032 追跡
暗い夜空の下、カズキは必死に走っていた。後をルフィアがついてきている。
フェノンフェーンの街はすでにほとんど寝静まり、ひっそりとした静寂が、不気味に路地を漂っていた。
ルタとトッドは、いない。
「風呂が台無しだ……くそ」
せっかく湯船で身体を流したのにもかかわらず、すでにジトっと背中が汗ばみ、不快感を作り出していた。
カズキとルフィアが風呂を出てすぐ、ビーグル頭の店主が入り口で倒れていた。
かろうじて意識のあった彼から話を聞くと、ルタとトッドが人間の集団に連れ去られたらしい。
人間の集団――何者なのかは判然としないが、ルタとトッドを助け出さなければ。
カズキは建物を出て、荒ぶる心を落ち着けながら、深呼吸をした。
外は思いのほか静かで、昼間の喧騒が嘘のように、空気が澄んでいた。
息を吐きながら、集中を高める。
そうしてルタを見習い、周辺に漂う魂力を読んだ。
魂力の流れが、五感を通じて伝わってくる。
匂い、微かな風味、音、色、質感――魂力がカズキに、様々な情報を与えた。
すると、微かに魂力に乱れがある方角があった。
人が引いた夜の街は、静かな波が揺蕩うような、魂力の規則的な流れがあるが、その方角だけは不規則に、煩雑に、魂力が乱れていた。
乱れは、カズキたちが風呂屋まで来た道を、戻るようにして続いていた。
恐らくはその方角に、何者かが向かっていると思われた。
カズキとルフィアは、着の身着のままに走り出した。
夜風が二人の体温を、急速に冷やしていく。
「また俺が油断したから……情けない!」
カズキは走りながら、自分に腹が立っていた。
あれほど、油断しないと心に決めていたのに……一瞬の隙を、狙われてしまった。
「カズキさん、自分を責めないでください」
少し後ろを走っていたルフィアが、左隣に並ぶようにして言う。
「あんなタイミングを狙われてしまっては、どうしようもありません。ああいったタイミングまでカズキさんが傍についているとなると、もうそれはルタさんを赤子扱いするのと一緒です。それはきっと、ルタさんだって望んでません」
「だけど……」
「カズキさん」
言ってルフィアは、おもむろにカズキの左手を握った。
駆ける足は止めない。
「今は反省や後悔より、目の前のことに集中しましょう。ね?」
「……ああ。その通りだ。ありがとう、ルフィア」
「いえ。対等な同盟関係なんですから、支え合いましょう」
ルフィアが翡翠色の瞳を細めて笑う。
今はフードを外し、艶めく銀髪を風になびかせている。
美貌のエルフの微笑みが、ささくれ立ったカズキの心を、少しだけ穏やかにした。
† † † †
息を切らせてカズキとルフィアが辿り着いたのは、明かりの消えたアリアの宿だった。
期せずして、戻るべきところに戻ってきたような格好だ。
どうしてここに――カズキの疑問が、声になろうかという時。
宿の扉が、開いた。
「ルタ! トッド! ……アリアさんまでっ!!」
出てきたのは、頭から足先まで、全身を黒装束に身を包んだ者だった。
露わになっている目元だけが、不気味に光をたたえている。
その姿はまるで、闇に蠢く忍者のようだった。
続けて、ルタ、トッド、アリアがそれぞれ、独りずつ後ろ手に拘束されて出てくる。
カズキの顔が、カッと熱くなる。
「貴様ら……一体なんなんだ?」
単刀直入に尋ねるカズキ。
一歩、入り口へにじり寄る。
「動くなよ」
宿から最初に出て来た黒装束、一際背の高い者が一歩進み出て、カズキに制止を促す。
声音から、男であることがわかる。
カズキは踏み込んだ脚を、ぐっと留める。
「我々には仕事が二つある。王のガキと女を攫うこと、カズキ・トウワ、貴様を殺すことだ」
男は感情の起伏がわからない声で、淡々と言う。
黒装束たちの正体がわからないカズキは、身体を緊張させながら、思考をフル稼働させる。
――奴がリーダー? いや、そもそもなぜ俺のことを知っている? というか、今俺が狙われるとしたら、どんな連中にだ? しかも、王のガキと女を攫うって……ルタとトッドか? いや、トッドとアリアさんなのか? だとしたらどんな関係が……?
