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天斯流転  作者: ジョシュア
第二章:いく世の春を せきとめて
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土蜘蛛

 志乃は重くなってしまったまぶたを、ゆっくりと開ける。

 薄暗い洞窟だった。いつの間にここへ来ていたのか、と自分の正気を疑った。好き好んでやってくる場所ではない。

 腐った肉と湿った黴の臭いが充満している。思わず鼻元を押さえようとして、自分の腕が動かないことに気づいた。


「なによ、これ」


 腕は縛られている。それだけではない。脚も同じように縛られていて、さらに言えば宙づりにされている。

 状況がまったく読めなかったが、自身を捕らえているものが蜘蛛の糸であることから、察する。ここはあの大きな蜘蛛たちの住処なのだ。

 オヒトが言うように、彼らは暗いところに好んで住む。この洞窟こそが、そうなのだと。

 背中には蜘蛛の巣が張られている。人を一人、捕らえてしまうほどの大きさであった。自分より大きな虫を捕らえて食う蜘蛛たちである。鬼の蜘蛛ともなれば、人ですら簡単に捕らえてみせるだろう。

 なんどももがくが、びくりともしない。術を使おうにもできない。このあたりの気の流れに問題があるのか、とも思ったものの、その実、自分の調子が優れていないことに気づいた。

 上手く集中することができず、咒言をつむぐ口が回らなかった。

 術を使おうとすれば、何かに阻害される。半ばまで上手くいくにも関わらず、だ。


「気づいたか、気づいたか、ふひひ」


 声がする。志乃はその声の姿を見た。まるで影から滲み出てくるように、()()()は姿を現した。

 驚くべきことに、それらは人の姿をしている。いいや、かろうじて人の影であるとわかる程度ではあったが、志乃の目にはきちんと人であるように見えた。

 目の前にやってくるのは、その中でもひときわ大きい人物だった。七尺(2.1メートル程度)だろうか。

 彼こそが、この蜘蛛たちの首魁だろうことは疑いようがない。

 その姿格好は、志乃にとっては見慣れないものであったが、どこかで覚えがあった。それが師からときどき、伝え聞いているものであることに気づくまで時間はいらなかった。


「あなたたち、このあたりをまとめていた、古代の土蜘蛛どもね」

「土蜘蛛? ああ、お前たち大和やまとの者どもはそう我らを呼ぶのだったな。然り、然り。では、その通りに」


 くつくつと、土蜘蛛は笑う。

 志乃は知っている。土蜘蛛と呼ばれる存在は、かつて朝廷と敵対した者たちの名だ。

 あるとき、神武の東征のおりに、戦った者たち。あるいは、大和の朝廷に従わないでいた者たち。

 そして不破関の前で話したとおり、皇太子と弟皇子の戦で、弟皇子の味方をしながらも、関所によって締め出された者たち。

 それこそがおおまかに、土蜘蛛と呼ばれるものであった。

 彼らは横穴に居を構えた一族であったと言われる。目の前の土蜘蛛たちと関わっているのは、少し考えればすぐにわかるようなものだった。


「……いますぐこんなことはやめなさい。人でなくなって、鬼にまでなって、どうするの?」

「知れたこと。復讐だ。我らを貶し、辱めた者たちへのだ」

「もう、彼らはいないわ」

「だがそれを、誤りであるとは認めていない者たちがいる。知らずに暮らしている者たちがいる。そのことが許せないのだ。我らは、忘れられるしかないのか?」


 はっとして、志乃は息を飲み込んだ。

 戦いがあって、お互いに信ずるものがあった。譲れないものがあって、勝った者がいて負けた者がいる。

 それ自体が過ちであったとは言わない。

 けれども、忘れてはならないことであったはずだ。

 苦しんだ者がいるということを、知っていなくてはいけないはずだ。

 土蜘蛛は志乃にそのことを知らしめた。いいや、本当は知っていたはずなのに、気づかないふりをしていたのだ。


「気づいたか、気づいたか? 己がいかなる罪によって成り立っているかを」


 にやり、と笑った気がした。

 歯を食いしばって、志乃は言い返す。


「いいえ! それでも、あなたを許さない」

「なにをだ、なにをだ?」

「だったらどうして、オヒトのお父さんとお母さんを攫ったの? あなたの同族なのでしょう?」


 志乃は父母を、何にも代え難いものであると思っている。だからこそ、オヒトからそれらを奪った彼らを許せはしなかった。オヒトから事情を聞いた時に、憤りを覚えていたのだ。

