それから 後編
物事には、実際に体験してみないとどうしてもわからない、というものもある。
例えば、俺がウォルの夫婦に贈ると定め現にアリスと共に住んでいる、この一軒家の大きさなどがそうだ。
3LDK。
引き戸や壁で区切った個室が3に、リビングダイニングキッチンが1つ。
水道がないため日本のそれとは様式が異なるが、風呂と洗面所とトイレの水回り……。
文章にしてみれば1世帯が住む家として「そんなものだろう」と思えるかもしれないが、しかし実際に夫婦2人だけで住んでみるとあまりに広すぎる。
我がカンナルコ宅にしても個室の内1つを寝室にしているだけで、残り2つは完全に納戸と開かずの間だ。
これは隣のサラスナ・シズイ宅や班長同士の夫婦であり先頃子供も産まれたニア・ランティア夫妻宅でも同じで、いずれの家でも生活が1LDKで間に合ってしまっている。
「はあ…………。
……それで、今日のミレイユはおかしかったんだ」
それを実証するように自宅での定位置であるリビングのソファー、その右側に座った俺に、……隣のアリスは呆れの視線を投げかけていた。
夕食と入浴を終え、領主夫妻がただの夫妻へと戻る夫婦団欒の時間。
妊娠を機に果実酒でもカティでもなくサンティに変わり、それでも変わらず和み語らう晩酌の時間。
しかし、薄い緑色のコロモに身を包むアリスの瞳には、明らかに非難の冷たい光が宿っている。
「少しは、立場を考えて」
「……じゃれ合いの範疇だ」
「だったら、周りにもそうだとわかるレベルのじゃれ合いで片づけて。
食事の間ずっと皆に気を遣わせるような領主と領主代行のやり取りを、じゃれ合いとは言わない。
ムキになるミレイユもミレイユだけど、あなたもあなた」
「……はい」
話題は、夕方前に出題したパズルの解答と、それに対する回答について……。
すなわち、夕食の席での俺とミレイユの「じゃれ合い」についてだった。
「「いただきます」」
増設した集会所の最も湖に近い、上座となるテーブル。
夕食を告げる半鐘と共に中央に俺、右にアリス、左にミレイユが着席した段階で、それは始まった。
ボアのバラ肉と葉野菜の炒め物に、海藻とハネトの干物の出汁を使った根菜類の煮物。
トマトソースとヤギのチーズを包んだオムレツに、少し甘めのトウモロコシのスープ。
デザートとして、果物2種のヨーグルト和え。
……そして、焼きたての丸い小麦パン。
ロザリア率いる生活班渾身のメニューを前に、しかし黒の無表情と赤の笑顔はそれぞれ自分の皿を見下ろしたまま動こうとしなかった。
「「……」」
「……?」
悪阻など感じさせない様子で肉にフォークを伸ばしていたアリスがそれに気付く段になって、俺はようやく動き出す。
丸パンのパリッと焼けた黄金色の表皮にナイフを付き入れ、まずは上から見て真っ二つになるよう刃を前後させた。
ミレイユは口元だけ笑顔のまま、真剣な赤い瞳でその動きを追いかけている。
「「「……」」」
そのままパンは皿の上で90度回転させられ、2つから4つへと分断された。
フワフワの白い組織からはあたたかい湯気と共に、ミルクとバターの香りが立ち昇る。
横目に入る赤色は数センチだけ俺に近付き、軍師が盤を見つめるような視線を隣の手元に送っていた。
早々に炒め物を平らげたアリスが、口を動かしながらそんな2人を怪訝そうに眺める。
そして。
世界は、自由になる。
「……」
「っ!!」
俺がナイフをテーブルと水平に構え4つのパンを「上下に」スライスすると、ようやくヒントの意味が伝わったのだろう、隣からは小さく息を呑む声が聞こえてきた。
が、確かに今になって思えば……。
料理に口を付けずにいきなりパンを8等分している領主とその横で何故か悔しそうな表情を浮かべている『先生』の姿は、事情を知らないアリスや住民たちには相当に奇異に映っていた、……かもしれない。
「「……????」」
「「……」」
揃って疑問符を浮かべるアリスと、最前列のテーブルの住民たち。
一方で小さく口元をつり上げた瞳の黒とそれをみとめて笑っていない笑顔の赤は、その全てを無視して無言の激突を繰り広げていた。
完全に食事の手を止めた緑色の瞳と住民たちの視線が集中する中、絶対零度と灼熱の魔力は食卓の空気をミシリと歪ませる。
「どうし……」
「旦那様、失礼しますわー」
「……ああ」
が、ミレイユが笑みを深くしたことでその暗闘は唐突に終わりを迎えた。
流石に異常を感じたアリスの問いかけをかき消すように、白い指がおもむろに俺の左手に絡みつく。
【吸魔血成】。
魔人であるミレイユにとっての生命維持活動であり、4年前から守り守られ続ける俺との主従契約の証。
そして、ウォルの住人たちにとっては週に何度か目にする『先生』の食事風景。
そんな日常の光景と共にミレイユに完全な笑顔が戻ったことで、集会所の中の緊張感もいつの間にか霧散し痛っ!!!?