わからない……くそ!
カズキは奥歯を噛み締める。
「ガキと女を攫うのは完了した。が、ついでだ。こいつら全員を人質にして、貴様を楽に殺す。それなりに腕が立つようだからな。より安全に、確実に殺させてもらう」
リーダーらしき男は、両側に付き従えた黒装束がルタ、トッド、アリアを強く縛り上げるのを、カズキに見せつけるかのように間を取る。
噛み締めた唇が切れて、カズキに鉄臭さを味わわせる。
「……えらく慎重だな。それとも臆病なだけか?」
「我々は挑発には乗らん。任務遂行を何よりの是とする。そのためなら女子供も容赦なく殺す。あまり調子に乗って発言しないことだ」
と、男が言い終わらないうちに、ルタの「うぐ……」という呻きが聞こえた。
「やめろっ!!」
見ると、ルタの首筋に刃物があてがわれていた。白い首筋から、一筋の血が流れ出ている。
「理解したか? 今の状況を。貴様に一切の余地はない」
「…………っ」
カズキは、出血した唇をもう一度噛み締めた。
血の味が、口中を満たす。
身体の芯から、怒りの熱が満ち満ちて、肩が震える。
こいつらを――消し去ってやりたい。
「後ろの女も拘束しろ。大人しく両手を出せ」
「くっ……」
カズキの後ろに控えていたルフィアも、いつの間にか現れた黒装束に腕を絡めとられる。
後ろ手に拘束され、ルタらと同じように捕まってしまう。
カズキはリーダー格の男に向けた視線を外すことなく、魂力で周辺の気配を探る。
建物の周囲に現れたのは、五人ほどだった。室内から現れた人数を合わせて、黒装束は全部で九人。
人質さえいなければ、魂装を全方位型の刃に変質させ、刹那で葬り去ることができるが……ルタたちを盾にされている現状では、下手に動くことはできない。
一瞬でも、隙ができれば……カズキは糸口を探して、怒る心を必死に押さえつつ、思考を回転させる。
「さて……そろそろ死んでもらおうか。殺れ」
リーダーの男が、首だけを動かして周囲に目配せする。
カズキを取り囲むように展開している黒装束たちが、ジリジリと距離を詰めてくる。
どうする……どうする!?
カズキが、いよいよ判断を迫られたとき。
「ぐあ」「うっ」「あが」
立て続けに、聞くに堪えない呻きが漏れる。
見ると、黒装束八人が膝を折っていた。立っているのは、リーダーの男のみとなっていた。
よくよく目を凝らすと背後に人影があり、後方から黒装束へ攻撃を加えたらしかった。
背後の者は皆、フードを被りマントを棚引かせ、ペストマスクのような鼻面の長い仮面を被っていた。
「そこまでだっ!」
そして――黒装束のリーダーの喉元に、背後から白刃が突き付けられた。
「……ちっ」
リーダーの男は瞬時に不利な状況を把握したのか、するりとしゃがみこんで刃から首を抜き、背後の者を蹴り退けて、逃走を図った。
常人離れした跳躍力で、建物の屋根へと飛び退る。
「く、追え!」
蹴りを喰らった者が、周囲に指示を飛ばす。
仮面の者たちは瞬時に頷き合い、黒装束を拘束している者以外が、同じく屋根へと飛び去っていった。
後から来た仮面の集団は、黒装束の倍以上の人数だったようだ。
「ルフィア、大丈夫か!?」
カズキはまず、自分のすぐ近く、背後のルフィアの状況を確認する。
「はい、わたしは大丈夫です。早く、ルタさんたちを」
「ああ!」
ルフィアの安全を目視し、宿入り口のルタへと駆け寄る。
「ルタ!」
ルタ目掛けて、距離を一気に縮めるカズキ。ルタは蹴り退けられていた者に腕を借り、今まさに立ち上がろうとしていた。
