その行方
森を歩むにつれ、闇は深くなっていった。月明かりでさえ、木々を抜けてくることはなかった。
小桃は、自分の足で森など歩いたことはなかった。父や兄の狩りに連れてもらったことはあったが、それも誰かに連れられてのこと。
こうして自分の足で森を歩くことになるなど、思いもしなかった。
子狐が歩いていくのは獣道である。彼らがなんども通ってできた道は、小桃には少し狭かった。
しかし、頼りになるのはそれくらいであって、ここから外れてしまえば二度と戻ることができないだろう。そんな恐怖感とともに、小桃は歩いていた。
草をかきわけるのは、新鮮な感覚であった。いままで自分の力でこのように歩いたことなどなかったのだから。
目的を忘れたわけではなかったが、少しだけ小桃は高揚していた。浮かれていた、と言ってもいい。
ふと、木々が開けた。穴が開いたかのようなそこは、木々がなく、草が生い茂るのみだった。幸いにして、月の光も差している。
「三輪様、どちらにおられるのですか?」
そう声をかけるも返事はなかった。森の中に、小桃の声が溶けていく。
代わりに聞こえてきたのは、木々が揺れ奏でる葉音だった。それが小桃にうすら寒い感覚をさせる。
ここにはいないのか、と思うものの、心のどこかでここにいるはずだと信じている自分がいた。
「三輪様、三輪様!」
何度も呼びかける。しかし、一向に答えは返ってこない。
歩いて進もうにも、もはや自分がどこから来たのかわからなくなってしまった。だから、もはや小桃は三輪を探すほかないのである。
「三輪様、私、このままでは凍えてしまいます。三輪様のせいですからね。霜焼けになったら、いっぱい恨み言を言いますから。それが嫌でしたら、早く私の前に現れてくれませんか」
そう言ったものの、やはり何も返ってこなかった。
やはりここには三輪はいないのだろうか。小桃は諦めそうになって、思わず座り込んだ。土を握りしめる。
ここで会えなければ、もう会うことはないだろう。そんな予感がする。
それは嫌だ。
でも、仕方ないこと。
きっと小桃は連れ戻されて、誰かと無理やりに誰かと結ばされて、邸内に閉じ込められるような生活が待ってるに違いなかった。
それが父の、あの男たちの意思なのだ。そして小桃の宿命である。
そんなことを考えていたが、小桃は視線に気づいた。
顔を上げる。草の間から、誰かがじっとこちらを見つめている。それは夜であっても光を発する金色の双眸だった。
息が止まる思いをした。あれは自分を食おうとしている獣の目だ、無垢な欲に染まった目だ、と思った。
揺れることのない瞳を、小桃もまた見つめ返した。恐ろしいはずなのに、視線を外すことができないでいる。
その瞳は待っているのだ。小桃が弱るのを。力尽きて、倒れるのを。
わかってはいても小桃の体力は限界だった。これ以上、動くこともできない。その目に抗うこともできない。
屈しそうになった、そのときだった。
「その子に手を出すのはやめてほしいな。僕が黙ってないからね」
小桃の肩を誰かが抱いた。
肩にかかる手と、反対側に感じるぬくもり。
びくり、としてぬくもりのある方を振り向いた。
そこにあったのは、一日ぶりでしかないのに懐かしいと感じる顔。夜の闇の中でさえ爽やかで、晴れやかな顔だった。
怒りではない。悲しみでもない。ただただ、凄みを感じる表情だ。赤い瞳は、今度は逆に黄金の瞳を見た。
見えない攻防があるのだろう、と無力な小桃はぼうっと思うことしかできなかった。
しばらく経って、黄金の瞳は木々の奥へと消える。名残惜しそうに、ゆっくりと。
途端に緊張が弛緩した。視界が不意に明るくなったような気がした。
小桃は今度こそ、力が抜けた。それをぬくもりが支えてくれる。
「……三輪様」
「まったく、こんなところまで追いかけてくるなんて、とんだお姫様だね」
呆れたように三輪が言った。その笑顔は小桃が知っているものだった。
思わず、三輪の胸を叩いた。痛いな、と彼は言う。知りません、と小桃は言った。
「勝手にいなくなった貴方が悪いのです」
