断絶
2017/06/04改稿終了
京士郎は目を覚ます。
嫌な夢だった。寝汗をかいている。
自分でも驚き、夢であったことに安心し、そして呆れもした。
あんな昔のことを、とは思うが、その昔のことをいまでも引きずっているのは事実だった。
いいことをしたって、誰かを助けたって。
そんな思いが自分を付きまとっていた。
少女を救おうとしたときもそうだった。この子はきっと、自分のことを化け物だと言うだろう、と。
それでも助けてしまったのは、甘さだろうか。
わからないけれども、違っていてほしい、と願った。
寝ている少女を見た。
すやすやと、いまは心地良さそうに寝ている。あれだけ寝ていたというのに、まだ眠っていられるのかとむしろ関心してしまった。
あれほどの形相を浮かべていたが、寝ているところは穏やかだった。
出会ったときの衝撃は薄れてしまったが、こうして見ると綺麗だなと思う。
(馬鹿げたことを考えるな。もっと考えるべきことがあるだろ)
自分に言い聞かせた。
これから、ここを出て行くかどうか、決めなければならない。
一晩という時間を与えられたが、考えられずにいる。
そう簡単に決められることではないだろう、と文句を言いたくなったが、自分の中に迷いがあるのも事実だった。
迷うということは、わずかでも出て行きたいと思っていることである。
京士郎は思い立って、母の墓参りに行こうと思った。
少しでも思考をすっきりさせた方がいい。
家をこっそり抜け出せば、空はわずかに青かったが、夜明けまではまだかかるだろう。
「京士郎、さん?」
声がかけられる。
そこには奈津がいた。えらく早起きだった。少なくとも、こんなに早く活動する者を京士郎は知らない。
よく見れば、奈津の目の下にはくまがあった。よく眠れていないのだろうか。
「どうした?」
「いいえ、何も。ただ……」
奈津はぎゅっと、服を握った。
うつむいて震える。いまにも泣き出してしまいそうだった。
何かしただろうか、と思うも、自分を前にしてしまえば仕方ないとも思う。物の怪と、化け物と蔑まれるような者を前にして恐がらない方がおかしい。京士郎はそう納得する。
意を決したように、奈津は顔をあげた。
「京士郎さんは、寂しくないですか?」
「……どうしてそんなことを聞くんだ?」
「それは……なんとなく、です。ごめんなさい」
「謝らなくていい」
そうか、俺は寂しそうに見えるのか。
京士郎は小さくつぶやいた。
奈津には聞えなかっただろう、首を傾げて不安そうな顔をしている。
苦笑して、京士郎は答えた。
「寂しくはないな」
「そう、ですか」
奈津はまた、うつむいた。
どうしたのだろうか。こんな彼女を見るのは初めてだった。
あのとき以来、彼女と長くいたわけではないが、腐っても同郷の者である。通じるものはあるように思っていた。
「じゃあな、母さんの墓参りに行ってくる」
「あ、はい。……お気をつけて」
奈津に背を向けて、京士郎は走り出す。いったいなんだったのだろうと後ろ髪がひかれたが、振り返ることはしなかった。
空を見ながら、山へと潜っていく。誰も踏み入れない方へと進む。
ここ数日と同じように、天狗は現れてくれなかった。こういうときこそ出番だろうに、と愚痴るも虚しい。
廃寺に着く。埃と木の臭いが混ざっていた。
手早く、京士郎は母の墓の周りを片付けていく。落ち葉や枝を取り除いていく。
母の墓は、廃寺の仏壇に置いてある少し大きな石だった。
名前はわからなかったから刻まれていない。
そこに京士郎は両手を合わせた。これが作法だという風に言われた。
ここを離れられない理由は、母の墓にもあった。
京士郎がいなくなれば、誰がここに来るのだろう。
誰が彼女を覚えていられるのだろう。
それに、養父母は子も孫もいない。彼らを残していくのだろうか。
寂しくさせてしまうのではないだろうか。
「なあ、俺はどうすればいい?」
問いかける。それは眠っている母へ向けてか、それともここにはいない天狗に向けてか。
答えなければいけないのは、自分自身だというのに。
これだけ、ここにいるべき理由はあるのに、どうして出て行きたいと思っているのだろうか。
