旅立ちの日に
2017/06/04改稿終了
「…………」
大百足との戦いを終えて、少しが経った。
少女の手で札が貼られ、封印された古井戸を見た。
厳密には、古井戸のあった跡である。大きな穴を埋めて、そこに岩を乗せることで封印としていた。明らかに現れた大百足より小さな穴であったが、鬼とはそんな〈当然〉さえ覆してしまうものらしい。見た目に囚われてはいけないのだと、少女は言っていた。
戦いは京士郎の勝利に終わった。
幸いにして、大百足による村への被害は、家屋の破壊のみにとどまった。それは京士郎の家とて同じだったが、命あってこそである。
しかし、大百足との戦いで村人は誰一人として命を奪われなかったというのに、一人だけ欠けていた。
奈津がいなかった。
戦いから逃れるために一箇所に固まっていた鈴鹿村の者たちの中に、奈津の姿はなかった。最後に彼女を見たのは京士郎だった。
奈津の両親に聞かれ、京士郎は「やはり」と思った。
少女が言うように、大百足が蘇ったということは、奴が力を取り戻す要因があったということである。
それはかつて、大火事で井戸に飛び込んだ者たちであり、井戸へと投げられた思いである。そうして大百足は、その力を貯めていた。
そして、最後にその井戸へと投じられたのは、奈津だった。
何を祈ったのか。何を願ったのか。詳しいことは誰にもわからなかった。
ただ京士郎は、それは自分のことなのだろうな、と思っている。
いなくなった今だからこそ、口にできることがあった。
奈津が自分を気にかけてくれていたこと。寂しくないですか、と問いかけ、寄り添ってくれていたこと。
寂しくなんてあるものか。それは強がりではないはずだ。
だって、自分は化け物なのだから。お前たちがそう思うようにだ。
京士郎はそう思っている。
だが、自分はどんな顔で答えていたのだろう。
どんな顔で、奈津と向かい合っていたのだろう。
もしかすれば、彼女は死なないで済んだのではないか。そんな思いが、京士郎の胸に渦巻いた。毒のように、体を痺れさせていく。
封印の大岩の前に立つ京士郎は、顔を伏せて立ち尽くしている。
「京士郎や」
「……爺。家はどうなった?」
「うむ。村の者たちが直してくれると。これも京士郎、お前さんが村のために戦ってくれたおかげだ」
笑いかけてくれる養父を見る。
自分には、笑顔を向けられて許されるような道理はない。けれども、それがとても嬉しく、折れそうだった自分を持ち直させてくれた。
「奈津ちゃんのことか。残念だった……近くにいたのにな」
村の者たちには、大百足が現れたときの地震で命を落としてしまったのだろう、と少女が説明をしていた。
彼女とて、どうして奈津がいなくなったかはわかっている。戦いの最中で、彼女は京士郎が奈津のことを口にするのを制止していたことから、それは明らかだった。
それでも本当のことを言わないのは、奈津が大百足を蘇らせたという汚名を背負わせないようにする配慮だろうか。
「京士郎、やはり、この村を旅立ってはみないか?」
再び、養父は言った。
あの少女に言ったように、今度は京士郎に。
驚きはしなかった。そもそも、朝に家を飛び出したのも、そのことについて悩んでいるのが理由だった。
けれども答えはまだ出せていない。うやむやになったままだ。
「だったら、二人も一緒にだ」
「わしらはここに骨を埋めるよ。ここで生まれ、ここで育ち、ここで老いたこの身に、もう外の世界は堪えられないだろう」
「俺だってそうだ! ここで生まれ、ここで育った!」
「いいや、違う。ここで育ったことが、ここで終える理由ではないのだ」
珍しく強い口調で、養父は言った。
こんなに口数が多いことも、いままではなかったことだ。
「いいんだ。お前には、この村は窮屈だろう。とっくに成人も迎えているのだから、自分で決めるといい」
「爺。俺はお前が好きだ。婆も好きだ。奈津だって、嫌いじゃない。この村の奴らだって、とりわけ嫌っているわけじゃないんだ。だが、ここを離れたい、遠くへ行きたいという気持ちがある。すまない、すまない」
「優しい子になったのう。わしらのことも、奈津ちゃんのことも考えていたから悩んでいたのだろう? お前を育ててよかった。だから、行くがいい。そして帰ってきなさい。出て行って、帰ってくる。いつもお前がしていることだろう?」
京士郎は、瞳から何かが溢れてくるのを感じた。
これは涙というものだ。初めてのことだった。涙が何なのか知ってはいる。いつ、どうして流すのかも。だからこそ、認めることはできそうになかった。
「いいのか、俺は」
なんども言葉を堪えて、ようやく絞り出したのはそれだけだった。
俺は、物の怪の子だ。
