1. 蟻、這い寄る罪悪感
それは。
例えるなら一筋の涙のように尊いもので。
例えるなら両手一杯の金塊よりも醜いもので。
見上げれば空に浮かぶ太陽のように卑小な物体で。
見下げれば誰よりも活動的な黒い小蟻のようで。
ん? 蟻か。
ちょうど足下で這い上がろうとしていた蟻を踏み潰した。
「僕に触れるな」
雨で泥濘んだ土塊と区別のつかなくなった黒い点を睨み付け、一瞬悩んだが、そこに唾を吐きかけた。
一個の命を消し去った優越感にひたりながらも、背中に這い寄る罪悪感に擽られる。
「詩人だな」
そうだ。
偉大な僕を語るには、僕ほどの詩人でなければならない。
風のように詠い。
雨のように悲しみ。
雷のように怒りに狂い。
炎のように微笑む。
そんな詩人だ。
「兄さん」
「なんだい」
「おかしくなっている?」
「ああ、僕はいつだっておかしいぞ、妹よ」
「そうね。兄さんはいつもおかしいわ」
正常という傲慢さこそ憎もう。
そして異端を愛し、抱きしめるのだ。
「それで足下にあったウンコを踏みにじったのはなぜ?」
「なに?」
慌てて靴の裏を見ると茶色い何かが、しっかりと、ベッタリとくっついている。
「土だな」
「ウンコよ」
「いずれ土に還る」
「時系列的な今の状態を的確に表現するとするならば、ウンコよ」
「女の子がウンコ、ウンコと口にするのは良くない」
「ウンコをウンコ以外に言い繕うことはできないわ。でも、そうね。おウンコちゃんとでも言えば、多少は美しいかしら」
「ああ、そうだ。これはウンコでもなく、土塊でも無い。おウンコちゃんと呼ぼう」
「わかったは。それで兄さん、そのおウンコちゃんを家に連れて帰るとおカアちゃんが怒るわ」
「その言葉の流れでは母さんが、おウンコちゃんとコサックダンスを踊っていそうなのだが」
「そうね。そのおカアちゃんから出てきたおニイちゃんこそが、おウンコちゃんとも言えるわ」
「お前も一緒だろ」
「乙女はしないの」
「何の話だ?」
「何の話よ」
妹と話していると脳みそがウニになって千歳空港で売りだされそうだ。
行ったことは無いが。
僕はウニがそれほど好きでは無い。
イクラは好きだ。
ウニイクラ丼のウニ抜きこそ至高。究極など死んでしまえ。
「とりあえず、足裏のおウンコちゃんをどうにかして、おニイちゃん」
「足裏のブツに向かって、兄と呼びかけるのはやめてくれないか、妹よ」
「私には区別は付かないし、母さんから出たものだと思えば、愛おしくもなるわ」
「帰宅したら母さんに告げ口をしよう」
「許して、兄さん。靴を舐めるわ」
妹が変な趣味に目覚めてしまう。
僕はまみれてしまった片方の靴を脱いだ。
「捨てるの?」
「ああ、もう使えないしな」
「高かったんじゃない?」
「わからない。下駄箱にあった靴だから」
「そういえば下駄箱の前でタカシ君が靴が無いと泣いていたわ」
誰だろう。
タカシ君とは。
いじめられっ子なのかな。可哀想に。
「兄さんは裸足で学校に行っていたの?」
僕らの会話から、さよならだ、タカシ君。
「裸足? まさか、僕はゲンさんじゃないよ」
「誰、ゲンさんって?」
「いや、知らない。戦争によって家族を失ったゲンさんの物語とくらいしか知らない薄っぺらな感性で、はだしと言えばゲンさんだという連想を口にしただけだ」
「そう。全国のゲンさんに謝って」
「ああ、そうだな。すまない。ゲンさん」
「大工さんにも」
「すまない」
「もういいわ、むしろゲンさんには謝って欲しいと常々思っていたし」
確かに。
ちょっと待て。
これは何の記憶だ。
妹も僕もまだ学生だというのに。
ともかく、僕の心の底から陳謝に、きっとゲンさんは許してくれることだろう。
ありがとうゲンさん。
ああ、ゲンさんがタカシ君とならんで微笑んでいる姿が瞼に浮かぶ。
お帰りタカシ君。
「なんでタカシ君の靴を履いていたの?」
「靴がなかったからだ」
「そう。それは仕方ないわね」
「ああ、仕方ないのだ」
上履きを脱いで、さあ帰ろうと思ったら下駄箱がない。
そこでの選択肢など、タカシ君の靴以外に思いつかない。
「靴ではなく、下駄箱がなかったの?」
「ああ、そうだ」
「どうしてそんなことが起こったのかしら」
「多分、僕らが知り得ない物語があり、這い寄る何かが持ち去ったに違いない」
「ありそうね」
「ああ、ありそうだ」
僕はその壮大な物語に思い馳せ、小雨の降りしきるなか、空をみつめ、詩人になっていたのだ。
空よ、お前はこんなにも美しい。
「兄さん、もしかして虐められている?」
「僕の定義として、否定するぞ」
空を見上げて、涙がこぼれるのを防ごう。
「それならいいわ、兄さんを虐めるような人がいたら」
「妹よ、報復は何も生まないぞ」
「もっとも効果的な方法をレクチャーするために3日ほど軟禁するわ」
「やめておけ」
やはり、この妹は頭がおかしい。
軟禁は1日以内だと憲法で決まっているのだ。
「わかった、うまくやる。でも『この妹』だと、別の妹がいるみたいじゃない?」
「妹とはそういうものだろう」
「そうなの?」
「だいたい12人くらいはいるはずだ」
「今度、数えておくわ」
だが残念ながら僕の妹は、この実妹が一人だけだ。
ヒロイン役の一人の中に一人の妹がいる。
義妹も偽妹もいない。従妹も幼馴染みも、ロボ妹もいないというのは何の呪いだ。
いや、ロボットはいたはずだ?
