胎動
あの晩から月日が経った。あれから屋敷では大騒ぎになった。
小桃がいなくなったと総出で探し回った。見つからないまま夜が明け、女中の一人が小桃の部屋を改めると、なんと小桃は屋敷に戻って眠っていた。
周りの者は、ひとまず小桃が無事だったことに安堵した。しかしながら、本当の意味で無事かどうか訝しむ者がたくさんいる。小桃もまた物の怪に憑かれているのではないか。もしくはどことも知れない男に、手を出されているのではないか。
それは半分は当たっていて、半分は外れていた。もとより、物の怪に憑かれた話は地元の名主たちがでっち上げたものであったと後からわかった。三輪は確かに物の怪であったが、小桃は取り憑かれてなどおらず、呪いの類もかけられていなかった。
一方で、しばらくすれば、小桃は体調不良を訴えた。その症状から身篭ったことがわかる。
父に言われたことは三つ。
一つ目は屋敷に設けた離れから出ること、そして父が遣わした者以外との接触を禁ずること。
二つ目は子を産むことは許すが、里で親となる者を探し、子には何も知らせないこと。
三つ目はすべてまとまり次第、京にて父の決めた相手と婚姻をすること。
寛大な処置だろう、と小桃は思った。生きているだけでなく、子を産むことも許されるなど。
冬が過ぎ、春になり、夏になった。
大きくなった自分の腹を撫でる。それが唯一の楽しみであった。
ここには三輪との子が宿っている。そう思うだけで、頑張れる気がした。この子が大きくなっていく姿を見ることはできなくとも、この世にいるということだけで堪らなく幸せなのだから。
元気な子を産むためにも、私が元気でいなくては。
小桃はそう言って、弱々しくも微笑んだ。
「姫様、お食事でございます」
女童の一人が、膳を運んできた。すでに時は夕暮れだった。
ありがとう、と言って小桃は受け取る。
きちんと一人前か、それ以上の量を用意してもらえていた。父の配慮か、厨房の者の思いかはわからなかったが、ありがたく頂くこととする。
「お加減はいかがでしょうか?」
「ええ、すこぶる良いです」
「それはよかった。そろそろ、お産の頃とお伺いしてますので」
「楽しみね」
小桃は笑った。女童は、少し驚いてみせる。
「お強いのですね」
「ふふっ、強くなくっちゃ、お母さんになれないわ」
相手が幼い子でもあるからか、小桃はついつい饒舌になってしまう。いい息抜きにもなっている。
食事が落ち着いてきて、女童との話も弾む。その中で、少し聞きたいことが小桃にはあった。
「ねえ、お父様は忙しくされているのかしら。体調を崩されたりは?」
「元気ではありますが、ここのところお忙しいご様子。なにやら、近くに鬼が出たとのことで動いています」
「鬼が?」
小桃は顔を曇らせた。それは一大事である。
もし、人の手でも敵わないような鬼が現れたら……と思わずにはいられない。
自分は真っ先に逃がされるだろう。
だが、父はどうなるのだろう。屋敷の者はどうなるのだろう。里の者はどうなるのだろう。
彼らは最後まで残って戦うかもしれない。少なくとも、自分や誰かを逃すために残るはずだ。
そう思うと、胸が苦しくなってしまう。
「我らもせめて、京に逃げられればよいのですが……」
小桃は自分の腹を触った。
わかっている。自分はきっと、逃げたとしてもそう遠くへ行ける体ではないということを。
三輪に思わず、思いを馳せた。いまごろ彼はどうしているだろうか。
側にいてくれたらいいな、とぼんやりと思っていた。
そんなことを話していると、足音がいくつも響いた。そのうち一つが、この離れに近づいてくるのも感じる。
女童が襖を開けて、外の様子を伺った。
そこへ駆け込んできたのは一人の侍だった。刀と弓矢で武装した彼は、急いでるからか防具をいくつか付け忘れていた。
「なにがあったのですか?」
「鬼が、鬼が現れました! 里が襲われ、火があがっております! 奴らがここに来るのも時間の問題。姫様を逃がすようにとの命を受けております」
さあ、こちらへ。船が用意してあります。
侍がそう言った。女童は小桃の方へと振り向いた。
まさか、こんなに早く鬼がやってくるとは思いもしなかった。
「行きましょう。父にも早く退くようにお伝えください」
そう言って小桃は立ち上がった。
目指すは里の中央を流れる川だった。女童に手を引かれ、離れを出た。
急な坂を下る。ふと人家のある方を見てみれば、木々に遮られた先が明るくなっている。それは日ではなく火の明るさだった。
阿鼻叫喚が聞こえてくる。耳を閉じたくなった。
この状況では前に進むしかなく、小桃はなくなく走って行った。
「ううっ」
「姫様!」
小桃がうずくまる。子を身ごもった状態で無茶をしたせいで、あちこちに痛みが走った。
唸って、腹を抱える。ああ、これは、と思いながら、そこから先を口にできなかった。
(ごめんね、耐えて。私も頑張るから)
そう願う。落ち着いてきたからか、少しずつ痛みが引いて行った。
しかし、そうして立ち止まったのが災いしたのだろうか。