 その憤りから彼らを討つような真似はしないと決めている。それはオヒトへ告げた通り。

 けれども、不可解だったのだ。

 なぜ言葉で人をたぶらかす必要があったのか。

 鬼の食料が人の魂であるのだとすれば、その場ですべて食えばよかったのだ。言葉を弄して、騙すような、唆すような真似をせずに。

 にもかかわらず、彼らは人を連れて行った。志乃にはその理由が見当つかなかったのだ。


「ふひっ」


 土蜘蛛が笑う。楽しそうに、嗤う。


「ふひっ、ふひっ、ふひひひひ!」

「なにがおかしいのよ」

「いやあ、なに。簡単なことよ。効率というやつだ」


 土蜘蛛はそして、上を見ろと言った。

 志乃は上を、洞窟の天井を見る。

 息が止まった。その光景は、志乃の想像を絶している。

 蜘蛛の糸でくるまれた、人、人、人。

 そこにいたのは、彼らが攫った人であった。

 天から吊るされた彼らは、確かに人だったのだ。


「どう、して。食べるために攫ったのではないの……?」

「ふひっ、ふひっ。我らは群にして個、個にして群なのだ。すべては土蜘蛛(我ら)に帰順する! ゆえに、これこそが我らの食事作法! 見よ、あれなるはらを!」


 土蜘蛛が言った途端、人であったものの一つの、腹が開いた。そこから無数にも思われる蜘蛛が這い出てくる。悍ましい光景であった。

 志乃はその姿を見て、ようやく悟る。 一つであり全、全であり一つという土蜘蛛のあり方を。

 鬼の食料とは、人の魂である。一方で養分とは、陰気のことである。

 憤り、恨み、悲しみ、虚しさ……そうしたものをこよなく愛し、そして食らって大きくなるのだ。

 土蜘蛛が行っているのは、人の持つ陰気を煽り、肥やし、そして食うこと。食うというのは、土蜘蛛にとって群を大きくすることなのだ。

 その方法こそ、人を攫い、吊るしあげ、子を増やすことなのだ。


「効率よく、だ。知っているか? 魂には、元の姿に戻ろうとする力がある。それを少しずつ食って、食って、食って、修復したところをまた、食って、食って、食って……まあ最後は食いつぶしてしまうわけだが。我らはそうして、大きくなる。あれらはその苗床よ」

「まさか、彼らはまだ生きているというの!?」

「ああ。幸せだろう。同族のために生きて、死ぬというのは。人の快楽の一つだ。同じ境遇のために、同じ生き方をする者のために。お前たちもそれを美しいと思うだろう?」


 志乃は恐怖から唇を震わせる。

 目の前のものが理解できない。

 これが、鬼の姿。真の鬼だ。

 理から外れた、道から外れた者の、行き着く果てなのだ。人を食い物にする、というのはこういうことなのだ。


「そして、お前もそうなる」


 おもむろに、土蜘蛛は志乃の胸をつかむ。

 口から声が出そうになるのを抑えた。乱暴に掴まれる乳房に、伝わってくる感触が気持ち悪い。揉みしだかれるたびに、相手への憎悪と、背筋を走る快楽が募る。

 睨みつけると、土蜘蛛は笑った。


「ふひっ、ふひっ。お前はいい胎になる。魂が強靭だ。さぞかし、いい生まれなのか。神の血でも注いでいるのか。あるいは強い心を持っているのか」

「誰があんたなんかに!」


 口応えをすると、今度は衣服の中へと手が伸ばされる。ついに口から、甘い声が漏れた。

 もう一方の手で土蜘蛛は志乃の腹を撫でた。


「ここに子を宿すのだ。男も女も関係なしにだ。お前の腹の底にある暗いものを食らって、我らは増える(おおきくなる)!」


 いやだ、と志乃は思った。

 それは理性も、本能も叫んでいた。

 彼らのひとつになるのも、彼らそのものを生み出すのも嫌だった。

 京にまだいる主人や師匠と会えなくなるのも嫌だった。命令を果たせないのも、嫌だった。

 自分がどこの誰でもない、なにかになる。そんな感覚さえした。

 個人という尊厳を踏みにじられるのだと思った。巨大な何かに飲み込まれ、そのまま埋没してしまうのだと。


 京士郎のことを少しだけ思った。

 自分がいなくなったら、彼はどうなってしまうのだろう。

 強くたくましくも、異端で、悲しい目をした、孤独な彼は、どこへ行けばいいのだろう。

 一緒に行こうと言われたときに戸惑いがあった。

 けれども、嬉しさがあったのを志乃はよく覚えている。

 後ろをついていくだけでも、一緒にいてくれると言ってくれた彼の顔を、よく思い出した。


 この思いでさえ、失われてしまうのだとしたら、それは。


「死んだ方がマシ! 殺しなさい、私を!」


 それは願いであった。懇願だった。

 目の前の鬼は、まるでその言葉でさえ楽しんでいるかのようだった。それはそうだ。この暗い感情は彼らを喜ばせるだけだ。陰気をまとう彼らにとって、褒美も当然であった。


 そのときだった。刃がやってきた。

 暗闇の中であっても輝くその太刀が振るわれると、志乃に伸ばされていた手が斬られる。

 肘から先が宙に浮いて、霧散した。


「……そんな悲しいこと、言わないでくれ」


 志乃に背を向けて言う彼は、わずかに顔を振り向かせている。

 はっきりとは見えない。志乃の目は、京士郎とは違って暗い中では機能しないのだ。

 けれども。目の前にいるのが京士郎だと、確信していた。

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