146 ハイデュテッド、侵攻を開始する
魔族の国、デーモニアの象徴たる城、デーモニア城――現在は、ハイデュテッドに占領され、人間の居城となっていた。
城の最上階と言える大尖塔のバルコニーに、ハイデュテッドの神王、ハイレザー・ハイディーンは立っていた。感情の読み取れない瞳が、地平の向こうを見つめていた。
「神王様、お加減はいかがでしょうか」
室内に現れたのは、黒い長髪の男、ダンストップ・オールドマンだ。恭しく片膝を着き、深々と頭を下げたままお伺いを立てる。その声を聞いたハイディーンは振り返り、オールドマンに近付く。
そして、片手でその喉元を掴み、足が浮くほどに持ち上げた。
「ぅぐ」
「神王であるこの私が、あんな害虫にコケにされて、気分が良いとでも思うのか?」
片手でオールドマンを締め上げながら、怒りの形相でハイディーンは語る。鬼でも宿ったかのような憤怒の表情は、憎悪や悪意などという言葉すら陳腐に思えるほど、怨念めいた何かを感じさせた。
「神王様、失礼いたします」
続いて部屋に入室してきたのは、宰相であるアビゲイル・ツィーゲルだ。トレードマークであり魂装武器でもあるとんがり帽子を入り口で取りながら頭を下げる。
「首尾はどうか?」
端的に、ハイディーンはツィーゲルに訊ねる。腕の先ではオールドマンを締め上げたままだ。
「はっ、我が軍は補給等を終え、全軍、敵本拠地近隣の平野部に横陣にて展開しております。いつでも魔族の籠城する砦に攻め込むことが可能です」
「早いな。素晴らしい」
笑みのないままハイディーンは言い、オールドマンの喉元から手を放した。短い呻き声の後、オールドマンは膝を着き頭を垂れた。苦しいのか、額には多量の冷や汗が浮かんでいるが、神王の御前という意識からか、呼吸を乱さないよう静かに肩を上下させている。
「次こそが、魔族の最後だ。根絶やしにする」
「「はっ」」
言い切ったハイディーンの言葉に、オールドマン、ツィーゲル両名の短い声が呼応する。
「全軍に通達。神王ハイレザー・ハイディーンが命ずる。――魔族を、殲滅する」
「「はっ!」」
両名は素早く立ち上がり、一糸乱れぬ動きで同時に部屋の出口へと向かう。
オールドマンだけが立ち止まり、一度ハイディーンを振り返り、敬礼をしながら「ハイデュテッド、万歳!」と叫び、出て行った。
その様を見たハイディーンは、ようやく口角を少しだけ持ち上げ、オールドマンに笑みを返した。彼のこの戦いに賭ける意気込み、覚悟を感じ取ったがゆえだ。
必ず、オールドマンはこの私のために死ぬまで戦い抜くことだろう――そう確信したからこその笑み、とも言えた。
「今度こそ、我がハイデュテッドの全戦力を持って、確実に息の根を止める。……待っていろ、カズキ・トウワ」
ハイディーンはカズキへの憎悪で、その身を震わせる。唇は出血するほどに噛み締められ、一筋の赤い筋が口元から垂れ落ちた。
自らの鳩尾辺りをゆっくり、ハイディーンは撫でた。痛みはないが、鎧の下では青痣となっているのは確認済みだ。
神王の身体に痣を作るなど、無礼甚だしい――殺し尽くし、殺し貫く。
デーモニア城の頂から見える、大陸独特の乾きくすんだ灰色の大地を眼下にしながら、ハイディーンは初めて抱える一個人への感情に、ある種の昂りを覚えていた。こんなんにも、人間一人のことを考えることができるなんて。根底にあるのは純然たる殺意であるにも関わらず、その感情は見方によっては、親愛のような側面すら持っていた。
その日、ハイデュテッドの魔族殲滅作戦が、いよいよ開始された。
曇天の雲間では、雷鳴が轟きながら激しく発光していた。
嵐が、来る。
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