「……!」
「ひゅふふ」
手の甲で爆発した激痛に、俺は思わず声を上げそうになっていた。
怒鳴ることも手を振り払うこともせず殺意を込めた視線だけで対応したのは、もはや主人としてのただの意地だ。
人体を啄んで尚美しい唇から覗く、牙というには短いやはり美しい犬歯。
それを遠慮なく俺の肉に食い込ませた吸血鬼は、滲む血で唇をますます赤く染めながら心底楽しそうに嗤う。
「ソーマ?」
「何でもない……、……いつものことだろ」
「ええ、今日はまた一段と素晴らしい、……そう、懐の深さと器の大きさを感じさせる味ですわー。
……ふふふ、旦那様、もう少しいただいても?」
普段のミレイユの【吸魔血成】には、全く痛みはない。
数ミリほどだけ破られた皮膚の表面を丁寧に這う舌の感触が、少し痒く、くすぐったい程度だ。
「……好きにしろ」
「流石、器の大きい旦那様です」
しかし、今回の【吸魔血成】に関してだけは、完全にただの嫌がらせだった。
突き立つ犬歯の位置も深さも、ほんの数ミリずつ違うだけ。
ただそれだけのことで、俺の左手では痺れ一歩手前の熱痛が炸裂し続けている。
むしろ、何をどうしたらここまで痛くなるのか知りたくなるレベルの……激痛だ!
「っ」
「……」
精密機械のようにその傷口を再度抉ったミレイユの赤い瞳には、……俺にだけ伝わる角度で、明らかな悦楽と歪んだ爽快感が含まれていた。
アリスや他の子供たちには感づかれないように振る舞っていることといい、血がほとんど噴き出さないところを選んで噛んでいることといい……。
……仮にも『先生』として、お前はそれでいいのか?
……たまには部下の戯れに付き合うのも、主の器量ですわー。
「じゃあ、……早く食べたら?
料理は冷める前に食べるのが作ってくれた人に対するマナー、……なんでしょ?」
「……おう」
興味を俺とミレイユからチーズの糸を引くオムレツに移したアリスの隣で、俺は自分の左側を意識することを放棄した。
微かに震える右手で8切れになったパンの内1つを渇いた口に押し込むが、軽く鉄の味がする。
「ひゅふふー」
左中手骨に直に響く笑声は、いつになく楽しそうで幸せそうだった。
「……あなたもあなただけど、ミレイユもミレイユ。
…………傷は大丈夫なの?」
「もう『精霊化』で塞いだ。
……明日になってミレイユを窘めるのは、やめてくれよ?」
両手で握った俺の左手をまじまじと見つめるアリスは、表沙汰になっていなかったことの顛末を聞き終わってさらに深い溜息をついた。
評価の下がった俺と同じ位置までミレイユが下りてきたことで、相対的に夫と親友への評価差は大きく縮まり、ついに逆転する。
絶対値で見ればどちらも敗北しているという事実にはあえて目をつぶり、俺はもの言いたげな妻に終戦の合意がなされていることを強調した。
「俺とあいつとの間では、これでもうイーブンなんだから」
これは、アリスとの間でもそうであるのだが……。
実際のところ、俺はここ最近になって増えてきたこのようなミレイユとの小競り合いが、決して疎ましくはなかった。
戦いとは、平等な者の間でしか起こらない。
夫婦喧嘩にしても、領の運営方針を巡る意見の衝突であっても、……今日のような子供の喧嘩のようなふざけ合いにしても。
アリスと、そしてミレイユとそれができるのは、2人が俺とそれだけ対等な存在だという証拠でもある。
変化と、成長。
笑顔以外の表情と、上辺だけではない本当の笑顔。
4年という時間を経てようやくそれを俺に見せ始めたあの謎多き魔人のことを、同様に俺は対等な存在として信頼していた。
「そんなことはしないけど……」
深い森の中にいるような、清々しく仄かに甘い香り。
不満げに唇をとがらせたアリスがこちらにもたれかかってくるのに合わせて、俺は解放された左手を優しい温度の肩に回した。
人形のように整った白い顔と、俺の首元をくすぐる森人特有の長い耳。
そして、月色の銀髪とその下の緑色。
「だけど、最近のあなたは……ちょっと浮かれすぎ。
足元がフワフワしてる。
子供が……、やっとできて、嬉しいのはわかるけど」
「……まぁ、な」
そこに宿っていた怜悧なエメラルドの輝きに、俺は素直な肯定と苦笑いを返す。
結婚から3年が過ぎての、妊娠。
家族計画を考えて行動する夫婦間でなら何の問題にもならないようなこの1文に、しかし俺とアリスの場合は「ようやくの」という副詞が必要だった。
