031 お風呂回
「あぁ、染みるぅぅぅ」
大きな風呂桶の中、ぬるめのお湯に身を浸したカズキは、大きく息を吐く。桶の縁部分に後頭部を引っ掛け、全身を泳がすようにして入浴している。
「良い湯だなぁ……ただ、もう少し熱くていいかなぁ」
水中で足を伸ばしてゆらゆらとさせながら、カズキは誰にともなく言う。
カズキはほぼ裸だが、浴場に備え付けられていた紐パンツを穿き、入浴している。
非常に恥ずかしい仕上がりだったが、「穿かない奴とは入れない」とトッドに喚かれ、渋々着用している。聞くに、これを着て入浴するのが一般のエチケットなのだそうだ。
ただ、当然だが現代日本の下着や水着とは似て非なるものであるため、水中で身体にぴったりフィットするような代物ではない。
あまり大股を開くと、あっと言う間に色々と露出してしまう状況となっていた。
そう、色々と。
「ボクら亜人は、あんまり熱いのは苦手なんだ。具合悪くなっちゃうんだよ」
「そういうもんか」
対面側では、犬かきのように軽い泳ぎをしてトッドが遊んでいる。愛嬌のある、気持ち良さそうな笑みだ。嫌いと言っていた割には、楽しそうにしている。
トッドはカズキと同じく裸に紐パン姿だが、全身の鱗肌が露出し、むしろ水辺を泳ぐワニのようなワイルドさが醸し出されていた。そのため、あまり恥ずかしい感じには思えなかった。
カズキも、身体が鍛えられているため見栄えは悪くないのだが、本人としては自分だけが恥ずかしい格好をしている気がする……などと考えてしまっていた。
「どれ、邪魔するぞ」
と。
堂々と宣言し、湯船に浸からんと風呂桶の縁に登場したのは、ルタである。
腕組みをし、仁王立ちをしている。
女性用の湯浴み着は――着ていない。
真珠のような素肌が、惜しげもなく晒されている。上から下まで完全に、生まれたままの姿だった。
清々しいほどに、身体の一切を隠していなかった。
いや、隠せ?
「すげーつるぺ――」
「なにか言ったか?」
「お肌つるつるですね!」
「ぬふふ、そうじゃろう」
ルタは一瞬ジト目を向けたが、そこは上手く誤魔化すカズキ。
気を取り直した様子で、ルタはニヤリと笑ってから――思い切り飛び込んだ。
水飛沫が上る。
「わっぷ! ば、飛び込み禁止だっつの!」
「わぁ、お湯が目に入ったよぉ!」
「ぬはははは! ドラゴン族ならではの豪快な入浴じゃろうが!」
慌てふためくカズキとトッドへ向けて、ルタは嬉しそうに胸を張る。
別に興奮はしない。
「うん、まったくもって○リコンじゃないな、俺は」
湯船でトッドとじゃれはじめたルタを、遠い目で見つめながら、カズキは独り言ちる。
トッドにプロレス技っぽいなにかを仕掛けているが、微笑ましい光景だ。
立ち込める湯煙がルタの身体を隠すまでもなく、安全安心の、団欒お風呂シーンである。
そう、カズキはよく訓練された紳士なのだ。
断じて、幼女に興奮したりはしないのである。
「お待たせ……しました…………」
と。
次に頭上から聞こえてきたのは、ルフィアのか細い声だ。
カズキは思わず「ひゃい」と、上ずった声で応える。反射で振り向かなかった自分を褒めてやりたいと、強く思った。
おいおい、俺ってばなに動揺してんだ、素数を数えて落ち着くんだ……あれ、素数ってなんだっけ?――カズキの思考は完全に混乱していた。
ちゃぷ。
ルタと違い、足先から静かに上品に、湯船に侵入してくるルフィア。
カズキは視線をやってしまわぬよう、対岸の位置でじゃれ合っているトッドとルタに集中した。
うん、ルタ、それ以上やめてあげて。
トッドが溺れるぞ?
