京士郎という者
2017/06/04改稿
かんかん、と軽い音がした。
季節は春であった。山々に桜が咲いていて、一面が花の色に染まっている。
誰もがその光景にため息をつくが、その中で二人、風流を知ってか知らずか、光景に似合わない者がいた。
片や、体力はありそうだが肩で息をしている少年である。
もう一方は、余裕を持ち、少年を見下ろすような姿勢であった。
「まだ教えてくれないのか」
燃えるような赤い瞳をしている少年、京士郎はそう問いかけた。
視線の先にいたのは山伏の服装をしているが、顔は赤らんでいて、鼻はとても長い。背中には烏のものによく似た翼を生やしている。
天狗、と人は呼んでいるし、京士郎もそう呼んでいた。
「お前には何も教えん。剣なんてものを見せてしまったのも失敗だった」
木に背中を預けている天狗はそう言っていた。
京士郎と天狗も、それぞれ手に木刀を持っていた。
傷がたくさんついており、これまでに何度も折れてこれで何本目かもわからないほど訓練を重ねていたが、それでも天狗は「よくなかった」と言った。
いまだ天狗には届かないものの、それなりのものではあるという自負はあった。
尤も、剣を振るう相手はいないが。
京士郎は、むっとして問い返す。
「どういうことだ」
「お前は目が良すぎる。ものを見ればだいたいのことがわかってしまうし、自分のできることかどうかだって理解してしまう」
「それの何が悪いんだ」
「どう使うのか、どうして使うのかがわからないまま、使えるようになるっていうのは恐ろしいことだ」
それさえもわかってないお前に、教えるものはない。
天狗はそう言うが、京士郎としては不満がたらたらだ。天狗が何を言っているのかさっぱりわからない。
京士郎が教えてほしいのは戦う術であったし、天狗はその術をたくさん持っている。
剣についてはいくらか教えてくれたが、肝心の彼が持っている異能の術については何も教えてくれなかった。
だが、京士郎は理解している。天狗がこう言って何も教えてくれないということは、そのやり方さえわかれば京士郎にだってできるということを。
「なんだ、つまらん。やってられるか」
「そう言うな。笛や舞ならいくらでも教えてやろう。お前はいい顔をしているから、所作を覚えればすぐにあちこちで噂されるような男になる。金を手に入れた男が自分の娘を公家に出そうにも、所作を覚えず結婚せず終い、なんて話もあるからな。何かあったときのために、学んでおくのもよかろう」
「金で人を結ぼうとする方がおかしい話だ。どうせ、さらなる金に目のくらんだ阿呆がいたという話だろう。よくある話だ。そして聞くに堪えない」
京士郎はそう言った。ぐうの音も出ない正論に、天狗は押し黙ってしまう。
この天狗はいつもこうだった。京士郎に徳を教えようと、あれこれと昔の話を引っ張ってきては説いていた。
国の成り立ちだとか、草花のことだとか、天狗はたくさん話していた。はじめのうちは真面目に聞いていた京士郎であったが、戦う術について一切を教えないという彼の態度がやがて不真面目にさせていた。
おしゃべりなくせに、肝心なことは教えてくれない。
それが京士郎にとっての天狗だった。
手に持っている木刀を握りしめる。
この木刀が仮に真剣だったとしても天狗には届かないだろう。
異能の力を引き出させるまでもなく、地に伏すのは自分だというのが見えていた。
「やめだやめだ、今日はやめにする。これ以上教えてくれないなら、やる意味なんてあるものか」
「お前がそう言うなら」
京士郎が木刀を納めると、天狗もそれに従った。
そして京士郎は、天狗の横を通っていく。
「なんだ、今日も行くのか。母の墓参りに」
「ああ」
「よくわからんなあ、人というのは。そうして根付いたものを大切にしながら、遠くへと行きたがる」
京士郎は天狗を睨みつける。肩を竦めてみせる天狗であったが、それは格好だけだった。
「ときに京士郎、お前、色恋には興味がないのか」
天狗がそう言った。
立ち止まって、京士郎は首だけを向ける。
