自分だけが知っている
2017/06/04改稿終了
木刀を握る手が震えた。
目の前にいる存在を知っている。
老婆が寝物語に語ってくれた、恐るべき者だ。
時に人を襲い、時に贄を求め、時に享楽に溺れる。
人の敵として現れ、戦ってきた。
そしてなにより、母を————。
京士郎は邪念を払う。目の前の鬼から、目を離してはならないと自分に言い聞かせた。
鬼とは力強き者のことだ。
木々を倒してここまでやってきたのか、と京士郎は思った。さきほどの木の倒れる音も、こいつがやったのだろうと。こうして実際に見るまで、その力がどれほどのものかわからないでいた。
侮れる相手ではない。
「お前、この地に何のようだ」
「問うのはこちらよ。小娘を知らぬか。鞘布を巻いた刀を持った娘だ。素直に言うのなら、命だけは助けてやる」
京士郎は反射的に、廃寺を背にして庇う。
にい、と鬼は笑った。
「なるほど、そこにいるか。今度は逃がさぬ」
「気が早いな。あの女を手に入れるならば、俺を倒してからにしてもらおうか」
尤も、そのときは来ないだろうがな。
木刀を両手で握った。
鬼は京士郎の頭上から見下ろす。
その瞳は羽虫を見るかのようであったが、瞬きを繰り返すうちに変わっていく。
「奇妙だな。いいや、道理とも言うか。あの女の気配が消えたと思えば、やけに大きな気配がした。その正体はお前か」
「何を言ってるかさっぱりわからん。一人で納得をするな」
吐き捨てるように言って、京士郎は木刀を振るった。
飛びかかり、横に振るわれた木刀はまっすぐ鬼の側頭部へと吸い込まれた。
淀みのない動き。腕を使い、脚を使い、腰を使った、渾身の一撃だ。
倒すことができなくとも、昏倒させることくらいならできる。
もらった。確信とともに振り抜いた。
ばきり、と音が鳴った。
京士郎はその瞬間に後ろに飛び退く。
左の拳が鼻のすぐ近くを掠めた。続いて右腕が迫る。それをしゃがんで避ける。息を吐く間もなく上から拳が振り下ろされた。
体を無理やり転がして避ける。
顔を上げた。地面が抉られているのを見て、冷や汗が流れる。
「あっぶねえな……」
あんなものを正面から受け止めてしまえば、ひとたまりもない。
やつは京士郎の動きが止まるのを見計らっていた。獣と同じように、相手を仕留める道理を理解している。
視線を自分の手に移した。握っていた木刀は半分に折れている。元からぼろぼろであったが、樫から作られているからそこまで柔ではなかったはずだ。
鬼の皮膚か骨かわからないが、硬い感触があったと思えばこれだ。
生半な武具では傷もつけることはできないだろう。
木刀を投げ捨てる。徒手の構えをとった。
鬼は笑った。無力な者が、と。
それが京士郎の癪に障る。稽古のとき、天狗はどれだけ京士郎が未熟であろうと笑わなかった。
だが、鬼は弱者を笑う。
それが許せなかった。
何よりも自分が弱いと言われているようで、嫌だった。
「諦めろ。お前ではこの身に傷をつけることはできない」
「ほざけ。黙ってねえと」
京士郎は次いで、鬼の懐に飛び込んだ。
鬼よりも自分の方が早い。利を得た京士郎はそのまま鬼の顎に膝を入れた。
木刀でさえ折ってしまう鬼の硬度に対し、京士郎の脚は耐えてみせた。
思わぬ攻撃に、目を見開いて仰け反る鬼。今度はその額を蹴飛ばして、京士郎は跳んだ。
「舌を、噛むぜ!」
倒れ行く鬼の額にめがけて、京士郎は踵を落とした。
遥かな高さから下された一撃に、鬼も思わず呻いた。
どしん、と倒れる鬼と着地する京士郎。倒れた鬼を見て、京士郎は分析する。
(皮膚は硬いが、それは俺も同じだ。つまり打撃は有効。そして俺の方が速いし、早い。これは奴を上回る武器だ)
だが、と頭を振る。
得手ばかりではない。
(このまま得物もなしに戦うのは得策じゃない。そうなれば鬼が有利に違いない。やつらは普通じゃない、底なしだ)
武器がいる。こいつを倒すための武器が。
ひとつだけ、京士郎の脳裏に浮かんだ。
