第5話 アパートの壁が薄すぎる問題(前編)
僕は中西さんとの美味しくも幸せな夕食を終えて、その後もたっぷり一時間ほど談笑してから、自分の部屋に戻ってきていた。中西さんは行きたいところがまだまだたくさんあるらしい。「一緒に行こうね!」と誘われて、断る理由があるわけがない。
「いや、これが毎日とか、心臓が持つかな……」
『ヴヴヴヴヴッ! ヴヴヴヴヴッ!』
僕の独り言への返事代わりに、テーブルの上でスマホが振動してびっくりする。画面には「妹」の名前が表示されていた。まだ実家を出てから2日目なのに、すごく懐かしく感じてしまう。
「もしもし、何か用?」
「あっ、お兄ちゃん? 可愛い妹が年齢イコール彼女いない歴のお兄ちゃんに電話をかけてあげたんやから、もっと嬉しそうにしてくれんと?」
「はい、嬉しいです」
「うわ、適当過ぎてムカつくっちゃけど。やっぱり切ろうかな」
「いやいや、ありがとう。どうしたの?」
「お兄ちゃんがちゃんとご飯を食べてるかなーって心配になったとよ。あ、ちなみにうちはチキン南蛮やったよ。そっちには無いでしょう?」
妹の香織は、2歳年下の高校2年生だ。案の定、特にこれといった用事はないらしい。香織は元気そうな声で、僕の一人暮らしの状況を軽く聞いた後で、学校のことや友達のことを話し始めた。まぁ母さんに言われてスパイをしているんだろう。分かりやすいけど、妹から電話をしてもらって悪い気はしない。
「ねえねえ、彼女とかできた?」
「いや、できるわけないだろ。まだ2日目だぞ?」
その言葉が耳に届いた瞬間、ドキッとしてしまう。普段なら何も気にしないで聞き流すような妹の軽口なのに、なぜか今日はその一言が重く響いた。彼女? そんなのいない。いないよ、でも今の僕には、付き合いたい好きな子はいる。
「えー、だってお兄ちゃん、そこそこ顔が良いじゃん。妹としては悪い女に捕まらんか、心配やっちゃもん?」
「いや、中西さんは悪い女とかじゃ」
「えっ、ちょっと待って? 今女の人の名前を出したん? ねぇねぇ、教えてよ、どんな人やと? どこで出会ったん?」
思わず口に出してしまった。ダボハゼ状態の香織が聞き逃すはずもなく、速攻で食いついて来る。ここはあまり否定せずに、でも可能な限り誤魔化しておこう。
「大学の同級生だよ。たまたま出会って話したから、記憶に残ってるだけだって」
「本当かなぁ? 怪しいっちゃけど?」
「もう、うるさいな。母さんに言ったら面白がるから、ゼッタイに言うなよ?」
「はーい。お兄ちゃんの初バイト給料からのお小遣い次第でーす」
そして僕はもう少し香織と話をした後で、通話を切った。香織と話していて、僕が中西さんを意識しまくっていることを強く自覚させられてしまった。いや、だってあんなに可愛くて、フレンドリーで、料理まで上手なんだから、惚れない方がおかしい。
「とりあえず、シャワーを浴びてスッキリさせて、寝よう」
今日一日は、考えることが多すぎた。とりあえずシャワーでも浴びて、さっぱりしてから眠りにつこうと決める。何しろ、エルフィナさんを交えた3人での京都観光も今日の出来事なのだ。一日の密度が濃すぎる。
僕はバスルームに向かう。とは言ってもユニットバスだ。脱衣を終えてタオルを手に取って、シャワーを捻ろうとしたその時だった。
壁越しに、微かにシャワーの音が聞こえていることに気付いた。
「……え、これって隣から、ってことは……中西さんもシャワーを?」
胸が高鳴るのを感じてしまう。今この瞬間、中西さんも自分と同じタイミングでシャワーを浴びている。その事実に気づいた途端、僕のいけない感情が心の中で一気にざわめき出した。
「隣で、中西さんが……」
頭の中でそのイメージが浮かんでしまい、罪悪感を覚えてしまう。響いてくる音はささやかだけど、ハッキリと自分の耳に届いていている。無意識に耳を澄ませて、シャワーの水音に聞き入ってしまう。流れる水の音が妙にリアルに感じられ、その向こうに中西さんの姿が浮かび上がってくる。
「ダメだ、そんなこと考えるな。中西さんに失礼だ。素数、そう、素数を数えるんだ、僕」
心の中で自分に言い聞かせるけど、動き始めてしまった妄想は止まらない。彼女が今どんな姿でシャワーを浴びているんだろう、僕のことを思い出したりしてくれてるのかな……まさかこんな日常の一コマで、こんなにも意識してしまう事態が発生するなんて。
シャワーはひねられない。向こうに音が聞こえて、僕がいることが分かってしまう。変に動いて音を立てても大変だ。つまり僕は、だるまさんが転んだ状態でシャワー音が消えるのを待つしかなかった。10分ほどして、ようやくユニットバスのドアが閉まる音が聞こえた。僕は溜まっていた息を、ようやく深く吐き出す。
「ふぅ……心臓に悪いよ。でも、これからどうしよう。夜は無理だよな。シャワーの時間は朝にするしかないよな……」
そう呟いて、ベッドに潜り込んだものの、全然寝付けない。隣の中西さんの姿が頭に浮かんで、どうにもこうにも気持ちが落ち着かないのだ。一目惚れした女の子のシャワー音とか、刺激的すぎる。なんとか思考を切り替えようとするけど、無理だった。
こうして、僕は寝付けない夜を過ごすのだった。
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