関は破れず
2017/06/04改稿終了
「まずは不破関を越えましょう」
志乃はそう言った。彼女は京士郎の前を歩いて、こちらを振り向くことはしなかった。
雲ひとつない快晴の下で、二人の影は伸びている。まだ日は昇ったばかりだった。
不破関を越える、それは旅立ったときの言葉の繰り返しだった。まずは東へと向かおうと。
京で有力な僧であるところの精山の行方を追っている志乃は、その足取りは東に向いていると突き止めることができた。
それはたまたま立ち寄った駅家|(道の途中にある休息所)で話を聞き、特徴の一致する僧が休んでいったことを知ったのだそうだ。その足取りは道に沿って東へと続いている。まずはそれを追おうと言うのだ。
なるほど、と頷いた京士郎は、今度は不破関について尋ねた。
不破関の名だけであれば京士郎も知っている。東へ進む道を閉ざす門であり、通行する者を取り調べたり、税を取るなどする場所だ。他にも、京士郎の暮らしてた村の近くには鈴鹿関というのもあった。
逆に言えば、その程度しか知る由がなかった。浮世離れしていたとはいえ、ただの一村民であればそれだけ知っていれば十分であったし、それ以上のことを知ろうとも思わなかった。
少しだけ教えてあげる、と志乃は言った。
「不破関はその昔、時の帝が、自分が経た大きな戦いを反省して作られたの」
その戦いとは、自分の兄の子との戦いであったのだと言う。
時にして壬申の折、本来であれば皇太子であったが、自分の兄より治世の術を託されていた子を推挙してその身を引いた。都から離れて出家したのである。
「それだけでは、争いの種にはならないだろう」
「ええ、ことはそれだけではない。もちろん、背景がある」
すべて、時の流れが左右していた。
大陸にある大国を参考にした制度を整えるにあたって、長子を嫡子とする制度を採るべく兄は動いていた。
当時は母の身分によって継承権が定まっていた。正当なる後継者であったのは弟の方だった。しかし、兄の強引な改革によって、その位を追いやられる形となった。
それを快く思う弟ではない。兄の政について賛同する部分もあったが、それは自身が後継者であればの話だ。
兄帝の崩御の後、出家して都を出た弟皇子は、手始めに地方の豪族たちをまとめあげ、反旗をひるがえす。
歴史に類を見ないのは、この戦が反乱側の勝利に終わったことだった。そして兄の施政を引き継ぎ、いや、その施政をさらに強いものとして確立させていったのだという。
京士郎は頷いた。事柄として理解はできたものの、納得のいかない様子だった。
「ただの兄弟喧嘩じゃねえか。他人を巻き込んで、ろくでもないな」
弟と兄ではなく、兄の子との戦いということで厳密には兄弟喧嘩ではないのだが、兄弟の関係をそのまま子にも引き継いでしまったという形になる。不幸だ、と京士郎には思えた。
それを聞いて志乃はむっとした。歴史にある戦いを喧嘩だと一蹴されたことは、まるで自分の信じていたものを馬鹿にされたように思えたからだ。
しかし、それはある意味で的を得た事実であったから、反論はしなかった。
「それで、不破関っていうのは、結局のところ何なんだ?」
「外に住む豪族たちが侵入してこないように、見張る場所よ」
「……はぁ? だって、その勝った方の味方っていうのは、その豪族たちなんだろ? それをなんでまた、締め出してるんだ。仲間じゃないのか」
「仲間なんかじゃないわ。一時だけ、仕えただけよ。朝廷に従ったわけではないのだから、当然のこと」
志乃は言った。その表情を伺うことはできない。
京士郎としては、とてもではないがそれは筋が通っていないように思えた。一緒に戦ったではないか。己の野望のために、使い捨てにしたのか、と。それが殿上人の考えというのなら、好きにはなれないだろう。
ただ、志乃の言葉から感情がごっそりと抜け落ちているから、深くは追及しなかった。
遠くに影が見えた。道沿いにある建物であるから、それがなんなのかすぐにわかる。
「見えたな。不破関だ」
「え? ……ぜんぜん見えないわよ。あなたの目、すごいのね、本当に」
「疑うなよ。いままで飯を見つけてきたのだって俺だろう」
「あれがご飯って!」
「不満か?」
「不満しかないわよ!」
わかってくれとは思わないけれども、と志乃は京士郎の方へと振り向いて言った。
なかなか目を合わせることのない志乃が京士郎を見るのは、決まって怒っているときだ。
志乃は京士郎の用意するものを挙げていく。猪や兎、鳥の類であればまだいい方で、蜥蜴などを出されたときには目も当てられなかった。
命を粗末に出来ない、と言って最後まできちんと食べる志乃であったが、できることであれば魚にしてほしいと願ったものだった。
獣などに貴賎はないし、それが魚か足があるかなど些細な違いだろう、と京士郎は思ったが、志乃にとっては大きな違いが存在するらしい。
腹に入ってしまえば同じなのに、と思うが、黙ることにした。
「元の姿もわからんで食ってたのか。貴族というのはよっぽど、お気楽なんだな」
「……私は貴族じゃないわ」
含みをもたせた口調だった。京士郎も、それについては何も言わなかった。
それもそうか、と納得はする。貴族の姫を一人で外を旅させるというのはよほどなことだ、という理解はある。
亡き母が、そうであったのだから。