それは、村の者たちがいるからか。自分を揶揄する者たちがいるからか。
(いや、それはない。あってはいけない)
逃げるわけではないのだから。
それに、逃げてついて行くと決めることを、彼女は望まないだろう。
殴ってでも止められそうである。
あの少女のことを思い浮かべた。
寝ている姿は日の光を待つ朝顔を思わせていたが、目を覚ませば驚くほど感情が豊かだった。
ううん、と唸る。彼女の存在が、京士郎のどこかに引っかかる。
この感情の表現の仕方を知らなかった。
「馬鹿だな、俺は。やれやれだ」
そう言うやいなや、廃寺を出ることにした。
日がわずかに登っている。
心地よい日の光を浴びて、体を伸ばした。
そのときだった。大地が大きく揺れた。
最初は一瞬だったが、少しずつその間隔は大きくなっている。
地面に手をついて揺れに耐える。少しして収まり、息を吐いた。
「地震か……!?」
大地が揺れることをそう言うのだ、と天狗はそう言っていた。
年に数度感じるが、ここまで大きなものは初めてだった。
京士郎は慌てて、村の方へと向かっていく。
木々を一足で跳び越えていった。いまは一刻でも時間が惜しい。
村は、養父母は、少女は、どうなっているだろうか。
山の中腹から、村が一望できた。
いくつか火の手が上がっている。朝餉の準備をするために火を使っていたからだろう。
人々は村の真ん中に集まろうとしている。
「どこだ……どこにいる……?」
じっと目をこらす。
その中に養父母と少女の姿もあったのを確認して、京士郎は安堵した。
自分も早く、あそこへ向かわなければ。きっと養父母は心配しているだろう。
だが、京士郎は再び、嫌な予感を覚えた。
その感覚は数日前のものと同じ。
あの少女と出会って、鬼と戦ったあの時と。
そしてその感覚がするのは、古井戸だった。
がたん、と大きな音が鳴った。
異変に気づいたのはおそらく、古井戸を見ることができた京士郎だけだろう。
「蓋が開いてる……?」
古井戸を使えないように塞いでいたはずの蓋が開いていた。
その口からは、瘴気とも言うべき紫色の霧が溢れている。
「まずい!」
京士郎がそう言って飛び出すのと、古井戸から〈それ〉が現れるのは同時だった。
古井戸を壊して現れたその姿は、巨大な影だった。
真上に打ち上げられたように伸びた姿に驚き、そしてそれがとぐろを巻いているのを見て、瞠目する。
全身は黒く光っている。足が無数にあり、無秩序に動いていた。
顎は大きく割れていて鋭かった。瞳は黄金に輝き、その頭には角が生えていた。
その姿は、まさに鬼だった。
京士郎は、鬼とは人に近い姿をしているものだとばかり思っていたが、そうではないようだった。
いま目の前にいる大きな影は、京士郎の目には百足のように見えた。
大百足、と呼ぶのがいいだろうか。
巨体を見上げて、京士郎は身構える。大百足もまた京士郎を捉えた。
「っ!?」
瞬間、間すらおかず、凄まじい勢いで大百足が迫る。
京士郎は反射的に飛び退いた。
大きな音を立て、地面を抉る。その光景は恐ろしいもので、もしあの場にまだ自分がいたら、と思えば震え上がりそうであった。
着地した京士郎は、大百足の追撃を見て、躱していく。俊敏な動きだ。図体の大きさはそのまま速さにつながるが、この大百足はそれだけではない。反応も早ければ、転換も早い。
拳を叩き込むべく京士郎は構えるが、大百足は図体はあげた。高くへ頭を置いて、京士郎の動きをけん制する。
宙空では京士郎はいい的になってしまう。かと言って、無数にある脚を相手にするのは分が悪い。
一つにでも捕まってしまえば、体が引き裂かれてしまうだろう。
そんな光景が目に浮かんだ。
「まさか、あの古井戸はこいつを封じ込めるものだったのか。この地鳴りの正体も。地の底で蠢いていた虫が、一丁前に鬼の顔をしやがって」
京士郎はそう言って、大百足を睨みつけた。
きちきち、と笑っているつもりなのだろうか。顎の奥にある口が音をたてている。
不快だ、と言ってしまえばそれまでだ。だが京士郎は、この大百足に不快さともう一つ、別の感覚を覚えている。
(あれは、なんだ。見たことのないようで、あるもの……?)
