抗う者
京士郎は家へと戻る。焦りからか、わずかに肩を揺らした。
すでにそこは、家と呼ぶことのできる代物ではなくなってしまっていた。屋根は剥がれて、壁も二面はなくなっている。
そして、志乃はいなかった。彼女が寝ていた場所は、ただ人が起きあがった跡だけが残っている。
目線を移せば、怯えるオヒトだけがそこにいた。頭を抱えて、すでに無残になっている壁とも言えない衝立を背にしている。
「おい、あいつがどこに行ったかわかるか」
「お、おれは……」
オヒトの声は震えている。見れば、手もまるで凍えているかのように震えていて、顔も真っ青だった。
京士郎はオヒトの前まで言って、しゃがみこむ。
「あの蜘蛛野郎の居場所を教えろ。知ってるんだろ、早く!」
いまならまだ間に合う。京士郎はその確信があった。
彼らは、自分の巣で食うことにこだわりがあるに違いない。それは昼間に戦ったときに感じたことであり、このときに確信したのであった。
食いたければ、その場で食うはずなのだ。彼らなりの「やりたいこと」があって、それに適うことをしているのだ。志乃の話から、京士郎はそう理解していた。
「早く教えろ!」
「そんな、そんなことは、できない!」
「何を言ってる」
オヒトの言葉が理解できなかった。京士郎は彼を無理やり立たせる。
「お前……!」
「言ったら、殺される! 最初から敵いっこなかったんだ!」
「だったらどうして、俺らをここに連れてきた!? 敵討ちをしろと言ったのはお前だろ!」
オヒトは言葉につまる。視線を落として、口をまごつかせる。
「おれの父ちゃんと母ちゃんを、返してくれるって言ったんだ」
どういうことだ、と京士郎は問いただす。
父と母という言葉が出てきて、少しだけひるみながら。
「あの蜘蛛たちに、おれの里は襲われたわけじゃない。みんな、あいつについていったんだ」
「あいつに?」
「そうだ。そうだった。おれはあのでけえ蜘蛛のことは知らなかった。でも、誰かが言ったんだ。あれこそが我らの祖だ、と」
まるで拝むように。オヒトの目にはそう見えた。
現れたのは蜘蛛ではなかった。いいや、蜘蛛の姿をしていなかった。ただ大きな男であり、妖しい金の瞳を持っていたことをよく覚えている。
傍らに女を侍らせたその男は、ある日、突然に現れた。そして里の真ん中まで歩くと、高らかに言ったのだ。俺についてこいと。「こんなところで泥水を啜って生きる必要はない。過去に味あわされた屈辱を思い出せ」「必ずやお前たちを救おう。もはや大和の言いなりになる時ではないのだ」と。
それの何が、彼らの心を揺さぶったかはわからなかった。だが彼を見る目は、誰もが彼を知っているようであった。信頼、とでも言おうか。
そして里の者たちはついて行った。従うようにして、ふらふらと。
あの男こそが、蜘蛛なのだ。自らの巣にあるものを捕らえて、攫って、自分の者にする。
「……おれは、置いて行かれたんだ」
オヒトはそう言った。京士郎は、彼に少しだけ同情を覚える。
自分もまた、置いて行かれた者であるがゆえに。
一方で、冷静に聞いていた自分がいることにも気づいた。
その蜘蛛の男が連れいた女というのが、おそらく茨木なのだろうということはわかった。彼女が手を回して、この蜘蛛たちをそそのかしたとも。
そして先ほど、茨木が自分に話しかけたのも策略の一つなのだ。二人は組んで魂を食らっているのだ。もしかすると、京士郎へ「こちらへ来い」と言ったことさえ、時間を稼ぐ手段であったかもしれない。
奴らはなにをしたいのか。京士郎にはわからないままだったが、放っておくこともできない。京士郎はわずかに手を緩めて、オヒトを離す。
「おい、あの蜘蛛どもがどこへ行ったか教えろ」
苛立ちは追い払った。それでも残ったのが、その言葉だった。