少しだけ躊躇われたが、いまは形振り構っていられない。
京士郎は走り出す。滑り込んで、立ち上がろうとした鬼の足を蹴飛ばした。再び鬼は倒れる。
鬼が倒れているうちに、回収しなければ。
顔を目掛けて石が飛んでくる。鬼が投げたものだろう。左腕でとっさに庇う。微かな痛みを感じたものの、支障はないと無視した。
廃寺へと再び入った。あれだけ外で騒いでいるのに、少女はまだ起きる気配もなかった。
少女の持つ鞘袋を見る。これがあの鬼の求めていた刀だろう。
京士郎はその袋を取り、中から刀を取り出した。
黒い鞘に納められている。文様の描かれた札によって封がされている。
構うものか、と柄を握って、そして。
途端、廃寺の屋根が壊れた。木が降ってきた。
それが鬼の攻め手なのだと気づく。京士郎は刀を引き抜いた。
ひらめく刃と京士郎たちを土煙が覆う。
ばらばらと、武器に使われた木と屋根の木材が切り落とされる。
目にも留まらぬ早業で、京士郎が刀を振るったのだった。
天狗から習った術の一つ。
刀の最も早い動き、座った状態から刀を引き抜き相手を斬る業。
居合、と言った。
少女を振ってくる材木と埃から庇いつつ、片手で振るった。
刀の刃は、鬼の首にまで届いている。硬い皮膚に遮られたものの、その刃は深く入っていた。
「なんという速さ……人の業では……」
「うるせえんだよ、やることも言うことも」
京士郎は力を込めて刀を振り抜いた。
鬼は断末魔をあげる。
「この子と母さんが、寝てるだろうが。静かにしろ」
鬼の首が落ちる。その体もゆっくりと倒れていった。
大きな音と埃を巻き上げて鬼は伏した。
京士郎はその姿を見つめた。
やがて鬼の姿は、紫色の火の粉のようになって、空へと消えていった。
見届けて、京士郎はやっと一息ついた。自分の胸にあった息苦しさもなくなっていることに気づく。
ふう、と息を吐いて、また吸う。獣たちと命のやり取りを重ねたことはあるが、あのように殺意を向けられたことはなかった。
全身が未だにぴりぴりとしている。
腕の中にいる少女を見た。あれだけの騒ぎがあったというのに、まだ目を覚まさない。
「いやいや、さすがにおかしい」
京士郎はそう言って、少女の胸に耳を当てた。心臓の音が響いているが、少し早いか。
吐息も激しくなっている。その額に手を当てた。
「ひどい熱だ……」
はっとして、京士郎は少女を離す。その症状には覚えがあった。
少女の服を捲り、腕と脚を見る。探していたものは脚にあった。
真っ白な肌に切り傷がついている。血は止まっているが、深く傷つけたことがわかった。
覚えがあった。京士郎もかつて、傷ができてから発熱をしたことがある。この少女もまったく同じ症状であった。
体が熱を持つのは、体内に巣食う魔を浄化しているからと言うが、放っておけば死ぬ。
そうして死にいった者は何人もいるのは事実だった。
京士郎は立ち上がって、少女を見て少し迷った。
この少女を助けるべきか、否か。
さっきの鬼は、理由はわからないが少女を狙っていた。
ここで助けてしまえば、また何か悪いことが起こるのではないか。またあの鬼がやってこないとは限らない。里の者を、養父と養母を傷つけてしまうのではないか。
そして、この少女もまた……。
嫌な記憶が脳裏を掠めた。
いままで、自分の好意がいい方へ向いたことがなかった。
だからいまもこうして、躊躇ってしまう。
京士郎は頭を振った。
そんなことを考えたところで、仕方のないことだ。
京士郎は少女に恩がある。鬼を退けた刀は少女のものだ。勝手に借りて、勝手に戦った。それは返さなければならない。
でなければ、自分は人でなしになってしまう。
それだけは嫌だった。
たとえ誰かに嫌われたとしても。
いまできることをしなければ。
思い立てば早かった。
廃寺を飛び出して、草をかきわける。解熱の作用を持つ草を見極めて集めていた。