やがて、不破関が近づいてきた。見れば兵士たちが手に槍を持って守っており、物々しい雰囲気を出している。
志乃は、さっと関へと向かい、衛兵たちに書状を見せる。
やりとりを傍目で見ていた京士郎は、志乃たちに不穏な空気が漂っているのを感じて、聞き耳を立てた。
すると張り詰めた志乃の声が聞こえてきた。
「不破関を閉鎖してるって、どういうこと?」
* * *
関が封鎖されている。しばらくの間、誰であっても通行はできないのだという。
「人が行方知れずに?」
「ええ。この関を越えた先の村で、いくつも起こっているそうよ。中には村の半分がいなくなっただとか。それで、その人たちを探したり、人攫いを逃さないように閉じているのだそう」
はあ、と志乃はため息をつく。
犯人が捕まるまで、とは言わないまでも、被害が落ち着くまでは閉じたままだろう、というのが志乃の見立てだった。
旅人だけではない。地方と京を行き来する使者である駅使であっても通行できないでいる。
旅立ってたかが数日で、手詰まりであった。
通過するために必要なものを一通り志乃は持たされている。通過による徴税を免れるための勅書であったり、もし必要ならといくらか金銭の代わりになるものをだ。
だが、そもそも通過することが許されていない、というのではどうしようもなかった。
「それはまた、どうしてだ」
京士郎と志乃は、関から引き返しながら話す。
志乃が帯びている精山の捜索は密命だった。探していると思われては精山はより逃れようとするだろうし、京士郎自身が思ったように志乃自身も一見すれば貴族と変わらないから、山賊などに狙われるのを避けるためである。
だが、それは関が普段通りに通行できるのであればの話だ。
通行できないようにと達しを出しているのにもかかわらず通してしまえば、志乃が特別であることを露呈してしまうことになる。
それは避けたい、というのが志乃の、そして志乃に命を下したという師の意向だった。
「めんどくさいな」
「そう言わないで。私たちの旅はあくまで、精山様を追うことが目的なのだから、細かいことで足止めをされるわけにはいかないの」
「それがめんどくさい、って言ってんだ。どっちが細かいことだよ」
京士郎にとってはいちいち許しを得て進む方が面倒なのだ。道を歩むことにどうして許しを得なければならないのか。
志乃たちの道理に従っていては、いつまで経っても彼女が追っている精山とやらに追いつけないのは目に見えていた。
すでに精山という僧は、不破関を越えているだろう。道沿いに東へと向かっているのだと思われる彼と出会っていないということは、そういうことだ。
まして、志乃は鬼に追われ京士郎の村でしばらく滞在した。その分、精山が先へ進んでいるに決まっている。
それがわかっていながら、どうしてここで立ち止まっていられるだろう。京士郎は志乃に対してそう思ったのだ。
だが、京士郎も気になる事情があった。道を急ぐ理由があるのだ。
それは、奈津とともに出会い、井戸について語ってみせた外套の人物のことだった。
京士郎にはその人物が、致命的な存在であると直感的に思っていた。
野放しにしてはいけない。言葉を弄して、唆して、望んでいない結末を招いてしまう。
そして、京士郎に隠されていることを知っていて、あえて黙っている。そんな気がしたのだ。
すでにそのことは、志乃へと伝えている。聞く話のみであったが、志乃は同感だと言った。
それは京士郎が彼女に同道を申し出た理由でもあった。
わかっているけれども、と志乃は言った。
なら選ぶのはひとつしかない。
「山を越えていく。迂回して、関を越えよう」
「……え、待って待って、それはだめ、だめ!」
京士郎の提案を、志乃は突っぱねる。
道から外れるなど、言語道断だ。
「だが、このままではいつまでたっても追いつかないぞ。少しでも手間を短縮すべきだ」
「それでもよ。道を外れてしまえば、戻るのも困難よ。道というのは、そういうものなんだからね」
まるで、弟の悪戯を諌める姉のようだった。
だが、それで収まる京士郎ではない。
「道ならすぐにわかる。方角さえ失わなければいいし、山の中であれば俺に勝る者はいない」
「それはそうかもしれないけど……」
志乃の言葉尻がしぼんでいく。
彼女は理解しているのだ。目的を第一に考えるのであれば、京士郎の判断が正しい。精山捜索を命じた師からは、周りに配慮せよという意向を伝えた一方で、追うための手段は問わないとまで言われている。
そして志乃には、本来であれば術の行使もあまり好ましくないにもかかわらず、鬼を退治するためとは言え、人前で駆使してしまった負い目もあった。
それでも、道を外れる判断をすぐにできないのは、志乃の意地であった。
「それに、だ。山の中にだって道がある」
「そこに住んでいる者にしかわからない、みたいな?」
「まあな。それに、山であれば俺もわかりきっている。存分に頼ればいい」
志乃の問いかけに、京士郎は頷く。
うー、と唸って志乃は悩んでいた。
ちらり、と背後を見た。関の方を確認した。
変わり者の二人組であったが、気が気ではない関の衛兵たちは、京士郎たちを気にとめる余裕もないのだろう。誰かが尾けてきている気配もない。
「……わかった。そのかわり、きちんと案内しないと、許さないからね」
一度決めると、思い切りがよかった。