若君の恋心。
りーりーりー。チンチロ、チーチー。リーンリーン。
「虫の声だ。それに月の光が……」
晴紀はふと気がついた。襖戸も板戸も破られ、庭に面した縁側が顕になっていた。そこから聞こえる。そして月明かりが畳に差し込んでいた。
「晴れた……」
「お玉がお外に出たよって」
晴紀の声に被さる、ほんのり甘く感じてしまう華子の声。横を見上げると、少しばかり宙に浮いているのか、頭一つ高い位置に顔がある。母に甘える雷の子を眺める顔に、ぼぅ……、と晴紀は見惚れてしまう。
「良かったです」
視線に気がついた華子が少しばかり打ち解けた声で話してくる。早鐘を打つ己の鼓動が漏れたらどうすれば。鎮まれ鎮まれと、自己暗示をかけつつどうでも良い事を聞き返す。
「いかにも。して。この先どうなるのだ?」
「しっ。少しお静かに……」
指立て唇に当てる仕草の華子に、うっかり鼻の下が伸びそうになるのをぐっと堪え、至極真面目な顔をし頷いた。
「でんでんや、もうすぐお迎えが来ますよ」
「フエン、ヤラ!タアタマ!」
「嫌だとタダをこねるのなら、もう出てきませんよ」
「ヤラ!」
「触ることは出来ないけれど。お家で太鼓を鳴らせば、どんな時でも会えるでしょう?」
「ヤラ!」
「雷のお子でしょう。でんでんは強い坊じゃなかったの?」
「フエン……」
「かあさまは強い坊が好きですよ。それに地上だとかあさまはくたびれてしまいます。もしかすると。消えてしまうやもしれません」
「ヤラ!オウチ二カエッタラ!キエナイ」
「そう。消えませんよ。坊が良い子で、でんでん太鼓を鳴らせば。何時もの様に姿を出せます。直して貰ったのでしょう?」
「アイ!」
「いい子。ではかあさまは、一度太鼓の中に戻ります」
雷の子が振りもしないのに、テテン!と左右の玉が腹を打ち音を立てた。憑きモノが離れるお郷の方、崩れ落ちそうになるのを晴紀は慌てて駆け寄り身体を支え、畳の上に横たえさせる。
「セワニナッタ!」
突然に声。部屋の中に天馬が一頭、月明かり差し込む場に立っている。唖然としている晴紀の前を横切り、雷の子の前へと向かう。畳の上でしょんぼりと身体を丸めていた雷の子は。
「アイアト」
そう言うと、トンッと上に跳ねる。ふわりと迎えに来た天馬の背にちょこんと座り……、姿を消した。
「お帰りになられた」
「呆気ない……」
「うちも帰ります」
至極当然に言う華子。晴紀は慌てて向き合う。顔を横へと動かす。
「もう、お帰りに、」
「はい」
はにかむ笑顔を前にして、空へと帰った雷の子どもの様に『ヤダ』と言いたい晴紀。気持ちが膨れ上がり言葉が固まる。
「ごきげんよう」
それが西にて出会いと別れの双方に使われる言葉と知っている晴紀は、咄嗟に。
「吾の名前を呼んでほしい」
……、本当は違う。帰るなと言いたい。触れたい。白く細い手を握りしめたい。引き寄せ抱き締め、艷やかな黒髪を指で漉きたい、互いの香り熱を交わらせたい。
裳着を迎えた、身分高い西の姫宮は、男親でさえ御簾越しでなければ会わぬ暮らしをしていると、父親から聞いていた晴紀。
……、このような不純な吾の事など、その不思議な御力で見通し、お厭いになられぬやもしれぬ。
迷うような素振りを目の前にし、馬鹿な事を言ったと。婚儀迄待てば。後悔がふつふつと。術が終わりに近づいて来ているのか、淡く透き通るように光る恋しい人は、天女のように身体に纏った、薄絹の肩巾を両手にくしゃりと集め口元を隠していたが。
意を決した様に。
「晴紀様」
「はい!」
「晴紀様」
「はい!」
姫宮の羞恥が溢れるのか、薄紅色に染まる光。
「晴紀様」
「はい。出来れば……、その。お手を」
「桃太郎様であれ、現世のお方様は、触れることは出来ませぬ」
「それでもいい」
……、それでもいい。気持ちが通じあった気がした晴紀は、図々しいと反省しつつ、走り出した気持ちが止まらない。手を差し出すと。
「お厭いならば良い」
儚い姿に言う。時が終わりに近づいている。
「息災で」
ふわりと宙に浮かんでいる華子が、近づき両の手で包み込む様に晴紀の手を覆う。
「そなたも」
「お会い出来る日を楽しみに」
「吾も」
「ごきげんよう」
駄目だと。歯を食いしばった。涙等見せてはならぬと思いながらも、目頭が熱くなる。口がへの字に曲がってしまう。こんな不甲斐ない男だとは、自分でも信じられなかった。
「お泣きになったらあきまへん。ええ子で、うちが来るんを、お待ち下さいまし……」
「文を書く、毎日、毎日書いて」
わけがわからなくなり、消えゆく笑顔にまた会おうでもなく、待っているでもなく、小さな子のような言葉をかけた晴紀。
こくんと頷く姿が目に入り。来た時と同じく唐突に消えた。
恋しい人は、独り。西へと帰った。
「なんて無様なのだ。東の地の者は、火事と喧嘩に現を抜かし、手を叩いて喜ぶ鬼だというのに……」
ほろほろと涙が出る。早く止めなければ、帯刀が様子を伺いに来るというのに。母上やお郷の方や三郎、重野がいつ何時、目を覚ますやもしれないのに。雨で濡れそぼった袖口で顔を拭う。
「丁度いい、髪も衣も何もかも雨で濡れている、濡れているから、良い」
袖口は秋の夜半の空気により、ひやりと冷たい。そこに染み込む涙は、熱くて熱くて。
りーりーりー。チンチロ、チーチー。リーンリーン。
ザワザワと人の気配が集まる庭先から、虫の音がそろそろ泣き止めと、変わりにこっちが鳴いてやると。久方ぶりの晴れの夜に張り切って、りんりんコロコロ、チンチロリンと、恋しい雌を得ようと、身体を震わせ、求婚の歌声を張り上げていた。
風邪を引きました!
治りました!
あと二話で終わりとなります




