土蜘蛛
志乃は重くなってしまったまぶたを、ゆっくりと開ける。
薄暗い洞窟だった。いつの間にここへ来ていたのか、と自分の正気を疑った。好き好んでやってくる場所ではない。
腐った肉と湿った黴の臭いが充満している。思わず鼻元を押さえようとして、自分の腕が動かないことに気づいた。
「なによ、これ」
腕は縛られている。それだけではない。脚も同じように縛られていて、さらに言えば宙づりにされている。
状況がまったく読めなかったが、自身を捕らえているものが蜘蛛の糸であることから、察する。ここはあの大きな蜘蛛たちの住処なのだ。
オヒトが言うように、彼らは暗いところに好んで住む。この洞窟こそが、そうなのだと。
背中には蜘蛛の巣が張られている。人を一人、捕らえてしまうほどの大きさであった。自分より大きな虫を捕らえて食う蜘蛛たちである。鬼の蜘蛛ともなれば、人ですら簡単に捕らえてみせるだろう。
なんどももがくが、びくりともしない。術を使おうにもできない。このあたりの気の流れに問題があるのか、とも思ったものの、その実、自分の調子が優れていないことに気づいた。
上手く集中することができず、咒言をつむぐ口が回らなかった。
術を使おうとすれば、何かに阻害される。半ばまで上手くいくにも関わらず、だ。
「気づいたか、気づいたか、ふひひ」
声がする。志乃はその声の姿を見た。まるで影から滲み出てくるように、それらは姿を現した。
驚くべきことに、それらは人の姿をしている。いいや、かろうじて人の影であるとわかる程度ではあったが、志乃の目にはきちんと人であるように見えた。
目の前にやってくるのは、その中でもひときわ大きい人物だった。七尺(2.1メートル程度)だろうか。
彼こそが、この蜘蛛たちの首魁だろうことは疑いようがない。
その姿格好は、志乃にとっては見慣れないものであったが、どこかで覚えがあった。それが師からときどき、伝え聞いているものであることに気づくまで時間はいらなかった。
「あなたたち、このあたりをまとめていた、古代の土蜘蛛どもね」
「土蜘蛛? ああ、お前たち大和の者どもはそう我らを呼ぶのだったな。然り、然り。では、その通りに」
くつくつと、土蜘蛛は笑う。
志乃は知っている。土蜘蛛と呼ばれる存在は、かつて朝廷と敵対した者たちの名だ。
あるとき、神武の東征のおりに、戦った者たち。あるいは、大和の朝廷に従わないでいた者たち。
そして不破関の前で話したとおり、皇太子と弟皇子の戦で、弟皇子の味方をしながらも、関所によって締め出された者たち。
それこそがおおまかに、土蜘蛛と呼ばれるものであった。
彼らは横穴に居を構えた一族であったと言われる。目の前の土蜘蛛たちと関わっているのは、少し考えればすぐにわかるようなものだった。
「……いますぐこんなことはやめなさい。人でなくなって、鬼にまでなって、どうするの?」
「知れたこと。復讐だ。我らを貶し、辱めた者たちへのだ」
「もう、彼らはいないわ」
「だがそれを、誤りであるとは認めていない者たちがいる。知らずに暮らしている者たちがいる。そのことが許せないのだ。我らは、忘れられるしかないのか?」
はっとして、志乃は息を飲み込んだ。
戦いがあって、お互いに信ずるものがあった。譲れないものがあって、勝った者がいて負けた者がいる。
それ自体が過ちであったとは言わない。
けれども、忘れてはならないことであったはずだ。
苦しんだ者がいるということを、知っていなくてはいけないはずだ。
土蜘蛛は志乃にそのことを知らしめた。いいや、本当は知っていたはずなのに、気づかないふりをしていたのだ。
「気づいたか、気づいたか? 己がいかなる罪によって成り立っているかを」
にやり、と笑った気がした。
歯を食いしばって、志乃は言い返す。
「いいえ! それでも、あなたを許さない」
「なにをだ、なにをだ?」
「だったらどうして、オヒトのお父さんとお母さんを攫ったの? あなたの同族なのでしょう?」
志乃は父母を、何にも代え難いものであると思っている。だからこそ、オヒトからそれらを奪った彼らを許せはしなかった。オヒトから事情を聞いた時に、憤りを覚えていたのだ。
その憤りから彼らを討つような真似はしないと決めている。それはオヒトへ告げた通り。
けれども、不可解だったのだ。
なぜ言葉で人をたぶらかす必要があったのか。
鬼の食料が人の魂であるのだとすれば、その場ですべて食えばよかったのだ。言葉を弄して、騙すような、唆すような真似をせずに。
にもかかわらず、彼らは人を連れて行った。志乃にはその理由が見当つかなかったのだ。
