048 新しい力
「あがぁ…………っ!」
顔を抑えて蹲ったカズキの口から、呻きが漏れる。
顔の左半分にあてがった左手の指の隙間から、血の塊がぼとぼとと垂れ落ちていた。
激しい痛みが感覚のほとんどを支配していたが、このまま蹲っているわけにはいかない。
山の暮らしで培った野生の生存本能が、カズキを突き動かす。
素早く状況を確認しなければと、カズキは膝をついたまま、顔を上げて目を見開こうと試みる。
しかし……妙な“違和感”に苛まれた。
「め……目が…………?」
左側の視界……左眼や左の瞼が、動かない。
急な寒気が全身を襲い、カズキは少量の胃液を吐き出した。
血濡れた床が、吐瀉物でさらに汚れる。
「まさか…………左眼、が……?」
カズキはようやく、自覚する。
ジプロニカ王のナイフによって――左眼が切り裂かれていたのだった。
「……私の鎧に、ゲロがついただろうがぁぁ!!」
「がはっ!?」
途端、ジプロニカ王がカズキの腹を蹴り上げる。
すでに吐いたカズキが戻してしまうことはなかったが、肺の空気を全て吐き出したため、一瞬、呼吸困難に陥った。
目の前が、クラクラする。
「あーぁ、気に入っていたのだがな、この鎧は。なにより派手で、高貴で。この私にぴったりの逸品だったのだが」
言いながらジプロニカ王は、腹を抑えて蹲るカズキの周囲を、ゆっくりと歩き出した。
「このナイフもなぁ、中々良い切れ味で、お気に入りだったのだ。しかし、汚らしい害虫の血がついてしまった」
カズキの血が付着したナイフの切っ先を眺めながら、ジプロニカ王は抑揚なく言った。
虫の死骸でも持たされているかのように、ナイフの持ち手部分を指先だけで持っている。
「フュー…………」
呼吸が整い、立ち上がろうと膝をつくカズキ。
心臓の鼓動の一つ一つに反応するように、左顔面がじくじくと痛む。
ぼやける視界の中、ルタとルフィアが身体を震わせ、カズキのことを見ていた。
ルタは唇を噛み、鬼の形相をしている。ルフィアに至っては、もはや泣いてしまっていた。
今すぐにでも、助けたい――自分に向けられた二人の表情と感情を見て取り、カズキは痛みと怒りを思考の外へ追いやる。
耐え忍ぶルタとルフィアを見習い、カズキも集中力を研ぎ澄ませた。
思考を止めるな、状況を打破することだけ考えろ――自らに言い聞かせるように、心内で唱え、カズキは思考をフル回転させた。
「なんだ、あまり泣き喚かないな。つまらん…………殺ってしまえ」
与えられた玩具に飽きたように血濡れのナイフを床に投げ捨て、周囲を囲んでいた兵士らに、カズキを抹殺するよう指示を出すジプロニカ王。
「牝二匹は裸に剥いて湯浴みさせてから、本陣の方に連れて来い。抵抗した場合は手足の腱を切ってしまえ」
「はっ」
一際豪華な鎧を着た兵士長らしき男に鬼畜な文言を言い添え、ジプロニカ王はテントの外へと出て行った。
「…………つくづく、俺は甘い……」
カズキは、ジプロニカ王の人間性……いや、人間の持つ悪どさの極限を見誤ったことや、ここまでの経験を経てもまだ油断のあった自分を、心底から呪った。
「カズキ……!」「カズキさん!」
王が退場したことで我慢ならなくなったのか、即座にカズキに駆け寄ってくるルタとルフィア。
横に寄り添うように、二人とも膝をついて座り込む。
「うぬ、眼が」
ルタが悔しそうな顔で、カズキの肩に手を置いている。
「うぅ……カズキさん、カズキさん!」
ルフィアは涙を流し、手を握ってくる。
二人の顔が、若干ぼやけて見える。
片目が潰されたせいで、遠近感が狂ってしまっているのだ。
「大丈夫……大丈夫だ」
カズキは努めて明るい声を出し、ニコリと口角を上げた。