「ごめん。でも、あんなに警戒されてしまったら、近づくに近づけないよ」
あんな念仏、僕にとってはわけないんだけどね。
三輪はそう言った。それがただ張り合っているだけなのか、本当のことなのかわからない。
それでも、小桃は、一言くらいあってもいいのにと思った。
「……そろそろ、去る頃だと思ってたんだ」
三輪が言った。小桃は瞬きを繰り返す。
「どういうことですか?」
「そろそろ気づいてると思うけど、僕は君らの言う物の怪ってやつなんだ。うん、そりゃあ、君の知る由もない遠くのことも昔のことも知ってる。この世で何が起こってるかも、鬼とはいったいなんなのかも」
ふふっ、と色っぽく、そして自嘲するように笑う。小桃の嫌いな笑いだった
小桃の髪を撫でて、三輪はさらに言う。
「僕はこの森に住まうもの。人とは違うもので、古きものだ。鬼に近く、遠いもの。君らの言葉でなら〈かみ〉……だなんて言うと誤解しそうだね。でも、そういうものだ」
それはきっと、「神」であり、「守」なのだろうと小桃は言った。
当たらずと雖も遠からずというところだね、と三輪は言った。
もっと古い時代であれば、もしかすると彼のことをもっとわかったかもしれない。彼のことを信じ、触れる者がいたかもしれない。小桃はそう思った。
「尤も、僕はそんなにいいものではない。今はほんの気まぐれで、君と仲良くさせてしまったけれど、それももう、これまでだね」
諦めるように、三輪はそう言った。
きっと彼は、いままでもそうしてきたのだろう。誰かに触れて、しかし違うものだからと諦めてきたのだろう。
小桃は三輪を見て、そう思った。
「知りません」
三輪は、きょとんとした。
「……小桃?」
「そんな勝手、知りません」
小桃の声は決して脅すようなものではなかったのに、三輪は恐怖を感じたかのように萎縮する。
それは叱られる子のようで、微笑ましいものであったが、二人にとっては大事である。
「そうやって勝手にいつもいつも、決めているのでしょう! もう、男ってこんな人ばかりなのかしら。お父様もそう、あの武士どももそう! 貴方までそうだなんて!」
憤慨の声をあげる。口調も、いつもの慕う様子ではなくなっていた。
三輪は困った顔を浮かべて、小桃の名前を呼び続けた。
だが、聞かずに小桃は口を開く。止まらなかった。
「こんな気持ちにさせておいて、まずくなったからさよならなんて、許しません!」
「ちょ、ちょっと落ち着いて」
「答えてください、三輪様。貴方は私のどのように思っているのですか?」
それは、と三輪は言葉を詰まらせた。
何より明白な答えだった。
「少しでも私に情があるのでしたら」
抜けた力が戻っていた。小桃は三輪の頬に手をあてる。
「責任を、とってくださいませんか?」
はっと息を飲む三輪。小桃は微笑む。
頬に当てられた手に触れた三輪は、視線を彷徨わせる。しばらくして、諦めたように微笑んだ。
「いいのかい? 僕は人じゃない。違うものと結ばれようとするのは、とても難しいことだ。きっと君はこのままではいられないし、生まれてくる者たちも普通ではいられない」
「普通とは何でしょうか。誰かが決めたことでしょうか。生きるためには従わなければならないことはあります。ですが、譲れないことだってあります」
「そんなもの、幻のようなことだと思わなかったのかい?」
「もとより愛など、幻のようなもの。でも、不確かな未来よりも、いまここに確かにあるものを失いたくないのです」
これがそうなのです。小桃は言った。
そのまっすぐさに、三輪はしどろもどろになる。
でも、だとか、だって、だとか。あやふやな言葉を繰り返す。
「もう! しゃんとしなさい。それで、どうなのですか」
顔を真っ赤にして小桃は言った。女から相手のことを求めるなんて、はしたない。すごく恥ずかしい。
それでも、目をじっと見つめた。
三輪は笑って、そして唇を小桃の唇に落とした。
二人は静かな時間を過ごす。これからは、二人だけの時間。月ですら見ることは許されない。
影がそっと重なった。