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天斯流転  作者: ジョシュア
序章:人ぞささやく、汝が心ゆめ
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恋知らぬ姫

 小桃は姫であるから、当然としてその嗜みを学んでいた。

 歌に舞、そして琴。特に琴については、小桃は好きだった。弾いている間は没頭できて、いろんなものを忘れることができる。嫌なことも、悲しいことも。

 一曲弾き終えると、小桃に教える役を仰せつかってる女房が嬉しそうな顔で頷いた。小桃の乳母も務めたこの女房の顔には少ししわが浮かんでいるものの、いつまでも愛らしい方だと慕っていた。

 そんな彼女が、どことなく嬉しそうな顔を浮かべていた。


「お上手になられましたわね。好きな殿方でもいらっしゃるのかしら」

「えっ」


 思いもしなかった女房の言葉に小桃は驚いた。


「あら、これはもしかして」

「ご冗談を。そんな、私がどなたに」

「遠慮なさらずに申しなさいな。京から離れていろいろと恋しくなったことでしょう。噂のあった殿方を思い出しても仕方のないこと。さあ、どなたなのです? 中将様でしょうか。大納言様でしょうか」

「もう、やめてってば。そんなのじゃないわ。こっちに来てからすることもないから、上達しただけよ」

「そう頑なにならなくともよいのですよ。歌も舞も琴も、誰かに伝えようとするときに上達するものですから」


 困り顔で小桃は笑った。

 好きな相手と言われて、思い浮かぶ顔がどうしてか一人しかいない。

 だが、彼のことを伝えようとも、どう言ったものか。自分は相手の素性を知らないのである。そんな者を紹介などできようか。

 ましてや、この感情が恋慕というものなのかもわかっていない。ただ彼しか知らないから、彼が好きなのだと思うことは、不誠実だと感じてしまいできなかった。


「本当に、いいのですよ」

「そうは言いますが姫様、これは真面目な話です。貴女様が望むのでしたら、この身を賭けて貴女が想う者を招くのもまた私の役目でございます。遠慮なく申してくださいませ」


 急に畏まって言う女房に、小桃は思わず驚いた。彼女のこんな姿を見たのは初めてであった。

 女房は口にはしないものの、小桃の父が縁談を考えているということが彼女にここまでさせているのだろうとわかっている。

 小桃ももうよわいにして十七である。おくれなどと言われてしまえば一家の恥になり、その醜聞の元が小桃である、などとしたくないのが本音なのであろう。

 かと言って、そこらの者に嫁いで幸せになるはずがない。女房からしてみれば、小桃はこの世で一番に美しい女であり、そして何より優しい女なのだ。愛おしく思い、また誰かに愛されるようになってほしいと思うのは当然である。

 思いは受け取った小桃であるが、しかし、どう言ったものだろうか。迂闊に何かを口にしてしまったならば、この女房は本気で動くだろう。


「こんな場所に住まう姫に魅力を感じますでしょうか。貴女がどのようにされたところで、相手方にここまで来させ、さらに帰らせるなどどれほどかかるかわかったものでありません」

