018 彼女の名はルフィア
バルコニーから見た岩壁の裏側に、カズキは到着した。
日が傾きはじめ、崖の家々は影を色濃くする。
そこは、切り立った岸壁が城壁のように周囲を囲い、光がほとんど入らない場所だった。
天高くそびえる岩の壁の間にはいくつもの橋がかけられ、そのせいで、谷底となる部分から仰ぎ見る空は、暗く小さくなって見えた。
ハンズロストック、その裏側はさながら、亜人たちを閉じ込めておくための籠のように感じられた。
壁に囲まれた平野部には、亜人らが住んでいるらしい小さな家々が点在している。
そこへ続く道には、入り口にように門が設えてあり、両脇に簡素な櫓と小屋が建っている。
門の柱には『亜人街』と書かれているが、誰かのイタズラか、塗料で『奴隷街』と上書きされていた。
「……悪趣味な場所だ」
門前に立ったカズキは、思わず毒づいた。
今カズキのいるところから真っ直ぐに道が伸び、道の左右に大きな建物が向かい合うように、いくつも軒を連ねている。
建物の一階部分は剥き出しの檻になっており、その中には多種多様な亜人――いや、奴隷なのだろう――が覇気を失った様子で佇んでいた。まるで、亜人を商品として見世物にしているようだった。
――奴隷市場。
カズキはその入り口に立っていたのだった。
「お客さん、お客さん。奴隷をお探しですかい?」
入り口付近の小屋にいた、体躯の小さな男が、立ち止まっていたカズキに声をかける。
カズキは思わず睨みつける。
「ひっ……な、なんだってんだよ、人が厚意で声かけてやってるってのによぉ!?」
男が、怯えつつデカい声を出すという、器用なことをする。
「……ここ全部ぶっ壊せば、亜人は自由になるのか?」
カズキは脈絡もなく、そんなことを尋ねる。
男は、いかにもカズキを「頭のおかしい奴か?」と訝しみつつも、滲み出る殺気に背筋が震え、律義に回答を返してきた。
「そ、そんなわけねぇだろ! この街にゃ同じような奴隷商は二、三ある。それに、亜人の連中は絶えずこの街に流れてくる。
亜人共もな、戦争で死ぬよりは奴隷でいてーって連中が多いんだ! ここを吹っ飛ばしちまったら、主人が死んで、みんな食いっぱぐれて死んでくだけだっつーの!」
「…………くそ」
男の言葉を聞き、カズキはルタの話を思い出す。
差別はそう簡単になくならない――亜人たち自ら、奴隷になるという選択をする者までいる。
自分が浅はかだったことを痛感させられ、カズキは歯噛みした。
「……ちょっと見てもいいか?」
「あ、ああ……ったく、どういう風の吹き回しなんだ」
急に現実的なことを訪ねてきたカズキに、面食らう小さい男。悪態をつくが、商魂たくましいのか、門の錠前を外して、檻が立ち並ぶ通りまで先導してくれる。
「好きに覗きな。ただし、活きが良すぎるのもいる。下手に近づきすぎて怪我しねーよーにな。責任取れんぜ」
「ああ」
「めぼしいのがいたら、また声かけてくれ」
言って男は、小屋に戻っていく。
カズキは怒りを鎮めるため、一度大きく深呼吸をした。
「……見てみるか」
そして、歩き出した。
道の右側、左側の両方に檻があり、その中に、多種多様な亜人が鎮座している。
一人に一つの檻が宛がわれているわけではなく、幾人もの亜人が過密に押し込まれているところもある。
檻の中の者たち全員に、漏れなく手枷と足枷がつけられている。
弱々しく身を寄せ合っている者、呆けてただ空を眺めている者、殺気立ってこちらを睨んでいる者――その表情は様々だった。
「あー胸糞悪い……」
言いながらカズキは、通りの両端から目を逸らすことなく、一つ一つの檻を目を凝らして見ていった。
どれだけ現実が忌々しいものであろうとも、そこから目を背けることが、一番の悪だと思えたからだ。
知った気になって語っているだけの人間がなにかを生み出すことは、決してない。
「…………?」
入り口から最奥の地点、他の檻より一際小さく、錆かなにかで薄汚い檻の中に、一人の――おそらく少女だろう――亜人が蹲っていた。
なぜかその檻だけ、中から絶え間なく砂埃が舞い、視界が悪い。一定のリズムで、鎖が擦れるような音が聞こえてくる。
よく目を凝らすと、少女が自ら自分の身体に地べたの砂や泥を擦りつけていた。例によってただ羽織っただけのようなボロ布から覗く二の腕に、自分の身体を抱くようにして汚れを塗りつけている。
両腕以外にも、煤なのか泥なのか、とにかく体中が汚れている。
組んだ膝の間に入り込んでいる頭からは、灰色にくすんで痛み切った長い髪が垂れていた。それは一目で、かなりの時間、一切の手入れをしていないことがわかった。
カズキが少女だと判断したのは、単純にこの長い髪からの印象だった。
まだ、その顔がはっきりと見えない現段階では、性別も不明だし、亜人かどうかも判然としなかった。
ただ、檻の中を一言で形容するのなら――仄暗い灰色。
カズキはそんなイメージを抱いた。
「……顔を、見せてもらえないか?」
カズキは努めて、穏やかに声をかけた。