「ほふぅ……」
吐息交じりの、やけに色っぽい声がカズキの耳をくすぐる。すぐ近くのルフィアの動きが、湯に緩やかな波紋を作り出した。
(お、おいおい……俺の防御壁は今頼りない紐パンだけなんだぞ。規律を破ってご起立してしまったらどうしてくれるんだよ……!)
心の中で念仏のように、意味不明な言葉を並べ立てるカズキ。ルタの残念なダジャレセンスが、完全にうつってしまっていた。
「あの、カズキさん」
ルフィアが声をかけながら、さらに隣に寄って来る。その動きに合わせて、お湯が揺蕩う。
「はい、なんでしょう」
なぜか敬語になるカズキ。
「気持ち、いいですね」
「あ、ああ……あれ、でも風呂嫌いだったんじゃ?」
カズキは思わずルフィアの方へ顔を向けそうになるが、てらてらと光る銀髪が視界の端に入った瞬間に気がつき、寸前で堪える。
急な動きに、首がぐきりと言った。
「湯浴み自体は、好きなんです。ただ……」
そこでルフィアは言葉を切り、一度お湯を掬い、顔を洗ったようだった。
カズキは見えないようにしているため、音で察するしかなかった。
「……ただ?」
音が止んだ後も、ルフィアの言葉は続かなかった。
落ち着かないカズキは、聞き返す。
「……わたしは、これ以上美しくなりたくないのです」
「……はい?」
聞く人が聞いたら殴られそうなことを言い出すルフィア。カズキは身構えていた分、拍子抜けする。
「あ、いえ、あの、これはその……別に、自分に自信があるとか、そういうことではないんです!」
慌てふためいた様子のルフィアが声をあげる。
身振り手振りでも否定したのか、水面が波立つ。
振り向くに振り向けないカズキは、湯船の中で膝を抱え、体育座りをした。
達観のポーズである。
「わたしは、実は……あの、もっと近くに寄ってもいいですか?」
「え、」
「失礼します」
言うとルフィアは、肩と肩とを触れさせるような至近距離に身体を寄せて来た。
カズキの鼓動が、これまで以上に跳ね上がる。
「実はわたしは正確には、亜人ではなく…………エルフ、なのです」
「え……?」
カズキの耳元で、ルフィアの口から語られた新事実。
思わず振り向いてしまったカズキの顔先、ルフィアの汗ばんだ艶めく顔があった。
輝く銀髪は汗ばむからか耳にかけられ、上の先が尖っているのがよくわかる。
そしてカズキを見つめ返す、潤んだ翡翠色の瞳。
入浴のせいなのか、恥ずかしさのせいなのか、頬は上気し、瞼がとろんとしている。
あまりの魅惑的表情に、カズキは視線を外すことができない。
ごくり、とカズキの喉が鳴る。
二人の間には、少し首を前に出せば唇が触れ合ってしまうような、距離とも呼べない距離だけがあった。
「今まで……黙っていて、すみませんでした。
ただ、これからもカズキさん、ルタさんときちんと対等にやっていくって決めたから、言わないのは、いけないって思って……」
言葉を紡ぐ度に、小さくなっていくルフィアの声と、潤んでいく瞳。
ルタとトッドのはしゃいだ声が、ルフィアの声を上書きする。
カズキは、ハッとする。
もしかしたら彼女は、宿で話した時から、この事を話す覚悟を決めたのかもしれない。風呂に入る前のガッツポーズも、自分を鼓舞するためのものだったのだろうか。
カズキは色々と考えつつ、左手で頭を掻いた。スケベ心で緊張していた自分を、殴ってやりたくなる。
「エルフって……大昔に絶滅したって、聞いたけど」
深呼吸をして、カズキは心を仕切り直す。
「はい……わたしが最後の一人、だと思います」
「…………ルタと、一緒だ」
カズキは思わず漏らした。
魂装の右手は今はなく、右腕は湯船の中で所在なさげに、ゆらゆら揺れていた。
「もう記憶も曖昧ですが、ほとんどのエルフを滅ぼしたとされる戦争で捕虜となり、母と共に奴隷になり、何十年、何百年も……ずっと奴隷として、様々な土地を転々としました。
ずっとこのまま、もう自分の一生に期待も、変化を求めることも一切なく、誰かの奴隷として生きて行くんだって、そう思っていました」
