同居することもあるミレイユには、結婚こそしていないものの例外的に家を与えてある。
つい先月にペイルが他の部屋に移ったため、現在はミレイユが1人で暮らしている家。
が、思いついた料理を試すためだろう食べ物と調味料、水と酒が少しだけ置かれた台所に目をやってすら、今のここには生活感というものがほとんどない。
見知った俺とアリスの自宅と全く同じ広さと間取りであるはずのその空間には、まるで焚き火を終えた後のような沈黙と疲労感が漂っていた。
それでも、この場所が入った人間に寂しさを抱かせないのは、木の色であるはずの壁が無数の紙でほとんど覆い尽くされているからだ。
白と。
黒と。
赤。
見える範囲では全ての壁の、天井近くから胸より上の高さほどまで。
そこには、ネクタから取り寄せている黄色みがかったこの世界の紙が、まるで定規で測ったかのように整然と貼られている。
その長方形の中には、まさに千差万別といっていいミレイユの姿が墨や染料で描かれていた。
お世辞にも人間型ですらない、丸に4本の線を足しただけのような拙いミレイユ。
おそらくは俺なのだろう黒ずくめの人物とアリスらしい青の服を着た女性の中央で、一際大きく描かれたミレイユ。
写実とは全く別の路線であるものの、しかし誰がどう見てもわかるほど見事に特徴を捉えられたミレイユ。
本職の挿絵職人が描いたのかと思うほど精緻な村の景色の中で、もう声が聞こえてきそうな笑顔を浮かべているミレイユ……。
笑顔と、赤い瞳。
100や200を軽く超える絵姿の全てに欠けることのないその2つの要素が、この人物をミレイユだと表している。
笑顔。
笑顔。
笑顔。
赤。
赤。
赤。
これまで子供たちから『先生』に贈られた、おそらく全ての絵。
俺とアリスが貰った枚数を足し合わせて尚、その4分の1にすら届かぬ信頼と慕情の具象。
頼れる領主代行であり、尊敬する先生であり、あるいは母であり、姉でもある……。
ミレイユという人間が、このウォルでどれほど愛されているかという証明。
「先に片づけておくが、応接室でのことはもうルルたちと話をつけた。
この件は外には漏れないし、お前の処分がウォルポートで喧伝されることもない」
「ミレイユ……」
「……」
リビングの最奥。
四方からそれが俺とアリスに笑いかける中、しかしそのモデルとなった当の本人はこちらに背を向けたまま、俺の報告にもアリスの呼びかけにも特に反応を示さなかった。
まっすぐ腰までを覆い隠す、黒というよりは闇色の髪。
その隙間からのぞくのは病的に白い肩と、黒いドレス。
いつもの指抜きのロンググローブをはめた手は、体の前で組んでいるらしい。
普段は隠す気のない黒のショートブーツを履いた足も、今は細いスカートの中に収まっている。
「……」
「……説明しろ、ミレイユ」
首をやや上に傾けて子供たちから贈られた自身の絵を見つめていたらしいその姿は、まるで一心に教会で神に祈りを捧げる信徒のようだった。
その頭が軽く動き、ようやくこちらに振り返る。
「「……」」
俺、アリス、フォーリアル、シムカ、セリアース、ムー。
2柱の大精霊と3体の上位精霊、そして大精霊の妻にして契約者の6人が一瞬、ただその動作に呼吸を奪われた。
警戒感から無意識に漏れたそれぞれの魔力が干渉し合い、部屋の中で小さな耳鳴りのような音が響く。
反射的にアリスの、そのお腹を守るように広げた俺の掌を、窓から差し込むオレンジ色の光の中で赤い瞳は少しだけ哀しそうに眺めていた。
「旦那様とウォルの名前に泥を塗ってしまい、本当に申し訳ございませんでした」
「……それは、もういい。
右腕と顔の分でそれぞれ相殺してやる」
そのまま深々と腰を折ったミレイユの姿を見て、俺たちはようやく息をつく。
安堵なのか、罪悪感なのか。
何かが不完全燃焼しているような……非常に説明しにくいその錯覚をあえて無視して、俺は言葉を続けた。
「だが、俺が求めたのは謝罪ではなくて説明だ」
それに、問題なのはこちらの方だ。
若干倫理的に極端な部分があるとはいえ、充分に理性的で決して馬鹿ではない……、いや、優れた知を持つミレイユが、何故あんな短絡的な行動に出たのか。
「テンジン」とは誰で、何なのか。
ルルは、何と言おうとしたのか。
そして、……ミレイユ。
お前は、俺たちに何を隠しているのか。
「お前は……」
「申し訳ございません、旦那様」
知る覚悟を決めた俺の問いかけは、しかしさらなる覚悟に満ちたミレイユの声に封じられた。
「今夜一晩だけ、待っていただけませんか。
わたくし自身、……きちんと考えたいのですわー」
「……」
それは、願いというよりは誓いに似た言葉だった。
仮に俺が拒否したとしても、おそらく結果は変わらない。
変えられるようなものではない。
頭を下げたままのミレイユの静かな声には、仮にも主人である俺の覚悟を蒸発させるだけの覚悟と激情が宿っていた。
「……」
「どうか、お願いいたしますわー」
「……」
「……ソーマ」
「…………いいだろう」
逡巡した俺の頬に、アリスの緑色の視線が刺さる。
「私からもお願い」。
確認するまでもないミレイユの親友の意志にも背を押されて、……俺は正しいのかわからない答えを決めた。
「明日の朝、俺とアリスに全てを話せ。
……セリアースたちも下がらせる。
お前を信じるぞ、ミレイユ」
ミレイユを。
信じることを、決断した。
「ありがとうございます、旦那様、……アリスさん」
「ミレイユ、……大丈夫だから。
私もソーマも、あなたの味方で友達で……家族だから」
言葉の通りセリアースに命じていた監視体制を解き、俺の視線に頷いたシムカとムーも揃って消える。
俺とアリスの意見を尊重して口を挟まないフォーリアルを携え、アリスもドアへと向かった。
「ミレイユ」
2人だけになった部屋で、俺も踵を返す。
アリスの率直な言葉は、俺に向けられたものでもあった。
「お前の知っているものだけが、世界の全てじゃない。
……その世界すら、実は絶対のものじゃないんだ」
……そうだな。
明日、ミレイユが自身の真実を話してくれるならば。
俺も、中畑蒼馬の話をしようか。
「お前の世界に、囚われるなよ」
「……ありがとうございます、旦那様」
そう誓って、ドアに手をかける。
頭を下げたままのミレイユの表情を、俺はあえて確かめなかった。
が、その日を最後に、ミレイユはウォルから姿を消した。