小桃の目の前に、大きな影が近づいてきた。それは木に手をかけて、何かを探しているのか首を動かしている。
体がとても大きい。頭には大きな角があった。奇怪な形相を浮かべていて、見る者はみな震え上がるだろう。
黄金の瞳と目があった。あれはいつかの夜に出会った目とよく似ている。
物の怪……いいや、あれこそが鬼だ。
間違いないだろう、小桃は息を呑んだ。鬼が笑った気がした。
「まずは私がお相手しよう、鬼よ」
声を震わせていたが、侍は鬼へと果敢に向かって行った。弓矢を構える。
対して鬼は、近くに生えている木を一本引き抜いた。そして軽く片手で振るって投げてみせた。
まっすぐに放たれた木は槍となって、矢を番えていた侍へと当たる。思わず、小桃は目を閉じた。彼がどうなったかは見るまでもなかった。
女童の悲鳴が聞こえた。小桃は、恐る恐る目を開ける。
「ひっ……!?」
女童は、鬼の手に掴まれていた。宙づりになって攫われていく。
その光景を小桃は止めることもできず見るしかなかった。
にんまりと笑って、鬼は女童を口に含んだ。少しずつ鬼の口の中へと入っていく女童の姿は悲壮に過ぎて、しかし小桃は見てしまった。
飲み込んだ鬼は満足そうに笑って、次いで小桃を見た。
もはや悲鳴も上げられない。
「誰か、助けて」
そうとしか言えない自分が誰よりも惨めだった。
腕が伸びてくる。こんなものに捕まれてしまえば、息をすることもできないだろう。
いよいよ、自分は死ぬ。親不孝が祟ったか、などと思ってしまう。
(せめて最後に、三輪様にお会いできれば……)
悔いなどなかったのに。そう願うも、もはや遅い。
出会ったところで、何と言えばいいのだろうか。
小桃に影が落ちる。いよいよ、鬼が小桃をつかもうとした。
そのときだった。小桃の前に、もうひとつ大きなものが現れる。
真っ白で、大きくて、美しかった。
その姿にどうしようもなく、見惚れてしまった。
蛇だった。大きな白い蛇だ。その蛇が鋭い牙を鬼の腕に立てている。悲鳴をあげた鬼が、蛇を振り払おうと暴れ回る。
人を遥かに超える者たちの戦いが目前で行われている。それは想像を絶していて、幻想的であった。
腕を自分の手で引きちぎった鬼が、蛇と距離を取った。白い大蛇は腕を離し、鬼を威嚇する。
ちらり、と大蛇が小桃を見た。真っ赤な瞳に見覚えがあった。
思い出すよりも前に、大蛇は首を動かした。「先に行け」と言っているように感じられる。
「もしかして、三輪様……?」
そう問いかけるも、答えはなかった。代わりの彼は、鬼へ飛びかかっていく。
小桃は竦む脚に力を入れて、走り出した。川は目前にあり、小舟も見つかった。
小舟は、どう見ても人を三人も乗せるのが限界だった。初めから自分を逃すことしか考えていなかったのだろうということがわかる。
飛び乗って、船を出した。漕ぎ方などわからないから、流されるままである。
木々の向こうでは、大蛇と鬼の戦いが続いていた。腕を片方失った大きな鬼も未だおり、それどころか大蛇を囲むようにたくさんの鬼が現れていた。
あれではいくら大蛇でも、負けてしまうだろう。
小桃は一人、涙を流す。
(ああ、でも、最後は守ってくださいました。ありがとう……)
愚痴をたくさん言いたかった。願いは、もっと言いたかった。
それらを飲み込んで、最後は感謝を述べるしかなかった。
自分の腹を撫でる。
彼が生きた証は、まだ生きている。
* * *
その日は霧が深かった。
ある老婆は、夜明けを待たずに川へ向かっていた。溜まっていた衣類を洗おうと思い立ってのことであった。
衣類を腕いっぱいの持っていたが、それを思わず落とす事態になった。
川の上流から、船が一艘流れてきた。その上には、女が一人、眠っているのが見える。立派な着物を纏い、いかにも貴族の女だとわかる。
老婆は慌ててその船を引き止めて、どうにか岸へと寄せる。
女の容態は良くなかった。意識は朦朧としていて、熱にうなされている。しきりに口にする「鬼」という言葉から、この女が鬼か物の怪に襲われたと老婆には考えられた。
そして何より、その腹は大きく膨らんでいた。
子どもを孕んでいる。いますぐにも生まれそうなのだ。
そうわかった老婆は、慌てて自分の夫を呼んだ。
二人はどうにか女を家まで運ぶ。
女はうなされながらも、ずっと自分の子を案じていた。とても強い女だった。
それに応えるべく、老婆たちも奮闘する。里の産婆を連れてきて、娘から子を取り上げる。
生まれてきたのは男の子だった。それも、とても勇ましい産声をあげる子であった。
しかし、女は体力の限界だった。川上から一睡もせずに流されてきていたようで、しかもその前に騒動があったのかすでにぼろぼろだった。
無事に出産したことが奇跡だった。
最期に、彼女は生まれた子の手を握って言った。
「きょう……なさ……」
息も絶え絶えで、上手く聞き取れなかった。
そして女は亡くなった。彼女の最期の言葉から、生まれた子には〈京士郎〉という名前がつけられた。
物語が動きだすのは、それから十五年が経った頃だった。