「ルタを返せ!」
「ちょ、ちょっと待っ――」
駆け寄った勢いのまま、カズキはルタを分捕るように、正体不明の者へと体当たりした。
突き飛ばされた仮面の者が、宿の壁にぶつかる。
どしん、と鈍い物音が、夜の静寂を破る。
仮面の集団が、一瞬たじろぐのがわかった。
「ルタ、大丈夫か!?」
しっかりと受け身を取ったカズキが、腕の中のルタに声をかける。
ルタは首筋から血を流していたが、意識ははっきりしているようだった。
「……すまぬ、カズキ。またも足手まといに――」
「いいから。傷の手当てを」
カズキはルタの身体を支えて立ち上がる。
「隊長! くそ、こいつを取り押さえろ!!」
数舜の混乱から脱した仮面の者の何名かが声を上げ、武器をカズキに向ける。
カズキはルタを左手で抱きかかえたまま、周囲に睨みを利かせる。
「……トッド、アリアさん、すぐ助けるから……」
黒装束に続き、仮面の者に接近された様子のトッドとアリアへ目配せし、カズキは右腕の先へと魂力を集約させる。
目まぐるしく変化する状況を把握しきれないトッドとアリアの顔に、戸惑いの色が浮かんでいた。
「俺は今、気が立ってる……わかってるよな?」
今まさに、カズキの“魂装の右手”が火を噴かんとした、そのとき。
「ま、待て。待ってくれ!」
体当たりを喰らって壁にもたれていた仮面の者が立ち上がり、周囲を制止するように声を上げた。
「私の油断がいけなかった。皆、武器を仕舞ってくれ。落ち着いてくれ!」
カズキは油断なく、周囲を威圧しながら体勢を低くしていた。
「カズキ……うぬもちと冷静になれ」
が、腕の中のルタから声が届く。
その声音は鋭く、カズキに言い聞かせるような色を含んでいた。
一呼吸置いてから、カズキは反応する。
「だけど……」
「わしは大丈夫じゃ。むしろ、こやつらのおかげで助かった」
「…………」
「よく見ろ。子供と女も、悪いようにはされておらんじゃろう」
体勢低く構えたまま、カズキは視線を動かした。
トッドとアリアは、ルタの言う通り縛られていた縄を解かれ、二人手を取り身を寄せ合っていた。
「……フー」
カズキは短く息を吐き、構えを解いた。
黄金色に明滅をはじめていた右手が、静かに輝きを止める。
「すまない、カズキ・トウワ。ここは私に免じて、矛をお納めいただきたい」
周囲を制止した者が言いながら、ゆっくりとフードとマスクを外していく。
現れたのは――兎耳を生やした、亜人の美女だった。
顔はどちらかと言えば人間寄りで、豊かに頭髪が生え、その頭頂部から垂れ気味の兎耳が生えている。
鼻筋が通り、引き結んだ形の良い口元には、触角のように長いひげが二本だけ伸びている。
「私は、フェノンフェーン国王の補佐官兼近衛兵長を務めている、ペネロペと申す者。紹介なき無礼をお許しいただきたい」
「……いや、こちらこそ申し訳ない」
カズキは、相手の丁寧な言葉遣いに、急速に頭が冷えていくのを感じる。
また自分は、怒りに染まり突っ走ってしまった。
「カズキ・トウワ。折り入って頼みがある」
見た目のイメージとは正反対に、堅苦しく無骨な軍人のように、ハキハキと言葉を連ねるペネロペ。
彼女の口から続いた言葉は、カズキに少なくない驚きを与えた。
「我が王――レイブラム・リングランがお呼びだ」
その場にいた全員が、息を飲む気配がした。
貴重なお時間をこの作品に使ってくださり、ありがとうございます。