「教えると思うのか? おれは、あいつらの仲間になりたくて、この場所をあいつに教えてたんだ!」
「それは」
「あの女が教えてくれた! あの女は、おれはまだまだ、父ちゃんや母ちゃんにあげられるものがないからいけないと言っていた。だから、くれてやろうと思った。他人の命なんて知ったことじゃねえ。ただおれは、父ちゃんと母ちゃんに会いたいんだ」
誰かを引き摺り込んで、食う。張り巡らした蜘蛛の糸を巣とし、巣だと知らずに寄ってきたものを捕らえて食う。
蜘蛛のやり口、そのままに。
京士郎は知っている。森の中、木々をまたいで巡らされた蜘蛛の巣を。そこに捕らえられた蝶や蛾を、食ってしまうことを。
大きな蜘蛛でなくとも、自身より大きなものを食うことは決して珍しくない。
強靭な糸は、あらゆるものを絡め取るのだから。
京士郎はオヒトをじっと見た。彼は京士郎から視線が逸らせないでいる。
「頼む、俺はあいつを助けたい」
思わず口をついて出た言葉に、驚いたのは京士郎自身だった。
「あいつは真剣に、お前のことを考えていた。俺にはできないことだ」
「同情を買おうってのか」
「そうじゃない。俺があいつを助けたいだけだ。お前があいつを売ったとしても、知らないことだ。教えてくれないと言うなら、俺は行く」
たとえ、遅かったとしてもだ。
京士郎はそう言った。言葉とは裏腹に、諦めるつもりはないという口調だ。
オヒトに背を向ける。最後にちらり、と彼を見た。
少しだけ悲しい気持ちになった。
自分と同じ思いを抱いたはずなのに、と思っていた。
それが期待、という感情の裏返しであることはわからない。
だが、オヒトは京士郎を引き止める。服の裾を掴んで、わずかに力を込めて引っ張る。
「……ここから東に、洞窟がある。そこに蜘蛛たちは……父ちゃんや母ちゃんはいるはずだ」
「わかった」
「信じるのか? おれの言葉を? おれはあの女を売ったんだぞ?」
「まだ間に合うからな」
オヒトの手をとった。行ってくるからな、と告げる。
必ず帰ってくる、という意思でもあった。
気持ちは吹っ切れていた。声をかけてくれたオヒトへの感謝でいっぱいだった。
そして京士郎は家を飛び出した。まっすぐ東へ、雲が向かっていく方へ。
* * *
取り残されたオヒトは、京士郎の去っていったあとを眺めている。
嘘は言わなかった。蜘蛛たちのことも、すべて本当のことだ。
ただ、その中にごまかさなかったものがなかったとは言わない。自分の思いを、ずっと秘めていた。
けれども、京士郎には気付かれていた。オヒトはそう思った。
瞳に射抜かれて、動けなくなっていた。
自分のことを、たいして話してもいないのに知っている。きっとこの人も、自分と同じような苦しみを持っているのだと感じた。
あの女に似ているとオヒトは感じた。見つめられるだけで、まるで身動きができなくなるような感覚がする。
「だけど……」
京士郎からは、寂しさ。
あの女からは、激しさ。
どちらも自分の感情をかきたてるものであった。
オヒトは激しさに流されて、志乃を売ってしまったのだ。
けれども、京士郎の寂しさは何だったのだろうか。自分の中にあるものを刺激してきた。
「はは、おれはやっぱ、馬鹿だなあ」
あと少しで父と母の元へ行けたのに。一緒になれたのに。
それを手放してまで、なにをしているのか。
目を閉じると、真正面から向かい合ってくる京士郎と志乃の姿が思い浮かぶ。
まっすぐな彼らに当てられてしまったのだろう、と思う。
「よし!」
オヒトは立ち上がる。もう京士郎の後ろ姿は見えなくなっていた。
追いつくことはできないだろう。彼の身体能力は圧倒的だ。鬼たちと対等以上に戦い、あの蜘蛛たちを相手に一歩も引かないのだから。
けれども、行く場所がわかるならば。
オヒトもまた走り始める。東の方、洞窟の方へ。