両者共に子供を望み、実際に体調不良を除いてほぼ毎日体を重ねている。
こんな生活を送って最初の1年で子供ができなかったのだから、これはもうどちらかが不妊症の可能性がある。
が、先天的なものならばそれはもう治す術がないし、何よりそれを判断する術もこの世界にはない。
排卵日を計算して長めの休日をとったり、ミレイユに相談して禁酒し、食事も見直してみたり。
ラルクスや王都、あるいはサリガシアで出回っている不妊に効くという薬を片っ端から試したり。
フォーリアルに相談し、薬効のありそうな植物をカミラギから送って貰ったり。
ほとんど無駄とはわかりつつ、お互いに【完全解癒】をかけてからベッドに入ってみたり。
まだ2人とも十代なのだから、焦る必要はない。
たまたま良い結果にならなかっただけで、次は必ず授かるはず。
……そんな試行錯誤と無理矢理の楽観主義に縋りながら、それでも。
俺たちには、子供ができないかもしれない。
そんな想像に鬱々としてしまい、沈み込んだ俺を見たアリスを泣かせてしまったことも1度だけあった。
「私も理由は存じませんが……。
大精霊となるとその生き物は……、……子供を作りにくくなるかもしれません」
何となく相談してみたシムカからそれを聞かされ、先々代のクロムウェルというカニをはじめ歴代の大精霊が大精霊化後に子供を作れなくなったと聞いたときは……。
……これはアリスにも言っていないし墓まで持っていくつもりだが、俺は本気で大精霊をやめようかと、1週間ほど悩んだ。
だが、そうすれば俺の『魔王』としての力は全てが失われる。
【異時空間転移】の撲滅はおろか、並の魔導士どころか騎士や盗賊にすら勝てなくなる。
ウォルやウォルポートを、アリスの夢を守ることはできなくなる。
アリスを、守れなくなる。
懊悩の果てにそれは思いとどまり、俺は子供を諦めて水の大精霊で在り続けた。
それでも、それまで通りの生活に戻るまで……。
俺とアリスには子供ができない、という事実を心から受け入れられるようになるまでは、やはりしばらくの時間がかかった。
「嬉しいよ……、……本当に」
「……うん」
だが、だが。
「確率が低い」と「確率がゼロ」というのは、似ているようで全く別の事象なのだ。
それは本当に、希望と絶望ほどに別物なのだ。
アリスに回復魔法でも治らない微熱が続き、月経が止まり。
そこからさらに様子を見たアンゼリカの診断と、そして【水覚】での知覚からアリスの妊娠が確定した日の夜。
俺とアリスは、お互いを抱きしめ合って一晩中泣き笑った。
アリスが俺を裏切ることなど、絶対にあり得ない。
確率を、絶望を2人で乗り越えたのだ。
3年越しで結実した俺とアリスの希は、確かに俺を幸せの絶頂に立たせていた。
「「……」」
苦笑が純粋な笑みに変わり、その理由の全てを共にしてきたアリスも表情を優しくする。
ソファーの上で額をぶつけ合った俺たちは、そのままお互いの感情を交換するように唇を重ねた。
つらかった。
悔しかった。
苦しかった。
心細かった。
だけど、今はただただ幸せだ。
「……ありがとう、アリス」
「私も……幸せ」
再度のキスで語るべき言葉は。
俺にはもう、何もなかった。
「ところで、……パパ」
「……、……何、ママ?」
ただ、アリスの方にはそれがあったらしい。
父と、母。
今まで誰かをそう呼ぶことはあっても、自分たちにはまだまだ縁遠いものだと思っていたその……少しくすぐったくなる代名詞。
「アイスが食べたい」
が、残念ながらアリスから俺がそう呼ばれるときの8割は、後ろにこの要望が接続されてくる。
「……そうだな。
もう遅いし、そろそろ寝ようか」
「パパ、アイスが食べたい」
笑顔のまま身を離して立ち上がろうとした俺の服の裾を掴み、アリスは笑顔で繰り返した。
聞こえなかったことにした俺の応答はそのままアリスにも聞こえなかったことにされたようで、裾から肩に移動した右手にはそこそこの握力が込められている。
「……お前、何だかんだ言いながら、結局炒め物を2回もおかわりしてただろ。
食べ合わせがよくないし、ミレイユからも冷たいものは食べ過ぎないように言われてるだろうが」
「だから、一口だけでいい。
一緒にあったかいサンティも飲むから、大丈夫。
……ね?」
