140 変化
まだ炎の燻る荒野に、二人の男が立っている。
一人はハイデュテッドの神王、ハイレザー・ハイディーン。
そしてもう一人は――名もなき魂装遣いカズキ・トウワ。
ハイディーンから見れば、自分を脅かすような力を持つはずもない、いわば害虫の一匹に過ぎない名も知らぬ男だ。
そう、そのはずだった。
「何なんだ、貴様は……?」
ハイディーンは意識もせず、呟いていた。
目の前で立ち上がった人間は、なぜだか先程までと違う人物のように思えて仕方なかった。
そもそもその男は、腹に穴を二つ開けられているにも関わらず、事もなげに立ち上がっている。
その違和感だけでも十分すぎるというのに、さらに、先程までとは違う雰囲気を醸し出しているのだ。心なしか、声も変わったように思える。
この心がざわつく感覚は、なんだ……?
ハイディーンは波立つ自らの心内を自覚し、苛立ちに似た想いを抱く。
なぜ、この私が冷や汗を浮かべなければならないのか。
「……空気が、昔より濁っている。あの炎の影響もあるだろうか」
脈絡のない言葉を並べ立てる、眼前の男。
自分にとって取るに足らない害虫だと思っていた若い男が、なぜか今自分に正体不明のプレッシャーを与えてきている。本来であればその構図は逆のはずで、ハイレザー・ハイディーンという存在を目の前にし、恐れ慄くのは向こう側であるのが世の道理であるべきだ。
それなのになぜ、平然としているのか。
むしろどうして、私の方が背筋に悪寒を感じているのか――ハイディーンは自分自身が抱いている感情それ自体を苦々しく思い、奥歯をぐっと噛み締めた。
「貴様……先ほどまでとは、なにか違うな?」
ハイディーンは我慢できず、男に訊ねる。その際、自分が相手に警戒心を抱いていることすら苦々しく思いながら。
「ほぉ、わかるんだね。さすが、魂力による時間操作まで習得するだけの才能を持った人物だ」
男は緊張も焦りも一切感じさせない落ち着いた声音で、ハイディーンを評した。
しかしハイディーンにとってその言葉は、到底受け入れられるものではなかった。
なぜ、矮小な人間にこの私の価値が見定められなければならないのか。
全ての価値を見定めるのは、神王であるこの私だ。
胸の内で爆発した怒りに身を任せるように、ハイディーンは一瞬で魂装し剣を閃かせ、時間を停止させた。
魂装武器の切っ先で、男の腹を再び切り裂いてやる――そう、ハイディーンは考え手を伸ばしたのだが。
「まだこの身体をダメにするわけにはいかないんだよ」
「……っ!?」
停止した時の静寂の中に、男の声がする。驚きを隠せないハイディーンの目が、見開かれる。
「仕方ない。少し黙っていてもらうよ」
驚きで足が止まっているハイディーンに向けて、男は腰を低くし構える。数瞬前に感じた、空間全体が共鳴し震えるような感覚があった。
背筋が、ぞくりと冷える。
「が……っ!?」
瞬きをするような間に、ハイディーンの腹部に、男から放たれた拳の一撃が炸裂した。
経験したことのない痛みに、思わずその場に倒れ込むハイディーン。時間停止をさせたはずなのに、なぜこんなことが起きたのか?
理由もわからず、ハイディーンはただ痛みに呻くことしかできなかった。
「貴、様……許さんっ、許さんぞ! この神王である私を、地に這いつくばらせた罪は重いっ!!」
喉から絞り出すように、ハイディーンは怒りの言葉をぶつけた。
それでも目の前の男は意に介する様子もなく、ただ淡々と、自分の拳を閉じたり開いたりしていた。
「必ず、必ずこの手で殺してやる……殺してやるっ!!」
ハイディーンは痛みに耐え、立ち上がる。目の前の男を切り裂き、血を噴出させ、命を散らしてやらなければならない。
「まだ立ってくるか。肉体的にもなかなか丈夫にできているね」
目の前の男は、感心したかのように小さく笑った。ハイディーンにとっては、ひどくその笑みが腹立たしいものに感じられた。心の底から、殺気が溢れ出てくる。
「地獄の底まで……貴様を必ず叩き落してやる! 死んでも死んでも足りないほどに、殺し尽くしてやるッ――」
再び、ハイディーンは視界全てを停止させる意識で、右腕を横に薙いだ。
時間停止の能力こそ、今までハイディーンをハイディーンたらしめてきた、史上最強と自負する魂装真名だった。
しかし。
「僕には、通用しないよ」
「な……!?」
ふわりと、男は両手を広げる。停止させたはずの時間の中で、だ。
その瞬間、ハイディーンは認めざるを得なかった。自分の伝家の宝刀は破られたのだ、と。
「カズキ・トウワ、この名前を覚えておくといい。ゆくゆく、この世の魂力を統べる者だ」
「魂力を、統べる……だと?」
目の前の男――カズキ・トウワから発せられた言葉を、ハイディーンはすぐには理解できない。
魂力を統べるとは、いったいどういうことなのか?
私の魂装真名以上の、支配力を持つと言うことなのだろうか?
「今はまだ途上、だけれどね」
再び、カズキ・トウワが小さく笑う。
「そのふざけた笑みを、やめろッ!!」
ハイディーンは腹の底が煮えたぎるような怒りをぶちまける。力任せに剣を振り『魂力を統べる』などと世迷言をのたまった男を血祭にせんと一歩踏み込む。
しかし。
「君も懲りない人間だ」
「ッ!?」
ハイディーンの踏み込みは容易く躱され、代わりに――もう一度腹部に、重たい一撃をもらっていた。
この時はじめて、ハイレザー・ハイディーンは痛みによって失神した。
貴重なお時間をこの作品に使ってくださり、ありがとうございます。