「別に、興味ない」
「そいつは損しとるぞ。この国が生まれた話はしたな? 伊邪那岐と伊邪那美がくっついて生まれたんだ。つまり色恋というのはすべての始まりであるし、真理なんだ。それを捨てるってことはこの世を捨てるも同然ってことだ。坊主どもを見てみろ。毎日念仏を唱えて、飯も質素で、色恋もなし。そりゃあ世から離れられるってもんだ」
天狗はそうまくし立てた。京士郎の周りをうろうろとする。
じろり、と睨むも、彼は動じなかった。
それどころか、何が面白いのか微笑んでいる。
「まあ、お前くらいの歳頃は嫌でもわかるだろうよ、色恋ってものをな」
「わかったような口を利くな。お前、人でもないのに人を語るのか」
「儂ほど人を見てきた者もおらんと思うがのう?」
なあ、京士郎。天狗はそう言った。
ため息をついて、京士郎は問い返す。
「そういうお前はしたことがあるのか。色恋を」
「さあて、母親の墓参りだろう? 早く行ってくることだな。さもなければ、日が暮れてしまうぞ」
「ごまかしたな!?」
京士郎は振り返ってそう言う。
しかし、強い風が吹いた。桜が舞って、京士郎は目を腕で庇う。
「いいか京士郎、一つだけ教えてやる。この世に真実はあるが、真に受けてはいかんぞ」
「くそっ、待ちやがれ! 聞きたいことはまだあるんだぞ!」
風が止んだあとに、天狗の姿はもうすでになかった。
やられた、と思うがもはや後を追うことはできない。
ため息をつく。いつもこうして逃げるのだから、卑怯なものだ。
「…………」
気を取り直す。天狗のことを考えても仕方ない。彼は考えるだけ無駄な者だ。
いまはそれよりも、彼が言った通り母の墓参りである。
それは京士郎の日課であった。たとえ荒れ狂う暴風の日であっても、京士郎は欠かしたことがなかった。
京士郎の母は死んだ。自分を産んだときに体力を使い果たして、亡くなったのだと言う。川の上流から身ごもったまま小舟で流されてきた、京風の女だったという。その後、母は山中にある廃寺に埋められたのだと聞いていた。
母の最期の言葉から名付けられた自分の名前から、彼女の未練を感じていた。きっと彼女は故郷である京へ帰りたかったに違いないと。
そのための力が欲しかった。
誰にも負けない力があれば、この天下のどこへでも行けるだろうと。
せめて自分は京へと行き、母の見たかったものを見たい。などと思っていた。
そのために天狗の手助けがあれば、どれほど楽なものか。
ともあれ、いまは母の墓参りである。日が暮れてしまう前に済ましておかなければならない。
「……様子が変だな。こんなに騒がしかったか?」
京士郎の鋭敏な感覚が、森の異変を感じていた。草木が、風が教えてくれていた。気のせいなどではない。
自分の直感には、絶対的な自信があった。
その正体はわからないものの、漠然とした不安が胸にあった。
すると、野狐が京士郎の前に現れた。京士郎を見ると、首を傾げた。まるでこちらへ来い、と言っているようだった。
京士郎は子狐の後を追った。すばしっこいものであったが、山を熟知している
行く先は京士郎の母が眠る廃寺であったが、それは偶然ではないだろうと思った。
廃寺の中からは、狸が現れる。屋根には鴉がとまっている。
中を覗けばそれだけではない、犬や猿といった獣までが混在している。
彼らは山の中に暮らす者たちであるが、決して共にいる者ではない。中には縄張りや日々の餌を争って、敵対する者もいるだろう。
京士郎が廃寺に踏み込むと、獣たちは一斉に散っていった。どたばたと騒がしかったが、いなくなってしまえば静かになった。
その中にいたのは見たことのない少女であった。棒のようなものを入れているだろう袋を抱えていて、眠っている。
京士郎はしゃがみ込んで、彼女を見る。上等な服から、いい家の者、それもここらの者ではないというのがわかった。
年の頃は自分を同じだろうか。異性の歳というのは、見た目もあてにはならない。
目を閉じて寝ているが、決して安らかというわけではなさそうだ。顔を苦悶に歪めている。
