銃声は最初の挨拶
生命の危機はいつだって唐突に訪れる。
篠ノ井は最初、これはなにかのショーだと思っていた。中学二年の夏休み。知人に紹介された水族館での住み込みのバイトは待遇も良く、難しい作業も必要としない。肉体労働であることが引っかかってはいたが、選択そのものは正解のはずだった。
館内でも一番の大きさを誇る水槽が破損し、場内が水浸しになるまでは。
涼と癒しを求めてやって来た客たちは我先に逃げ出し、あたりはパニック状態となった。大人が子どもを押しのけて、出口を目指す。カップルは相方がこけても見向きもせず、己の命を優先。飼育員は予期せぬ事態に対応できずにいる。
水槽で遊泳していた生物はそこら中に溢れ出し、呼吸のできない苦しみに悶え苦しんでいた。
そんな中、篠ノ井は茫然と立ち尽くす。
パニックによっての一時的な困惑ではない。
目の前で人を『丸飲み』した、人間サイズの異形の犯行を目撃してしまったからだ。
「…………うそ、だろ」
怪物は大の大人を丸のみできるだけの巨躯に加え、ぬめりとした表皮、ぎょろりとした眼球、ヒレのついた手足をもっていた。
その姿は、巨大化したカエル。
異形は自分の胃の中に人間一人を収めても物足りないのか、辺りをきょろきょろと観察する。あらたな餌を探しているのだ。
「あっ、ああ……ああぁぁ……」
篠ノ井は自分の口に手を当て、悲鳴を必死で押し殺した。
一歩、また一歩、ゆっくりと後退する。
眼前で餌を探す異形に悟られないよう、慎重に。
「ギィ……ギ、ギギギ」
しかしその努力も虚しく、カエルの異形は篠ノ井の姿を僅かの時間で認識した。
篠ノ井の後ろで、大型の魚が跳ねた。その音に反応したのだ。
「……っ!? う、うわぁあああぁぁ!!!!」
目と目が合った瞬間、篠ノ井は一目散に駆け出した。
無論、化物とは逆方向に。
結果としてその判断は正しかった。
異形は棘のついた舌を伸ばし、篠ノ井を捕えようとしたからだ。
「クソっ、クソっ……!!」
水浸しとなった館内は足場が悪く、走るのには向かない状態となっている。それでも篠ノ井は走った。命の危機を脱するため。経験したことのない恐怖から逃れるために。
スニーカーが水を吸い込み、足元がおぼつく。
鉄の重りをぶら下げているような感覚で、ただひたすらに非常口を目指す。
バイトの講習を受けるとき、最初に教わったのが非常時の脱出経路だったので行く先に迷うことはない。だが、背後には自分を捕食しようとする化物。歯を噛み締め、息を絶え絶えになりながら非常灯のある場所まで辿り着く。
だが、そこで予期せぬ事態が起こった。
非常ドアが開かない。
水圧の関係か、はたまた崩れた水槽の破片が溜まって邪魔をしてかはわからない。だが、どれだけ渾身の力を込めてノブを回そうとも扉はびくともしなかった。
「開け開け開け……頼む、開いてくれっ!」
背後でぴちゃりという水音がする。
やつが近くまできているのだ。
篠ノ井はノブを回しながら、体を捻って背後を確認する。
もはや目と鼻の先に、やつはいた。
距離にしておよそ三メートル。
舌を伸ばせば余裕で捉えられる距離まで詰められていた。間合いに入られた今、篠ノ井には非常ドアを開けるしか選択肢はない。
舌なめずりする、異形の怪物。
爬虫類らしい首の傾けはまるでカマキリのよう。
篠ノ井は数秒後にやって来る死を想像して、全身を硬直させた。
もはや、逃げ場はない。
覚悟を決め、未知の痛みに抗おうと瞳を閉じた瞬間────
「利己主義の混沌に、手向けの花を」
どこからともなく聞こえた声とともに、館内に響き渡る一発の銃声。
弾丸は異形の体の中心を打ち抜き、そこから黒い血が飛び散った。
「ギィ…ギィグギィギギギギギィ!!!!!」
痛みに悶え苦しむ異形の背後から、歩み寄ってくる一人の影。
「こちら、ひそか。ターゲットを捕捉。対象を個体名『グルヌイラ』と識別。排除開始します」
黒いジャケットとパンツを着こなしたスーツ姿の少女は、構えていた小型のリボルバーの引金に指を添える。銃身にバラの装飾が施された銃。
