106 ルタの葛藤
「俺が行く“分断の壁”ってのは?」
着替えを済ませたカズキが、同じく装備などを済ませたシャックへ向けてたずねる。
「“分断の壁”というのは、デーモニア領とハイデュテッド領を分け隔てる巨大な壁、つまり国境線となる壁のことだ。ハイデュテッドがまだ小国だった二百年以上前から、あの壁を越えて人間が攻め入ってきたことなどない」
シャックは着込んだ鎧の革紐などを再度チェックしながら、カズキの問いに答える。
「あたりめーだろ。人間共が古代種を滅ぼした所業を見て、オレら魔族が協力して作った壁だ。そう簡単に越えられてたまるかっての」
シャックの言葉に補足を付け加えたのは、ルフィアから回復の施術を受けているエルドラークだ。
表面上の傷はかなり回復し、声の音量も戻ってきている。
ただまだ“内側”までは癒えていないのだろう、先程から悪い咳を何度か繰り返していた。
今カズキたちは、有事の際に作戦拠点となる城内の議事堂に集結し、軍備を整えている最中だ。
カズキたち以外には戦いに赴くためだろう、魔族の皆が忙しなく行き交っていた。
「ではカズキくん、我々は手筈通りに。魂装道具で、一緒に分断の壁まで同行してもらう」
「ああ。問題ないよ」
支度を終えたシャックが、少し急いた様子で言う。それにカズキは落ち着いて応じ、ルフィア、ルタの状況を確認する。
ルフィアはエルドラークを自らの魂装で治療している。
真剣さの伝わる表情は、声をかけづらい。
一方、ルタは――
設えられた木の椅子に腰掛け、呆けたように俯いていた。
カズキは一度息を吐き、皆に目配せしてから、ルタの隣に腰掛けた。
「……気が、乗らないのか?」
静かに、問いかける。
「……カズキよ。わしは、いったいどうしたらいいのじゃ」
俯いたまま、顔にかかる金髪を気にすることもなく、ルタは吐き出すように言う。
カズキは返す言葉が見つからず、黙っていることしかできない。
「エルドラークは憎い。あれだけ殴っても、未だ心の奥底では言い知れぬ感情が蠢いている。だが、もっと憎い人間共に魔族が滅ぼされると思うと、それもまた黙ってはおれぬと身体が疼いているのじゃが……目の前でエルドラークの姿がちらつくと、どうしても勇み魔族のために動こうという気にはなれぬ」
膝の上で拳を握り、自らの心情を吐露するルタ。
カズキは震える拳から心内の苦しみを察し、黙って隣で頷いていた。
「どうしたらいいか、わからぬ……わからぬのじゃ…………」
千年を生き、理知的で博識で、常に冷静なルタ。
しかしそれはある意味で、幼く孤独なまま時の牢獄に閉じ込められた弱い自分を覆い隠すために得た、仮面のようなものだったのかもしれない。
カズキは少しの間、震えるルタの背をさすっていた。
「……わからないままでいいから、俺についてきてほしい。やっぱり俺は、ルタがいてくれる方が安心だ」
「…………カズキ」
間を置き、カズキは背に手を置いたまま言う。
「俺にとってはルタの気持ちも大事だし、魔族のみんなも大事だ。ただ、他者を虐げることばかりする人間共は、許せない」
心の奥に掲げた一つの決意を、改めて口にしていくカズキ。
「だから俺は、戦う。人間と」
その目に、揺らぎはない。
「他者を虐げているのが一部の人間だけだとしても、俺はその一部の人間共を全部根絶やしにするまで戦い抜く。そうして、ちゃんとこの一つの世界で、生き物みんなが協調していけるようにバランスを見出す」
隣のルタが、顔を上げたのがわかった。
「……なんか、俺が言ったんじゃないみたいな感覚だったな」
カズキは自らが発した言葉を、どこか他人事のように聞いていた。
気恥ずかしくなり、後頭部をボリボリと掻く。
「まったく……うぬは最高の弟子じゃよ、カズキ」
小さくルタが笑った。
合わせてカズキも、歯を見せて笑う。
二人同時、椅子から腰を上げ、皆に顔を見せる。
エルドラークと目が合ったルタは、どこか気恥ずかしそうに目を逸らすが、俯くことはなかった。
二人の様を確認したシャックが一度頷き、部屋の扉を開けた。
カズキは外へと、踏み出していった。
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