薬草に関する知識は、名はわからずとも天狗から習っている。葉を見て、手頃なものを探した。解熱に使えるもののうち、いくつかをむしる。
そして廃寺に戻り、少女の様子をうかがう。
少しだけまぶたが開いていた。意識は朦朧としているようで、視点が定まらない。
「おい、大丈夫か。声がわかるか」
呼びかけるも、彼女は上手く声を出せないようではっきりした答えは返ってこない。
だが、それでいい。聞こえているということは確認できた。
薬草の中から一枚、少女の前に差し出す。
「食え。熱が冷めていくらか楽になる」
そう言って、京士郎は葉を少女の口元に寄せた。
少女はしばらく逡巡して、葉を咥える。
力が入らないのだろう。噛もうにも上手くできていない。
噛むのにも疲れてしまうのか、少女はそれっきりやめてしまった。
京士郎は、やむを得ないか、と言って自分が草を口に含んで草を噛む。苦い味が広がった。
少女の顎を掴んで、上を向かせる。
いつか祖母にしてもらった、食事が喉を通らないほどに衰弱してしまったときにされたやり方だった。
「……嫌かもしれないが、我慢してくれよ」
そう言うや否や、自分も決心したように息を吸って吐く。
そして、少女の小さな唇に自分の唇を重ねた。
驚いたのか、少女は拒絶するように跳ねたが、熱にうなされている彼女は力を込めることができず、京士郎をはねのけることができない。
吐息が漏れた。それが色っぽく感じられて、京士郎は恥ずかしくなったが、それでもやめなかった。
噛み砕いた薬草を少女の口に流し込む。
しばらくして、離れる。少女の喉が動いて、嚥下したのを確認した。
次いで、京士郎は竹筒を取り出して水を飲んだ。
再び少女と唇を重ね、今度は水を流し込む。
少女は目を強くつむっている……のだろう。京士郎はじっとそれを見つめていた。
二人の吐息は荒くなった。恥ずかしくてたまらないでいる。
水を飲み込ませて、京士郎は離れる。口をぬぐった腕を、どうしてか見つめてしまった。
今度は、京士郎は少女の足にある傷に水をかける。
こうすることで、傷が汚れるのを防ぐのだ。とは、これもまた天狗に習ったことである。
ともあれ、これでいくらかましになるだろうか。
だが、それでもこれはまだ応急的な処置だ。その場しのぎにもならない。
少女を抱える。力が抜けているからか重く感じられたが、京士郎は軽々と持ち上げた。
目指すは鈴鹿村のはずれにある養父母の家である。
厄介ごとの種を、と思われるのではないか。そう思ったが、自分を受け入れてくれている二人がこれくらいのことで動じるとは考えられなかった。
まるで羽が生えているかのような身軽さで、京士郎は少女を抱えながらも山を駆け下りた。
そして駆け込むようにして、自分の家へと入る。
「婆! 大変だ、この子を看てくれ」
「なんだい、珍しいこともあるものねえ。それで、その子は誰だい?」
京士郎が婆と呼んだ養母は、珍しく焦っている京士郎と、その腕に抱かれた少女を見て言った。
そっと、少女を寝転がした。養母はその子の顔を見て、言う。
「えらい綺麗な子ね。上品そうな顔をしてる。京士郎、どこから連れてきたの」
「まるで俺が攫ったみたいに言うな。母さんの墓のところで寝てたんだ。熱があってうなされている」
養母は少女の額に手を当てると、まあまあ、と少しだけ慌てたようにいった。
「しばらく寝かせないとね。あんな廃寺では寒いでしょうに。よく連れて帰ってきてくれたね、京士郎」
そう言うと、養母は少女の衣服に手をかけた。その様子をまじまじと京士郎が見ていると、今度は睨みつけてくる。
それが何を意味するのかわからない京士郎は首を傾げた。
「とりあえず今は、出て行きなさい」
「どうかしたのか。俺もできることなら手伝うが」
「あなたがいまできるのは、ここから出て行くこと。言わなければわからないかい。これからこの子を脱がして、汗を拭くって言ってるんだ。この子に恥をかけるのかい?」
養母の言葉で、京士郎は思わず顔を赤くした。