薄くか細い湯気が一筋、夜空に昇っていく。
「でも今は、カズキさんのような温かい人に出会い、少しだけ自分の人生を考えることに前向きになりつつあります。
だから、ハンズロストックの街でカズキさんと出会えたのは、わたしにとっては奇跡以外のなにものでもありません。わたしはあなたのような人に買われて、本当に良かった」
「……そこまで言ってもらうのは、恐れ多いよ」
あくまでもカズキは、謙遜する。
自分はどこまで行っても、たまたま出会った自分と似た者を、公的な手続きで檻から出しただけなのだ。
奇跡を起こして皆を助けるようなヒーローでは、決してない。
「ふふ、カズキさんはいつも、わたしの感謝を素直に受け取ってくれない」
言って、ルフィアは口を押えて笑う。
カズキは照れ隠しに、また頭を掻く。
「母がよく言っていました……美しさこそが、エルフ族が人間に滅ぼされた最たる理由だと。
人は、自分たちよりどこかが優れた生き物を、決して寛容しないと。排斥するか、隷属させるかの、どちらかなんだと」
ルフィアの髪から汗が、滴となって流れ落ちた。
カズキは黙って、水面を見ていた。
「だから母とわたしは、自らの美しさを汚し、塗りつぶし、みすぼらしく生きることにしたんです。そうすることで、人の悪意から身を守ることができました。エルフであることもいつしか、どうでもいいことになりました」
「そんな……」
ルフィアの痛ましい言葉に、カズキは居心地が悪くなる。
「母が病で死んでしまってからは、独りで生きて行かなくちゃならないと思い、さらに自分を汚し、穢し、みすぼらしくして生きてきました。……そんなだから、わたしはお風呂には行きたくないんです」
「でも、そんなの……間違ってるだろ、生き方として」
カズキは苦々しく、言う。
ルフィアが悪いのではない。そんなことは百も承知だった。
これは所詮、人の悪意によるものであり、身勝手な欲望が生んだ悲しい価値観だ。ルフィアに言うのはお門違いもいいところだ。
それでも、カズキはルフィアに言わざるを得なかった。
いや――今は、ルフィアと向き合うべきだと思ったのだ。
「はい、わかっています。だから……だから、カズキさんの前では、ありのままの自分をちゃんと、受け止めて行こうって思っています。一緒にこうしてお風呂に入ることが、その第一歩だって思ってください。
これから、もっと頑張ります。自分を誤魔化さずに、生きられるように」
「……ああ、ありがとう」
カズキとルフィアは今度こそ、お互いの顔を見て小さく笑った。
穏やかな空気が、湯船の上を漂っていた。
と。
「仕方ないのぅ……うぬら、トッドがのぼせてしまったようなので、わしらは先に上がるとするぞい」
ルタの声が、一瞬の静寂を破る。
「はぁ? ったく、言わんこっちゃないな」
「たわけぃ、この程度のじゃれ合いでのぼせるこやつの鍛え方が足りんのじゃ」
「うぅ、ごめん……」
言いながらルタは、トッドに肩を貸しながら、さっさと着替え場に引っ込んでいった。
着替え場は風呂桶からでは死角になっており、着替えが見えないようになっている。
「よーし、俺らももう少ししたら上がろう。のぼせたら大変だ」
「はい」
そうしてカズキはルフィアと二人、遅れて湯船から上った。
ルフィアは湯浴み着を着用していたので、カズキは心穏やかなまま、浴槽を出ることができた。
そして、カズキが衝立を回り込んで着替え場に入る。
「…………あれ?」
見ると、ルタとトッドの姿が消えていた。
着替え場には、ルタとトッドの着替えがいくつか残ったままだった。
どこかへ行ったのだろうか……? 一瞬カズキはそう考えたが、出ていくような物音など、一切しなかった。
物音一つせず人が二人消える――その事実が、余計になにか意図的なものを、カズキに感じさせた。
急激に、体温が下がるような心地がした。
貴重なお時間をこの作品に使ってくださり、ありがとうございます。