「話が逸れたわ。それで兄さんを虐めているのは、どこの山田?」
「山田さんに謝れ。それと僕のクラスには山田はいない」
「クラスメートに虐められているのね」
「くっ、誘導尋問か」
恐ろしい捜査の才能だ。
身内に学校で下駄箱を隠されたことがバレてしまったので、その気恥ずかしさに身が細る気持ちになる。
「気持ちで痩せたらダイエット道場はねぇ」
「ぐふっ」
いい、ボディブローだ。
膝から崩れ落ちてしまう。
妹よ、お前なら世界を狙えるぞ。
「うそ。兄さんならこの程度の攻撃、避けられるはず。さては偽物ね」
「この距離では、パリィすることなど無理だ」
「ありえないわ。チートを夢想した無双転生者の兄さんなら……」
「夢想しているから強くないよな、それ」
「言い訳するな、修正してやる」
「ぐおっ」
「さぁ、兄さん、言うのです。誰に虐められているのです? 言わなければ、このおウンコちゃんがべったりついた靴底を使って芸術的な才能を開花させますよ」
「ま、待て、ルビがおかしい」
「さぁ、言って下さい。誰が兄さんを虐めているの?」
「言うから靴を近づけるな」
「誰なのです!?」
「お前だよ!」
「えい!」
妹が靴を遠くに投げ捨てる。
「良いお天気ですね、兄さん」
「おウンコちゃんが泥濘んでいるくらいの中途半端な小雨だけどな」
「頑張ってね、ゲンさん」
そう言って、妹は僕を残して軽やかに走り去った。
バランスが悪いから、もう片方の靴も投げるか。
「タカシ君の靴、履き心地が良かったのにな」
「タカシです」
「うわっ」
突然、背後から声を掛けられてびっくり。
なんだ、君がタカシ君か。随分、顔色が悪いぞ。お地蔵さんもびっくりの土気色。
「帰ろうと思ったら靴が消えていたので、とうとうイジメが始まったかと思って、覚悟していたとは言え、ついに来たかと思うと胃が痛くて吐きそうになっていたら、あなたの妹さんに、『兄さんが持っていったわ。兄さんは善悪を超越したミジンコみたいな存在だから、それが悪いことだと解っていないの。許してくれないと殺すから』といって、ここまで引っ張ってこられたんです」
「生きていてよかったな」
タカシ君の足は真っ黒に汚れている。
「ところで、君はなんで裸足なの? 天気悪いよ」
「靴がなかったので」
「そうか」
変な奴だ。
靴が無ければ靴を履けばいいのに。
「そして、これは泥では無く、ウンコです」
「お前もか!」
「仲間ですね」
グフグフと、タカシ君が変な声で笑う。
気持ち悪いやつだ。
「可哀想だからこの靴をあげるよ」
「いえ、僕は妹さんが投げた片方を使いますから大丈夫です」
「そうか」
「裏も中も、まみれていますけどね」
そう言って、また変な声で笑う。
「ところで下駄箱はなぜ無かったのでしょうか?」
「その秘密を知ったら死ぬぞ」
「そうですか。まさか秘密SAGI団の姫が追い詰められ、地球破壊爆弾を使って下駄箱を塵に変えたのではないですよね」
なぜそれを。
「なぜ? そんなことはもう解っているでしょう。ミスターX」
「くそっ、ついに追っ手か」
「逃がしませんよ……」
「馬鹿め。その足で追いつけるのか」
「ま、まさか」
そう。
お前の足は中も外もまみれている。
「これでは足裏で滑った上で、靴中でも滑ってしまう。まさに二重滑りの罠」
「お前は最初から僕の術中にはまっていたのだよ」
「これが勇者の参謀と言われた智力か……」
「また会おう、タカシ君。いや、怪人T」
「くそぉ、このままではすまさんぞ」
弱い奴こそよく吠えるものだ。
「兄さん、帰るわよ」
「うん」
妹が新品の靴を手に戻ってきた。
「靴下も脱いで。タオルも濡らしてきたから拭いてあげる。そのまま帰っては駄目よ」
「ゲンさんじゃないからな」
「なんなの、それ」
妹が僕の言葉に笑う。
怪人Tはいつの間にか消えていた。
また会おう、タカシ君。