「ふひっ」
土蜘蛛が笑う。楽しそうに、嗤う。
「ふひっ、ふひっ、ふひひひひ!」
「なにがおかしいのよ」
「いやあ、なに。簡単なことよ。効率というやつだ」
土蜘蛛はそして、上を見ろと言った。
志乃は上を、洞窟の天井を見る。
息が止まった。その光景は、志乃の想像を絶している。
蜘蛛の糸で包まれた、人、人、人。
そこにいたのは、彼らが攫った人であった。
天から吊るされた彼らは、確かに人だったのだ。
「どう、して。食べるために攫ったのではないの……?」
「ふひっ、ふひっ。我らは群にして個、個にして群なのだ。すべては土蜘蛛に帰順する! ゆえに、これこそが我らの食事作法! 見よ、あれなる胎を!」
土蜘蛛が言った途端、人であったものの一つの、腹が開いた。そこから無数にも思われる蜘蛛が這い出てくる。悍ましい光景であった。
志乃はその姿を見て、ようやく悟る。 一つであり全、全であり一つという土蜘蛛のあり方を。
鬼の食料とは、人の魂である。一方で養分とは、陰気のことである。
憤り、恨み、悲しみ、虚しさ……そうしたものをこよなく愛し、そして食らって大きくなるのだ。
土蜘蛛が行っているのは、人の持つ陰気を煽り、肥やし、そして食うこと。食うというのは、土蜘蛛にとって群を大きくすることなのだ。
その方法こそ、人を攫い、吊るしあげ、子を増やすことなのだ。
「効率よく、だ。知っているか? 魂には、元の姿に戻ろうとする力がある。それを少しずつ食って、食って、食って、修復したところをまた、食って、食って、食って……まあ最後は食いつぶしてしまうわけだが。我らはそうして、大きくなる。あれらはその苗床よ」
「まさか、彼らはまだ生きているというの!?」
「ああ。幸せだろう。同族のために生きて、死ぬというのは。人の快楽の一つだ。同じ境遇のために、同じ生き方をする者のために。お前たちもそれを美しいと思うだろう?」
志乃は恐怖から唇を震わせる。
目の前のものが理解できない。
これが、鬼の姿。真の鬼だ。
理から外れた、道から外れた者の、行き着く果てなのだ。人を食い物にする、というのはこういうことなのだ。
「そして、お前もそうなる」
おもむろに、土蜘蛛は志乃の胸をつかむ。
口から声が出そうになるのを抑えた。乱暴に掴まれる乳房に、伝わってくる感触が気持ち悪い。揉みしだかれるたびに、相手への憎悪と、背筋を走る快楽が募る。
睨みつけると、土蜘蛛は笑った。
「ふひっ、ふひっ。お前はいい胎になる。魂が強靭だ。さぞかし、いい生まれなのか。神の血でも注いでいるのか。あるいは強い心を持っているのか」
「誰があんたなんかに!」
口応えをすると、今度は衣服の中へと手が伸ばされる。ついに口から、甘い声が漏れた。
もう一方の手で土蜘蛛は志乃の腹を撫でた。
「ここに子を宿すのだ。男も女も関係なしにだ。お前の腹の底にある暗いものを食らって、我らは増える!」
いやだ、と志乃は思った。
それは理性も、本能も叫んでいた。
彼らのひとつになるのも、彼らそのものを生み出すのも嫌だった。
京にまだいる主人や師匠と会えなくなるのも嫌だった。命令を果たせないのも、嫌だった。
自分がどこの誰でもない、なにかになる。そんな感覚さえした。
個人という尊厳を踏みにじられるのだと思った。巨大な何かに飲み込まれ、そのまま埋没してしまうのだと。
京士郎のことを少しだけ思った。
自分がいなくなったら、彼はどうなってしまうのだろう。
強くたくましくも、異端で、悲しい目をした、孤独な彼は、どこへ行けばいいのだろう。
一緒に行こうと言われたときに戸惑いがあった。
けれども、嬉しさがあったのを志乃はよく覚えている。
後ろをついていくだけでも、一緒にいてくれると言ってくれた彼の顔を、よく思い出した。
この思いでさえ、失われてしまうのだとしたら、それは。
「死んだ方がマシ! 殺しなさい、私を!」
それは願いであった。懇願だった。
目の前の鬼は、まるでその言葉でさえ楽しんでいるかのようだった。それはそうだ。この暗い感情は彼らを喜ばせるだけだ。陰気をまとう彼らにとって、褒美も当然であった。
そのときだった。刃がやってきた。
暗闇の中であっても輝くその太刀が振るわれると、志乃に伸ばされていた手が斬られる。
肘から先が宙に浮いて、霧散した。
「……そんな悲しいこと、言わないでくれ」
志乃に背を向けて言う彼は、わずかに顔を振り向かせている。
はっきりとは見えない。志乃の目は、京士郎とは違って暗い中では機能しないのだ。
けれども。目の前にいるのが京士郎だと、確信していた。