拳銃の名は、ブラックバカラ。
花言葉は『憎しみ』
暴れ回るグルヌイラをよそに、ひそかは淡々と距離を縮めていく。そのことを理解したグルヌイラもひそかを敵と認識。篠ノ井に向けていた舌をひそかに向かって高速で伸ばし、攻撃に移る。
常人なら躱すことさえ困難な、並々ならぬ速度。
それをひそかは最小限の動きだけで回避した。角度を変え、緩急をもたし、死角からの攻撃に転じても状況は変わらない。僅かに身体を逸らすだけ全ての攻撃を避け切ると、ひそかは片手で銃を構え引金を引いた。
空を裂く音が場を支配する。
ひそかが放った二発目の銃弾は、グルヌイラから自慢の舌を奪い去った。
舌根を貫いた銃弾は角度を変え、怪物の頭を貫き、彼方へと消えた。
ひそかの魔法は敵の体を蝕む速攻性のある呪い。その呪いは一撃必中、狙った対象が弾丸を避けようとも、術者であるひそかが標的を変えるまで永遠に目標を追い続ける魔弾なのだ。
「ギィグギギギイ……ギギ……ギ」
痛みに耐えかねて暴れ回っていたグルヌイラも段々と力を失い、仰向けで痙攣を始めた。陸に上げられ干からびていく魚の如く、水族館を混沌に陥れた魔獣はそれを上回る狩人によって滅されようとしていた。
「カエルは嫌いじゃないけど、あなたはダメだね。だって趣味じゃないもん」
そう告げて、ひそかはグルヌイラの心臓に向かって銃口を向ける。
漆黒の瞳には迷いの意思など微塵もない。猶予を与えることなく、彼女は躊躇なく引金を引いた。
三発目の銃声。
人間を上回る巨躯を持つ怪物は、齢十四歳ほどの中学女子にあっけなく殲滅された。
「……お前、一体なんなんだ」
篠ノ井はその場に尻をついて倒れ込んだ。
先ほどまで冷徹なまでの無表情で対峙していた少女は彼の問いかけに対して、柔和な笑顔で答える。
「もう大丈夫。悪いヤツは私がやっつけちゃったから」
「いや、そうじゃなくって」
「んー? ああ、私? うーんと……ここでちゃんと答えてあげるのはありなのかなぁ。ねー、ソーマちゃん。グルヌイラ、殲滅完了したよ。それでね、男の子が一人倒れ込んでてさあ……うん、私たちと同い歳くらいの子。事情を説明してあげたいんだけど、ありだと思う? 私はありじゃないかなーって思うんだけど……えーーいーじゃん、ちょっとくらい」
「おい、一体なんの話をしてるんだ!」
耳につけた送話機で何者かと吞気に会話していても、篠ノ井は全く安心できなかった。何故なら、目の前にいる少女は人を丸のみにした化物を容易く処理して、なおかつ銃を所持していたからだ。
「こんな子に記憶処理なんかしたら一週間ぐらいは飛んじゃうよ。それはかわいそうだよ」
「待ってくれ、話がさっぱり飲み込めない。わかるように説明してくれ」
うろたえる篠ノ井を見かねて、ひそかは通話を中断。銃を腰のホルスターに差し込むと篠ノ井に近づいて行く。すると先ほどまでのスーツ姿から、段々と別の服装に切り替わっていく。まるで魔法が解けるかのように、見覚えのある制服姿に衣装変えをしたひそか。
「その制服……お前、栄校の生徒なのか」
問いかけに対し、腕を組んでうんうんと唸り出すひそか。
「その通り! って言いたいとこなんだけど、微妙に違うっていうか……でも、近いうちに会えるようになるからそのときに話そっ。ねっ」
「意味がわからん……近いうちって、今話したらいけない理由でもあるのかよ」
語気を強める篠ノ井に対し、自分のペースを崩そうとしないひそかは後ろ手を組み、前屈みの姿勢で彼に近づいた。
「うん。私、魔法少女だから」
理解ができないことを口走るひそかに、篠ノ井は疑いの眼差しを向ける。
輪郭を隠すような真ん中分けのショートカットの黒髪と黒い真珠のような瞳が印象的な彼女に、篠ノ井は思わず見惚れてしまった。
だからひそかが篠ノ井の顔に手をかざしても、抵抗はなかった。
そのまま、彼の意識はゆっくりと消失していく。
いくつもの疑問と、謎を胸に抱いたまま。