人でなしだ。
奈津のことを助けられなかったんだ。
口にはできなかった。自分の好きな人たちが育てた自分は、そんなものではないと思いたかった。
養父の手が背中に触れる。
「誰がなんと言おうといい、お前は人の子だ。この爺の子だ。わしらは、お前が帰ってくる場所にいるよ」
京士郎は空を眺めた。
雲の流れが早い。地上は風は吹いていないというのに、空では違うようだった。
「爺……俺は、行く。あの女と、行くぞ。わからないが、そうするべきだと俺の中で何かが言っている」
眠っていた少女と話して。奈津と話して。鬼と、大百足と戦って。
この胸に芽生えたものは一体なんなのか、その正体を知りたかった。
「それが、お前が決めたことならば」
京士郎は頷いた。
養父は穏やかな笑みを浮かべている。
夕焼けが二人を染めていた。
* * *
京士郎は誰よりも早く起きて、村の真ん中で待っていた。
日が山あいから頭を出すとともに、少女もやってくる。
少女は京士郎の姿を見ると、少し不機嫌な顔を浮かべる。
「待ってたの?」
「ああ、決めた。俺はお前についていく」
京士郎には気になることがあった。
それはあの日、古井戸にいた者のことである。あの者が語った、願いが叶うという逸話を聞いたから、奈津はあのような行動にでた。
もちろん自分に非がないわけではない。けれども、もしかすると奈津がそうするとわかって言ったのではないのだろうか。そう思わずにいられない。
いったい何者なのだろうか。それを知ることが、何か大きなことに繋がる気がした。
そう伝えると、少女は渋々ながら納得したようであった。
「そういうことなのね。わかった。だったら、一緒に行きましょう。私もその人のことは気になるわ」
京士郎は目を閉じる。奈津の姿が目に浮かんだ。
敵討ちなどではないだろう。だが、彼女の死を忘れることは京士郎にはできなかった。
もしなにか願って古井戸へと向かったのだとしたら、せめてその願いが叶いますように。祈るわけではないが、そう思ってしまった。
はあ、と少女は大きくため息をついた。額を押さえて、言う。
「言っておくけど、私はまだ認めてないからね」
「構うものか。それに、その宝刀を使えるのは俺しかいないんだろう?」
決めろと言ったのはお前だぞ。
京士郎がそう言うと、少女はじろりと睨みつけてくる。
「でも、この刀は貸すだけだから。わかった?」
それでも彼女は、京士郎を拒むことはしなかった。刀を差し出してくる。京士郎はそれを受け取って、手に持った。
すると、今度は京士郎の養父母まで姿を現した。
その手にはたくさんのものが握られている。
「これ、黍団子。途中で食べなさい。きっと元気がでるわ。こっちは水筒よ。それでこれが……」
最後に取り出したのは、一枚の羽織であった。
真っ白で、上質な布であった。手触りからして違う。これはきっと、貴族の者が着るようなものだろうとわかる。
真っ白な布に、桃の花が描かれた羽織は、京士郎の身丈に合わせられている。頭巾もつけられており、自分だけのもだと思われた。腕を通せば、羽のように軽かったが暖かさを感じる。
「京士郎、あなたのお母さんが着ていたものなの」
「そんなもの、まだ残していたのか」
口ではそう言うものの、京士郎は養母の配慮がとても嬉しく思えた。
最後に二人は笑顔で頷いてくれる。
いつか、また。二人がここにいてくれるのならば。自分は帰ってこれるだろう。不思議とそう思えた。
刀を手に持って、京士郎は二人に背を向けた。
そこでは少女がすでに待っている。
京士郎はそちらへと踏み出す。振り返ることなく、まっすぐ。
「名前を教えてなかったわね。私の名前は志乃。よろしくね、京士郎」
少女に言われるまで、すっかり忘れていた。
名乗った少女の顔を見る。
すでに弱っていたときの面影もない。これが彼女の、本来の姿なのだろう。
京士郎は頷くだけだった。自分が名乗る必要はない。そして、志乃から何かを語ってもらう必要もない。
「まず、どこへ行くんだ?」
「東へ。聞いた話では、不破関の向こうに精山様がいらっしゃるそうよ」
日の出の方へと京士郎は向く。山間から昇るまばゆい朝日がそこにはあった。
この先にある不破関。京士郎はそちらへ足を向けたことはなかった。
未知の場所へ踏み入れることに、密かに心を踊らせる。
「参りましょう」
志乃はそう言った。凜とした表情を朝日が照らし、白く輝いて見える。
わずかに振り返った。自分の生まれ育った故郷であったが、思い出せることはあまりに少なかった。
ただ自分を育てた老夫婦がいて、自分を見ていてくれた幼馴染がいた。
胸の中で、息づいている。