しかし少女は、一切の反応を示さない。
「どうしたもんかな……」
手をこまねいていると、入り口の男が気づいたのか、小走りでやってきて、檻を鉄棒で叩いた。
ガシャ、と耳障りな音が一拍、響く。
檻の中から「ひっ」と短く小さい悲鳴が一瞬聞こえた。
「おら、お客様に愛想良く! お前はただでさえ汚ぇんだから!」
「やめろ。余計なことはしなくていい」
檻を叩いた男を睨みつけるカズキ。
「わ、わぁーったよ! なんだってんだよ、ったく……」
またもサービスをしたら殺気を込められるという理不尽な目に遭い、男は苛立った様子で門に戻っていった。
カズキは再度、檻の前で深呼吸をした。
少女は膝の間から片目で、カズキの顔を窺うように瞳を揺らしていた。
瞼は閉じ気味で、あまり目つきが良いとは言えない。
「……大丈夫。元々は俺も、キミと同じようなもんだ」
「…………同じ?」
少女の声はか細いが、やけに美しく聞こえた。
「ああ。一方的にここに連れて来られて、勝手に立場を決められて、挙句……捨てられた」
カズキはゆっくりと呼吸をしながら、気持ちを落ち着けて話した。
檻の柵を掴んでいた手に、自ずと力が入る。
「……わたしも、ずっとそう」
檻の中の少女は、消えそうな声で同意する。
汚れを塗り続けていた両手を止め、彼女は腰を上げた。
「……怒って、いますか? 怒り、感じます」
「っ!」
そう言い、少女は檻の内側から手を伸ばし、柵を掴むカズキの手を、そっと握り込んだ。
汚れていた少女の手が、カズキの手を同じように汚す。
だがその手は――温かかった。
カズキの荒れていた心が、不思議と落ち着いていく。
もしかしたら、この子は――カズキの心に、一つの予感が渦巻く。
「あコラ! お客様の手を勝手に握って――」
「やめろっ!」
「ヒィ!?」
商魂のせいか、またも近づいてきていた男を怒鳴りつける。
同じく少女も大声に怯えていたが、努めて優しく、その手を柵から放してやる。
目の前の亜人の少女は、この世界に召喚ばれた頃の自分と同じだ。
しかも、おそらく――魂力に対する感性を持っている。
もはや他人と思うことは、カズキにはできなかった。
「……この子を買う。いくらだ?」
カズキは宣言する。
そして、チップを渡す際に懐に仕舞い込んだ数枚の硬貨を取り出して、男に見せる。
「これで足りるか?」
「こ、こりゃ金貨じゃねぇか!? 足りる足りる、足り過ぎてる! こんなにいただけねぇですぜ!!」
男は度肝を抜かれたように、土下座するような格好でカズキを拝み始めた。
黙って受け取っておけばいいものを、払い過ぎていることを正直に申告してくるあたり、この小男は、案外真っ当な性格をしているのかもしれなかった。
「いい、チップだと思ってくれ。その代わり、この子の服や靴ももらえるか?」
「そ、そりゃもちろんございますとも! 少々お待ちを!!」
男は一目散に駆け出し、入り口近くの建物に入ると、きびきびと衣服などを持ち出してきた。
カズキはそれらを一通り眺めたが、どれを着れば喜ぶのかがわからず、仕方なくルタの衣服に似たフード付きの物を選んで手に取った。
「着替えさせるときなんかは、あそこの掘立小屋を使ってくんな! 二人で入っても構わねぇが、“着替え以外のこと”は遠慮してくれよ、片付けが面倒なんでな! ひひひっ」
下世話なことを言い、男は媚びるように嗤った。
カズキは一度睨みを利かせたあとで、一言だけ礼を言い、彼女に向き直る。
「キミの……名前は?」
「…………ルフィア」
「ルフィア、か」
響きが少し、ルタに似ていた。
良い名前だと、カズキは感じた。
「おい、この鎖、取ってくれ」
少女を檻から出した男が、手足の枷を取らないのを見て、カズキは語気を強めて言った。
「はぇ!? 鎖、取っちまっていいんで? 逃げても責任取れませんぜ?」
「いいから」
再び、睨む。
「ヒィィ! た、ただいまお取りいたしやすー!」
慌てた男が、即時対応する。
手枷、足枷を外された少女――ルフィアが、怯えたように身を縮める。
「これを着てくれ」
「…………」
着替えの小屋の前で、カズキがフードのついた衣服を手渡すが、ルフィアは自分の身体を抱き、頭を左右に振った。
どうやら、着替えたくないらしい。
「でも、そのままじゃ」
「……新しい服は、嫌です……」
「じゃあ、その上に羽織ってくれるだけでいい」
「……じゃあ、汚してもいいですか?」
彼女はそう言うと、衣服で自分の身体を拭くようにして、服をあえて汚しはじめた。後ろでは、せっかく持ってきた服を汚された小男が、切なそうな顔をしていた。
「これなら、着れます」
汚れたフードを被り、ほんの少しだけ嬉しそうにルフィアは言った。
「じゃあ行こう」
「はい」
カズキはそうして、奴隷商を後にし、歩き出す。
少し後ろから、灰色の少女がついてくる。
空はすっかり、夕暮れだった。
貴重なお時間をこの作品に使ってくださり、ありがとうございます。