「姫様にお会いするためならばとさんじる殿方もいらっしゃいます。むしろ、そこまでしてくださる方こそが相応しいと思いませんか?」

「いいえ、この私は寂しがりですので、相手の方を待つことなどできません」


 であれば、想い人など持たない方が良いのです。

 小桃はそう言った。出来うる限りの言葉を尽くし、ふうとため息をつく。

 決して嘘偽りは言っていない。そのようなことをしても、この女房との付き合いは長いからすぐに見破るだろう。

 そうであるが、くすくすと女房は笑う。何がおかしいのか、と小桃がふくれっ面を浮かべると、女房は言った。


「やっぱり、好きな殿方がいらっしゃるんじゃないですか」

「なっ……!?」


 なにを根拠に、と問おうとした。それよりも早く女房は言った。


「いまは寂しくないのでしょう?」


 そう言われて、小桃の顔はめまぐるしく変わった。

 怒りそうになり、泣きそうになり、赤くなったり青くなったり。

 最後には笑うしかなかった。苦笑いを浮かべる自分は、さぞかし見ものだっただろうと、女房の顔を見て思った。


「そ、そんなことは……ないですけど」


 最後の方は声が小さくなってしまった。きちんと違うと言えなかったことに、どうして安堵している自分もいる。

 くすくす、と笑う女房を傍目に、小桃は唇を尖らせていた。


「でも、そう悠長なことも言っていられない時勢になってきました」


 打って変わって、女房は暗い顔でそう言って、ため息をついた。

 小桃が首をかしげると、女房は付け足す。


「この頃、鬼の噂をよく聞くようになりました」

「鬼ですか?」


 小桃は驚いた。鬼、というものは京でも話は聞いていた。

 夜な夜な現れ、人を食らうものであると。頭に角を生やし、禍々しいほどに輝く瞳を持ち、その力は人では到底及ばないものであると。

 数多ある妖怪変化のうちの一つ。中でもとりわけ強く、とりわけ悪さをするものたち。

 しかし、それは京でもよく囁かれていたこと。なにを今更そのようなことを言うのか。


「はい。各地でぽつりぽつりと語られていたものどもが、どうやら一斉に動き始めたらしいとのこと。統一された意思を持たぬ彼らがそのようなことをするのがあまりに奇妙だと、小耳に挟んでいます」

「それは、恐ろしいことですね」

「はい。まだまだ噂にすぎませんが、各地の国司たちも何らかの備えをせねば、など言われております」


 それは暗に、小桃の縁談についての事情を女房は伝えたいのだと思った。

 これからは武を持つ者の時代になるが、背景には人を脅かす者たちがいる。彼らから身を守るためにはあらゆる手段を講じなければならない。

 それこそ、家族を売ってでも。

 小桃は貴族の娘として納得したが、一人の女として憤りを覚えた。それが己の役割であるが、あんまりだ、と内心で言った。

 ならばいっそ、鬼にでも食われてしまった方がましというもの。潔く食われましょう。そう思った。


「しかし、鬼たちはどうして今になって、そのように動くのです?」

「そればかりはわかりません。京の僧や陰陽師たちが占いをしていますが、なにもわからず仕舞いだそうで。私は詳しいことはわかりませんが、龍がどうとやら、流れがなんとやらと申していると」

「ははあ、なるほど」


 そう言われても、小桃はさっぱり理解できなかった。彼らには彼らの言葉があって、それをすべてわかろうなどと無理なことだ。

 とりあえず、わかった振りをして小桃は話を進めた。


「そうなると、人はどんどん追いやられていくでしょう。いくら武士が力を持っていると言えど、彼らあやかしどもに人は勝てません。誰もが権威たる陰陽道ではなく、身近な仏道を頼り始めるでしょう。なるほど、彼らが強気になるわけですね」


 京であるならいざ知らず、民草の間では仏道の方がより近くにある。陰陽寮はないけれど、寺院であればかつて座した帝の施政によって、誰もが側にあると思っているものだ。それが理由で彼らがその権威を増させるのもわからなくない。

 この世が全体として、動こうとしているのではないか。小桃はそう思った。

 誰か個人が動こうと意味のないことで、気づけばすべてがひっくり返ってしまっているのではないか、などと思った。

 緩やかに蝕む鬼の陰気が、否応なくそうさせるのだとも。


「以前から思っていましたが、貴女様は……なんだか不思議な方ですね」

「そうかしら?」

「姫であれば、あれよこれよと過ごすものですのに。貴女様は世を憂いでおられる。身の回りのことのみならず、後代のことまで」

「それは皆が皆、考えるものだと思ってたのだけど。巷の姫がそうじゃないなら、なおさら私なんかを欲しがる殿方はいませんね」

「まさか。そこらでよく見る花より、風変わりなものを殿方は好むのですよ」


 くすくす、と二人で笑った。女房は、水をお持ちしますと言って立ち上がった。

 小桃は、ふと外を見た。鬼が出ている。そう聞いたものの、そうとは信じられないほど穏やかな空であった。

 この天下で起こることなど、天上では瑣末なことなのかもしれない。鬼が蔓延ろうが、人が死のうが関係のないこと。

 それでもなお、この世に生まれたからには何かをせねばならないのだろう。鬼と戦って、生きなくてはならないのだろう。人はそういう哀れな生き物だ、と誰かは笑ってくれるだろうか。


「何が起こるか、誰にもわからないもの」


 だから、私はやらなくちゃいけない。私にできること、私のしたいこと。

 それが何かはわからないけれども。どこかにそれはあるはずだから。

 小桃は目を閉じた。まぶたに浮かんだ彼の姿に、頬を染めながら。

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