帰るために
京士郎と志乃は洞窟を駆け回る。
背後から迫る土蜘蛛と蜘蛛の群は、圧倒的な速さであった。
蜘蛛という姿は、あらゆる壁面であっても歩くことができるようになっている。さらに言えば、彼らの巣である。初めから地の理はあちらにあるのだ。
対して、京士郎と志乃は走っていた。複雑な足場を軽やかに走る京士郎の一方で、志乃は慣れてないからか遅い。
「急げ、こっちだ!」
「出口わかんないんじゃないの!?」
「逃げ道だ、馬鹿!」
「馬鹿って言ったわねぇ!?」
言い合いをしながら、京士郎は一瞬だけ後ろを振り向いた。
地面を蹴って、
蜘蛛たちを正面に見据えながら跳んだ。宙に浮きながら、京士郎は手頃な石を投げつける。
鋭い一投は飛んできた蜘蛛の糸を撃ち落とした。
傷をつけられたことで怒りに狂う土蜘蛛は、その黄金の目を京士郎へ絞っている。
もはや思考も残っていないのだろう。その動きは本能的で、獣のようであった。
着地すると同時、京士郎は志乃に言葉をかける。
「おい、外に出たら勝ち目はあるんだな?」
「信じなさい! まず外にどうやって出るか、考えて!」
「わかった、しっかり掴まってろ」
「え、えええっ!?」
京士郎は刀を鞘に納めて、志乃を担ぎ上げる。
そして横抱きにしたまま走り出した。
「ちょ、ちょっと! 待って、さすがにこれは恥ずかしい」
「そんなことを言ってる場合か!? いいから黙ってろ! 舌を噛むぞ!」
そう言って、京士郎はいままで以上の速度で走り出した。
志乃を抱えている分、京士郎は全力で走ることはできない。だが、志乃の歩幅に合わせる必要がなくなったから、さっきよりもずっと早い速度で駆け抜けている。
飛んでくる蜘蛛の糸を第六感や志乃の声で察知しながら、洞窟内を縦横無尽に飛び跳ねた。時には志乃の術で生み出された炎が蜘蛛を焼きながら、二人は洞窟内を進んでいく。
出口がわかったわけではない。だが、立ち止まったところで不利になるしかない。彼らに囲まれていては、身動きがとれないままじり貧になってやられてしまう。
それよりはまし、だと踏んで、京士郎と志乃は飛び出したが、しかし出口が見えないままでいる。
「……もしかしてだけど」
京士郎に抱えられた志乃は、走らないことで考えるだけの余裕ができたのだろう。志乃はそう言った。
「ここは彼らの巣。彼ら自身が私たちを出そうと思わない限り、ここに閉じ込められたまま、ということもありえる……?」
「おい、そんなの、どうやったって出られやしないじゃねえか」
「そんなことないわ。もし京士郎の力が、私の考えた通りなら、対抗できるはず」
念じて。志乃はそう言った。
何を。京士郎は聞き返す。
「外のことを。私たちが戻るべき、理の世界を」
この巣は、鬼の陰気で満ちている。自分たちが当たり前にいる場所とは、根本的に違うのだ。
理に干渉する者のうちには、逆に理そのものを書き換える力を手に入れる者もいる。
そうして変質した場所を、人は異界と呼ぶ。
志乃はそのことを京士郎に伝えた。
本当なら、それに打ち勝つことなどできない。
人は鬼と戦う。神と戦う。けれども、世界と戦うことはできない。
ただ、抗うことならできる。鬼がそうしているように、彼らと同じ力を持つのならば、対抗はできる。
京士郎は意識を集中した。
志乃の言っていることの一割も理解できていない。
けれども、戻ろうという意思を見せつける必要があると思った。
自分は鬼ではない、という意思を。
「—————————」
声が聞こえる。それは遠くにありながら、とても近い場所から聞こえてくる。
聞き覚えがあった。叫んでいる。いや、呼んでいるのだろうか。
そして不思議なことに、それは京士郎の目を通して見えた。
声が線となって、自分が進むべき導線となって、自分の前を伸びている。
洞窟内であっても明確に見えるその線を、京士郎は辿って行った。
一心不乱に走り、蜘蛛たちを置き去りにした。
志乃がしがみついてきたのさえ、無視して。
光が見えた。その先へ、抜けていく。
「にいちゃん、ねえちゃん!」
その声の主は、オヒトだった。
いつの間に追いかけていたのか、兄や姉と自分を呼ぶようになったのかはしらない。
洞窟の入り口でずっと二人を呼びかけていたのか、すでに声は枯れている。
けれども京士郎には確かに届いたのだった。
何かを言おうと、口を開いたオヒトの首根っこを京士郎は掴んだ。
すぐに蜘蛛たちが出てくる。志乃と二人ならばともかく、オヒトも連れて戦えるほど安易な相手ではない。
ここは一度、撤退をすべきだ。態勢を立て直して、再び挑むべきだと考える。
こういうときに安全策をとるのが、京士郎という者であった。
一方で、志乃は首を横に振る。
「でかしたわ、京士郎。それにオヒトも、ありがとう」
「ねえちゃん……」
「大丈夫よ。このとおり、怪我はないし」
そう言って、志乃は京士郎の腕から下りる。
衣服を整えて、京士郎に刀を抜くように言った。
こういうときに強硬策に出るのが、志乃であった。
けれども彼女が確信をもって言うことに、京士郎は信じると決めている。
「私の考えが正しくて、京士郎がその力を持ってるならば、勝てるわ」
「もったいぶらないで教えろ。あいつらが迫ってからじゃ遅いんだ」
こくり、と志乃は頷く。京士郎もオヒトを放した。
志乃は言わなかったが、土蜘蛛が洞窟から外へやってくるのにはわずかばかりの余裕がある。
土蜘蛛は日の下では動けないのだ。なんらかの術で生み出した、髑髏の雲の下でなければ活動できない。
謂わば、自分たちの巣を持ち歩かなければならないのだ。
それは志乃が最初に交戦した際に、雲へと放った火に反応し、彼らはそのことを恐れて散ったことから察せられた。
そして、その準備にはしばらくの時を要する。
洞窟の外に自分たちがいる限り、彼らは外へ出るための備えをしなければならない。
もちろん、出てきたのであればどこまでも追ってくるだろう。三人であれば、すぐに追いつかれるだろう。
それでもこの時にこそ、迎え撃つ用意をするべきなのだ。
この隙に、志乃は京士郎へ戦う手立てを教えた。
「教えるわ。その刀の銘を」
京士郎は、そのことの重要性を知っている。
天狗が言うに、名とは時に体を示すものである。形としての在り方を決め、そして性質ですら付与してしまうものだそうだ。
だから刀の銘を知る、というのは、この刀のことを知ることに他ならない。
「その刀の銘は……顕明連荒正。近江の湖で暴れていた黒蛇の尾より生まれた宝刀よ」
京士郎は刀を引き抜いた。
顕明連荒正。その名を冠した刀の力を、引き出す。
「掲げて。天に上る……朝日に透かすように」
京士郎は、はっとして空を眺めた。
どれほどの時間が洞窟の中で経っていたのだろうか。
いや、日が昇るほどの時間が本当に経ったわけではないのだ。土蜘蛛の力で異界に成り果てた洞窟の中は、外と違う理で動いている。それは時の流れでさえ例外ではない。
だから、日が昇っていたとしてもおかしくはないということを、京士郎は後になって知ることになる。
そして、見上げた先にあるものは。
天に昇って京士郎を見下ろしているのはまごうことない、朝日であった。