あの獣たちは、この少女を守ろうとしていたのか。
それほどまでに獣に好かれる者というのも珍しい。それも、山にはあまり詳しくなさそうな者がである。
「おい、お前は誰だ。どこから来た」
そう声をかけるも、返答はない。肩をつかんでみる。とても華奢な腕付きであった。
顔を覗き込む。目鼻立ちがはっきりと見て取れた。
匂いもよかった。獣たちはこの香りにつられていたのではないか、とも思う。
ただの少女ではない。それを肌で感じ取った。
天から降ってきたのではないか、と思って見上げるも、屋根には穴など空いていない。
歩いてきたのか、などと当たり前のことを考えた。
再び、少女を見る。
この少女の消えそうな雰囲気が、京士郎の胸を締め付ける。
「……綺麗だな」
そう、京士郎はこの少女に美を感じた。
いままでにない気持ちだった。
この思いは四季の折々に咲く花に感じるものなのか、あるいは静謐に佇む獣に感じるものなのか。
京士郎にはさっぱり、区別がつかなかった。
ふと、触れてみたくなった。好奇心があった。
恐る恐る、手を伸ばす。指先だけでいい。少しだけでいい。
少女の柔らかそうな頬に指先が触れようとしたときだった。
「うっ……うん……」
「っ!?」
彼女の唸り。口がわずかに動くも、目は覚まさなかった。
どうしてか、そのことに安心してしまった。そのことに気づいてしまった。
これではまるで、自分が悪いことをしているかのようではないか。
京士郎は少女から離れた。名残惜しさもあるが、いつ目を覚ますともわからない。
しかし、心の中には晴れない疑念がまだあった。
(この子が森の騒がしさの正体なのか?)
確かに、いつも森に踏み入れている者ではない。いや、この少女は見たところ、森に入るのも慣れていなさそうだった。そんな者がやってくれば、確かに獣たちはざわつくだろう。
だが、この少女からは森への悪意が感じられなかった。もしそんな者であれば、獣たちも好かないはずだ。
ここで寝ているうちに食われてしまうのが関の山だ。
京士郎は、この森を騒がせている正体が別にいると思った。
この山の異変は、この少女のものではない。もっと大きくて、とても嫌なものだ。
「こういうときこそお前の出番だろ、天狗め。大事なときにいねえんだ」
無情な師に、京士郎はそう言った。
呼びかけたところで、素直に出てくるようなやつじゃない。ため息をついた。
京士郎に再び、直感があった。
何かがいる。それはとても嫌な何かだ。
大きな音が響いた。木が倒れる音だった。
雷にでも打たれなければ、木が倒れるということはそうそうないだろう。
伐採をするにしても時が遅い。もうしばらくすれば直に日が暮れる。
里の者ではない誰かが他に山の中にいる。
それも、木を倒せる誰か。何か刃を持っているか、あるいは……。
少女をちらと見る。彼女はまだ眠っている。この様子ではしばらく起きなさそうだ。ここに置いていってもどこかへ行ったりはしないだろう。
京士郎は木刀を握って、廃寺を飛び出した。
辺りを見渡した。気配は濃くなってきている。
まるで、周りを囲まれているようだった。見えないはずの何かに、追い詰められているような気がする。
「獣の気配とも違う。何者だ、出てこい!」
京士郎はそう叫んだ。声は遠くまで響く。
葉が風に揺れた。その方へ木刀を向ける。油断なく、天狗に習った教えに従ってゆっくりと。
そして、空から影が降ってくる。どしんと響いて、大地が揺れる感覚がした。
立ち上がる影に、京士郎は隠れて陰ってしまう。
京士郎は里でも背が高く、大人でさえ彼には及ばないほどだった。
しかし、目の前にいる影はその京四郎よりもはるかに大きい。
「お前は……!」
京士郎はその影の姿を見て、胸にあった感覚を理解する。
これは怒りだ。
目の前にいる者に対する、本能の叫びだ。
頭から生えた角、筋骨隆々の肉体、歪んだ形相、そして黄金の瞳。
人々はこの強き存在をこう呼んで恐れている。
————鬼、と。