「でもな……」
抱きしめた俺の腕に胸を押し当て、上目づかい。
指摘に配慮を見せつつも夫に対して効果的だとわかっている手札を容赦なく切ってくるアリスに、俺の自制心は少しずつ削られていく。
とはいえ、俺も簡単に首を縦に振るわけにはいかない。
世界最高峰の食糧事情を誇るこのウォルにおいてさえ、アイスクリームはカップ麺製造後にその担当者だけ振る舞われると決まっている極めて特別な褒賞だ。
統治の基本は、公平かつ明快な信賞必罰。
たとえ相手が『魔王の最愛』アリス=カンナルコだとしても、流石に何の理由もなくそれを曲げてしまうわけには……。
「あなたの妻というのは、これで結構重労働。
そんな奥さんに報いるのも、夫としての器量だと思う」
「……」
……冗談混じりだとわかってはいても、色々…………考えさせられる言葉だった。
何より、自覚があるだけに何も言い返せない……。
「それに、パパ」
盤面は既に終局近し。
黒のキングをチェックできたと悟った緑のクイーンは、ついにとどめの一手を繰り出してきた。
一旦体を離すと俺の頭を両手で挟み、そのまま自分の前へと下げさせる。
まだ見た目には何も変わっていないのに、その聖性が増したように感じるお腹。
明るい緑のコロモとそれを結ぶレモンイエローの帯ごしに、俺の左耳をそこに当てさせると……。
「この子も同じ意見。
パパ、ボクもアイスが食べたいよー、……って」
「……っ」
アリスは、チェックメイトを宣言した。
この気持ちが何なのか、俺にはわからない。
しかし、高い裏声で可愛く捏造された自称長男の声は、かつて城塞1つと4万人を消し飛ばした『魔王』の精神を一撃でへし折っていた。
頭を押さえるアリスの両手が少し冷たく感じるほどに、今の俺はあたたかい。
ああ、幸せだ……。
生物学的に考えれば、これは茶番以外の何物でもない。
現段階で胎児が声を発することなどあり得ないし、それ以前にまだ性別がどちらかかも決まっていない時点だ。
アイスを味わう口も、消化する胃腸などもまだ未分化。
母親にその意思を伝える能力も手段も、当然ありはしないだろう。
「パパ、どうする?
反対はあなたの1票で、賛成は私とこの子の2票。
賛成多数でこの議題は可決されたと思うけど?」
「……ぐ」
同様に胎児に法的な権利が認められないことも理解してはいたが、頭上から降ってきたネクタ出身者らしい理論はそんな俺の理性を優しく圧殺していた。
……そう、その通りだ。
民主主義の基本は多数決で、多少不本意でもその結果には従うのが規範の基本というものだ。
3票の内、2票が賛成。
ならば、これは信賞必罰の否定でもアリスのわがままでもない。
極めて民主主義的な、物量的な結末なのだ。
断じて、俺の理性が融解したからでは「グギュルルルル!」。
「……」
「……」
わかった。
そう言って、顔を上げようとした瞬間だった。
俺の左側からは可愛らしい我が子の幻聴ではなく、雷鳴とその直撃を受けた大木が軋むような異音が炸裂した。
ギュル……キュウ、キュク、グーーーー……。
顔に触れるアリスの手が一気に熱くなるのを感じながら、俺はぼんやりと考える。
食物を受け入れるための胃の蠕動により、胃の中の空気が十二指腸へと送られ響く……。
一般的に「お腹が鳴る」という現象。
……ああ、確かにこれは賛成多数だな…………。
「……アイス、作ってくるわ」
「うぅ……!」
ゆっくりと体を起こしながらつぶやくと、顔どころか耳や首まで真っ赤にしたアリスはうつむいたまま震えていた。
4年も共に生活していればお腹の音もそれ以外の音も聞いたことくらいはあるが、それでもゼロ距離で空腹音を聞かれるのは相当に応えたらしい。
気にしていない、という意思表示で額にキスをするが、返ってきたのは涙目と唸り声。
思わず笑ってしまうと、ボスッ、と鳩尾に拳を突き立てられた。
「ミルクとベリーの2種類でいいか?」
「……うん」
「さっきの残りのパンがあるから、あっためようか?」
「…………うん」
「アリス」
「……何?」
俺はソファーを回って台所へ向かいながら、肩を落としたアリスの頭にポフ、と左手を置いた。
「愛してる」
「……、うぅ……」
懐が深く、器が大きい。
それは、誰よりも今のアリスのための言葉ではなかろうか。
内心思ったそれは口に出さず、しかし俺は紛れもない本心を伝えた。