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天斯流転  作者: ジョシュア
序章:人ぞささやく、汝が心ゆめ
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魑魅魍魎の住まう場所

 翌日になる。この日は一層、冷え込んでいた。昼間であるが、雲が空を覆っていて日が差さないでいる。

 このときもまた、小桃は女房と歌の練習をしていた。

 いつか誰かに送るのだから、と言われ身につけるべく習っているものの、歌を男性に贈る自分の姿を思い浮かべることはできなかった。

 しばらく過ごしていると、大きな足音が聞こえた。この歩き方をするのは、この屋敷では一人しかいなかった。


「小桃、ここにいたか」

「お父様?」


 襖を開けて入ってきたのは、厳しい顔をした父であった。娘に向けるものではない。まつりごとへと挑む顔のようであった。

 女房はさっと身を引いて、場は小桃と父の二人きりとなった。彼は急に小桃の肩を掴むと揺らしてくる。


「お、お父様、おやめください!」

「悪い噂を聞いた。お前、男を連れ込んではいないか?」


 胸の鼓動が止まるかと思った。少なくとも、息は止まっていた。生きた心地がしない、というのはこのことだろうと小桃は思った。

 いつ、どこで、だれが。そんなことばかりが頭によぎった。誰かに見られていたのか、聞かれていたのか。

 もしかすると小桃をよく思わない誰かが流した嘘かもしれない。

 だが、小桃はうまく否定をできなかった。自分の元に男が通ってきているのは事実だ。

 例えその間に関係がなくとも、父に嘘はつけなかった。


「なんということだ……。どこの者かは聞いていないのか? お家はどちらだ?」


 父はそう言って、さらに問い詰める。まだその者がいい家の者であるのなら、と思ったのだろうか。

 小桃は三輪のことをまったくと言っていいほど知らない。彼もまた自分のことを聞いてこなかったから、小桃もまた聞くことができないでいた。そういう付き合いではないのだから、と高を括っていた。

 これまではそれでよかったが、こうなってしまってはそれが裏目に出ていた。


「わかりません。そのようなこと、話しておりません」

「どこの誰かもわからない者を招いていたというのか!」


 父がこのように叫んでいるところを、小桃は知らなかった。思わず泣きそうになるのを、必死にこらえる。

 すると父は、顔を逸らして言った。


「いいか、その者はものたぐいだ。お前はそいつに魅入られているだけだ。その想いなど、怪しい術によるまやかしに過ぎぬ。いいから忘れろ」

「……誰なのです」


 小桃は小さな声で言った。だが、その剣幕は父を一歩引かせた。

 怒っていた。小桃は、いつも以上に怒っていて、その怒りをぶつけること以外わからなかった。


「誰なのです! あの方をそのように言ったのは! 何がわかるって言うんですか! 彼の何がわかると!」


 言って、後悔をした。こんなことを言っても仕方ない。

 自分とて彼のことはわからないというのに、何を知った気になっているのか。思わず自嘲してしまった。

 けれども、口は止まらなかった。


「天地神明に誓って、私と彼の間にやましいことなどありません。決してです」


 それだけ言うと、小桃は自室に戻るため踵を返した。父は小さく言った。


「どうしてわかってくれないんだ……お前を想ってのことだぞ」

「生憎様です、お父様。私のためを思うのなら、何もせぬことです」

「お前は物の怪に憑かれているのだ! それがわからないのか!」

「二度も言わせないでくださいませ。私の身は潔白です。そして貴方に、彼の何を決める権利がありましょうか」


 父の気持ちもわからなくはなかった。小桃は大切な一人娘である。その面倒をすべて見たくなることも。

 しかし、その小桃とてすでに自我を持つ年頃であり、付き合う相手に指図などされたくはなかった。

 ……一体だれが、父にそのようなことを吹き込んだというのか。それが気になっている。しかし、知るのがどうしてか恐かった。

 自分に敵がいることなど、知りたくはない。


 その晩のことであった。三輪は一向に訪れることはなく、小桃は心細い思いをしていた。

 いつの間にか彼が訪れてくるのが日常になっていた。それがなくなることはとても寂しいことだ。京からこちらへ来たときもそうだった。

 けれども、このときはそれに加えて、胸騒ぎを覚えた。締め付けられるような思いがして、苦しかった。彼の声が聞きたくて仕方ない。

 そのかわり耳に入ってきたのは、冷たい風の音であった。


「……?」


 風の中に、違うものが混じっているのを小桃は感じた。

 それは声であった。意思を持って、滔々と流れてくる声音だった。

 そっと簾を開けた。冷え切った空気が入ってくるものの、構わずに縁側へと出た。

 念仏なのだとわかった。邪気を祓う調べが響いている。小桃は嫌な予感がして、声の元へと向かった。

 人前に出てはならないという禁を破ってしまうが、構うものか。

 庭では僧が数人と、父、そしていつか宴で見た名主たちがいた。彼らは炎を炊いて、手を合わせて唱えている。


「お父様、何をしているのです?」


 慌てて姿を隠して、小桃は問う。それに気づいた父は、小桃の元へと駆け寄った。


「何をしている。部屋にいなければいけないだろうに」

「私の部屋にまで聞こえておりますから、気になってしまって。それで、これは何をしているのです?」

「お前に憑いている邪を祓おうというのだ」


 まだそんなことを、と小桃は怒鳴りそうになったが、こらえる。ぐっと拳に力を込めて、父を睨みつけた。


「私は憑かれてなどおりません。何を根拠にそのようなことを」

「彼らがそう言っていたのだ。この辺りには女を惑わす物の怪がおり、それがいま、お前に憑いているのだと」


 彼ら、というのが名主たちのことを指すとすぐに理解ができた。

 小桃は頭に血がのぼっていくのを感じた。まったくの根拠のない嫌がらせをする名主たちにも腹が立ったが、それを信じた父も父である。

 何か言い返さねばならない、と思ったが、それより前に父が言った。


「ところで、今日はその男は来たか? それが何よりの証拠ではないのか?」


 息を呑んだ。ああ、そういうことだったのか、と自分でも驚くほど納得してしまった。

 そしてそれは、三輪への理解へ追いついた。小桃は目を閉じて、彼の姿を思い浮かべる。


「どこへ行く?」


 立ち去ろうとする小桃の背中に、父が声をかける。小桃は振り向かずに、言った。


「ようやくわかったのです。彼のことも、私のことも」

「おお、よかった。ならば」

「申し訳ありません、お父様。如何な念仏を唱えても、この心の憑き物は落ちそうにありません」


 そう言って、小桃は駆け出した。静止する声が聞こえるも、立ち止まることはなかった。そのまま開けっ放しの門をくぐって飛び出す。

 どこへ行けばいいのかわからなかった。なんのために走ったのかもわからなかった。けれども、必要なことだと思った。

 すると、目の前に狐が現れた。いつか見た、子どもの狐だった。その狐は首を数度だけ傾げると、山の方へと走って行った。

 小桃はまるで、その子狐がついてこいと言っているように思えた。少しだけ迷ったものの、己の直感に従おうと決めた。子狐を追って、森へと向かっていく。

 そこが、魑魅魍魎が住まう場所であるというこを知らずに。

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