具体的な出来事よりも、そのことの方がむしろ、京士郎には頼もしく思えた。
暁の立つ方へ二人は歩きだす。
この旅は果てしないものになる予感があった。
* * *
時は遡る。
大百足が現れるより前。まだ夜は明け切らず、空は明るくなりつつも、星は隠れていなかった。
奈津は古井戸の蓋を開ける。脆くなっていた札は、いとも容易く開けることができた。
大人たちがいかにだめだと言っても、こんなものなのだ。子どもが少し手を入れただけで、簡単に剥がせてしまう。
体を乗り上げて、奥底を見た。
光が差さないほど深い。もしかすると、この井戸は本当に地の奥まで続いているのではないか。そう思えるほどであった。
奈津は、京士郎とともに出会った外套の人物の言葉を思い出していた。
この井戸の底へと思いを届ければ叶う。
迷信かもしれない。でも、大人たちがこの井戸を封じているのに納得する理由だ。
ごくりと息を飲む。
京士郎の姿が目に浮かんだ。
とてつもない力を持ち、はるか遠くを見通し、恐ろしい雰囲気を持つ物の怪の子。
そして、弟の命の恩人で、本当は優しい人。
いまでこそ村でのけ者の扱いを受けているが、かつては仲良くしていた。
とても良い人であったように思った。力強く、思いやりがあり、真面目であったがときにふざけることもあった。皆の前を歩くような人ではなかったが、皆と一緒に歩くのを楽しめる人だった。
この貧しい村で無駄にできるものはひとつもない。物の怪の子と誰かが蔑んでいても、そうであるからと言って彼を無視することはできない。大切な人の一人であることには変わりない。
いつかきっと、村のしきたりに従って自分は彼と結ばれて家を持つのだろう。そう思っていた。歳の近い自分と京士郎は、誰に歓迎もされずに結ばれるのだ。
だから、彼のことを考えてしまう。せめて自分だけでも、と。
それは仕方ないことだと思う。
だから、こうして村の禁を破ってまで彼を願ってしまうのも、きっと仕方ないことなのだ。
「お願いが、あります。どうか聞いてくれませんか」
井戸の底へ声をかけた。
響いていった音に返事がかえってくるわけがない。けれども、奈津は続ける。
「京士郎さんを、一人にさせないでください」
自分では、彼のことを理解することはできない。
京士郎の持つ孤独を癒すことなんてできない。
弟の命を救ってくれた人なのに、自分が、自分たちが彼にしてきた仕打ちはあまりにひどい。
どうして彼だけが苦しまなくてはいけないのだろうか。どうして彼を苦しませなければならないのだろうか。
その苦しみから解き放つことはできない。少なくとも、自分の力では。
なにより、京士郎はそれを望んでいないだろう。
泣きそうになるのを必死に堪えながら「自分は物の怪だから」と言った彼は、そういう人だ。
怒ったりするし、悲しんだりするけれども、恨んだりはしない人だから。
「どうか、彼が笑える日がきますように」
奈津は祈った。誰でもいい。きっとそれは、自分の役目ではない。
だから、こうすることしかできない。
「喜べ、娘よ、その願いは叶う」
声がした。奈津が振り向くと、昼間に出会った外套をまとった人物がいた。
口元だけ見える。三日月のように口を歪め、にんまりと笑って、奈津のことを見ている。
ぞっとする。自分は手を伸ばしてはならない。耳を貸してはならない。
それは魔の誘いである。道から外れることである。
けれども、言葉を聞かずにはいられない。
それこそが自分が求めていたものなのだから。
「だが娘よ、お前が口にした願いに、その身をかけることはできるか? その井戸の底へ、身を投げることはできるか?」
身を乗り出す。もう一度、目をこらして底を見た。
何かがうごめいている。呼吸が止まった。まばたきでさえ上手くできているかわからない。
「私は……」
その願いは自分の命をかけるに値すると言えるだろうか。
自分は死ぬのかもしれない。
もしかすると、物の怪へと、鬼へと成り果てるかもしれない。
それでもいいのか。この声は、そう聞いているのだ。
「返答やいかに」
答えを急かされる。すぐさまに言えないのは、躊躇いからだと見透かされている。
奈津は頷いた。京士郎がそうしてくれたように、自分も命をなげうって応えるべきだ。
それは大きな間違いである。けれども、間違いとわかっててもなお人はそれを選んでしまう。
誰かに委ねる、ねだるとはそういうことだ。なにをされたところで、文句は言えない。
身を投げる。暗い底へと落ちていく。
「京士郎さん、これで……」
独りじゃなくなるね。
少女の優しい言葉は、京士郎には届かない。それでいいのだ。わからないままに、生きてほしい。
知ってしまえば、彼は後悔するだろうから。