懐かしさにも似たような。それでいて、ずれているような。
そんなものがたくさん重なっている。
京士郎の瞳は、それを明滅する光として捉えていた。
正体はわからないが、それらは大百足の中で暴れているように見えた。
すぐに視界は元に戻った。
時さえ止まった感覚から戻される。一瞬だけ呆けるも、気を取り直した。
そこで大百足は、思いもしない動きに出る。
村の真ん中の方へ。その先には養父母や、あの少女のみならず、村の全員がいた。
「させるか……!」
地面を蹴る。あまりの力に地面が爆ぜるも、それすらも勢いにして跳んだ。
京士郎は大百足を追い抜かして、二つの顎を手でつかんだ。
地に脚をつけ、突進を止める。
足を擦る音と抉る音が一緒に聞こえてくる。京士郎の足は地面に埋まり、引きずられた跡を作っていった。
力の限り踏ん張った。脚にも腕にも腰にも力を入れた。
あちこちが悲鳴をあげるも、無視する。
ここで止められなければすべて終わりである。村の者たちの命が奪われてしまう。
今朝に見た夢を思い出した。だけれど、自分を止めることはできなかった。
圧倒的な力を持つ大百足に為す術はない。
正面から迎え撃つこと以外にできることを京士郎は知らない。
けれども、だからと言って諦めるのも嫌だった。
目が合った。黄金の瞳が京士郎を再び見た。
視線を逸らしてたまるか。負けたりはしない。負けて、たまるものか。
京士郎の赤い瞳に火が灯る。
歯を食いしばって、力の限りを尽くす。
「おおおおおおおおおっ!」
吠える。響いた京士郎の声に応えるように、身体は力を増した。
大百足が怯む。そうして生まれたわずかな隙を、京士郎は逃さなかった。
自分の頭を大きく振りかぶって、思い切り叩きつけた。
鈍痛がする。鬼だからか大百足も硬い皮膚を持っている。額を切ったのか、自分の視界に血が映った。
だが、それに見合った成果を得る。大百足は仰け反って動きを止めた。
急に止まれない京士郎はそのまま飛ばされるも、どうにか体勢を整える。
大百足を見上げた。鎌首をもたげている。大きく開いた口に、京士郎は悪寒を覚えた。
そこから液が飛ばされた。百足は毒を持っている。それを吐き出すということは考えられないが、相手は鬼だ。自分の知識がどれほどあてになるか。
予想もしなかった攻撃に、京士郎の足は止まる。
このままでは避けられない。とっさに腕で自分を庇ったが、どれほど意味があるのか。
「我は其の境界を超えることを禁ず、我は其を拒絶する。急々如律令!」
声が響いた。
目前に迫った液が、透き通った壁に阻まれる。
弾けた液が地面につくと、煙をあげた。地面が溶けているのだ。
そのことにぞっとして、自分を助けてくれた人物を見た。
「やれやれ、危なかっしいわね。見ていて冷やっとさせられた」
京士郎の横を、符が飛んで行った。透き通った壁に張り付き、補強される。
「でも助かったわ。あんたが止めてくれなかったら間に合わなかったもの。ありがと」
そう言ったのは、刀を携えた、京士郎が連れ帰った少女だった。
京士郎の元に歩み寄ると、隣に並んだ。
そのことで京士郎は安心感を覚えてしまった。