微笑んだつもりだったが……はたして上手く、笑えているのだろうか。
大丈夫、完全に見えなくなったわけじゃない。
まだ、右眼はちゃんと見えている。
「諸君、やれ!」
兵士長の掛け声に合わせて、数十名の兵士が一斉に剣を構えた。
鋭い剣先が四方八方から、カズキら三人を取り囲んでいた。
「ルタ、ルフィア……ここは、俺に任せてくれ」
穏やかな声で言い、カズキは立ち上がった。
そしてルタとルフィアの肩を一度ずつ、ポンポンと叩く。二人は不安そうな表情で、座ったままカズキを見上げていた。
もう一度、カズキは二人に笑いかけた。
警戒した兵士らが、剣を構えたまま足を止める。
「……俺はやっぱり、悪魔になる」
カズキは一歩踏み出し、独り言ちるように小さな声で言葉を紡ぐ。
手をどけた顔の左半分には、縦に深い切創が走っており、赤い血液が生き物のようにどくどくと蠢ていた。
左の眼球は、白目部分が出血により完全に赤く染まっている。
逆に黒目、光彩の部分は色を失い、白濁になって淀んでいた。
カズキはその眼で、周囲の兵士らをぐるりと、無表情に見渡した。
瞼が縦に切り裂かれているせいで、まるで顔の左側に真紅の十字が刻まれているかのように見えた。
不気味な顔面に、兵士たちは後退る。
ごくり、と誰かが唾を飲み込むのがわかった。
「この世には、いてはいけない人間がいる。そいつらは、言うなれば人の姿をした悪魔だ。奴らは平然と人を虐げ、尊厳を踏みにじり、何食わぬ顔で世界を蹂躙していく。
俺はそんなの、許せない」
ルタとルフィアを背にするように、カズキはもう一歩進み出る。
「その悪魔たちを殺せるのは、正義のヒーローなんかじゃない。
……同じ領域に足を踏み込んだ、悪魔だけなんだ」
身体の中を魂力が、暴れまわっているのがわかる。
だが、それが不快ではない。
流動する魂力が、左の眼球に集約していくような感覚がある。
「だから俺は悪魔になる。そして、奴らを全員――」
言って、息を、吐く。
視界が“開けた”気がした。
「――この世から、消し去ってやる」
瞬間、カズキの暗闇に染まった左側の視界に、数えきれないほどの“光の線”が走った。
その線は、人の形を象っていたり、物の形になっていたり、泡や波のようなものすら空気中に形作り、視界の中を埋め尽くしていた。
カズキは“それら”がなにを表しているのか、考えるまでもなく“識っていた”。
「魂力が“全て”……視える」
カズキの左眼が――覚醒する。
魂力の流動が、鼓動が、調律が。
全てが、可視化されていた。
対生命においては、心拍数、細胞、どこに力が入り、身体がどう動こうとしているのか。それらすらも一目で理解できる。
しかも範囲は、全方位である。
今のカズキには前後左右、上下、全方位の魂力が見えているのだった。
言うなればそれは――『魂装の義眼』。
「ひ、怯むな! 行けっ! 行かなければ王に殺されるぞ!!」
鬼気迫る声で、兵士長が渇を入れる。
カズキから発せられる威圧感に、身動き一つ取れなかった兵士らが、ようやく動き出す。
「……俺たちを脅かそうとするなら、容赦はしない」
カズキは至って穏やかに言い、右腕を高く掲げた。
剣先を向けて突っ込んでくる全員の動き、意図、狙いが一瞬で理解できる。
それがわかると、全員に無防備な箇所があり、あとはそこへ向けて、適切な形状に変化させた魂装の刃を伸ばせばいいだけだった。
「どいてもらう」
戦いは、一瞬で終わった。
カズキの右腕の先から、兵士らへと向けて魂装の刃が煌めいた。
兵士全員が、膝から崩れ落ちる。
その場に立っていたのは――カズキだけだった。
貴重なお時間をこの作品に使ってくださり、ありがとうございます。




