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天斯流転  作者: ジョシュア
序章:人ぞささやく、汝が心ゆめ
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人ぞささやく、汝が心ゆめ

 女の顔を見るのはなにも人だけではない。なんてことをふと思ってしまったが、それは当たり前のことだ。

 秋月が空から見下ろしている。それをじっと、見つめ返した。

 京の都から東に少し離れた里、その国司がおわす屋敷の廊下から、一人の女が月を見ていた。

 女は姫であり、田舎には似合わぬ儚げな美貌を持っていた。

 少し寒くなってきた風が、宴で火照った体には心地よかった。はあ、吐いた息は白くはならないが、じきに冬がやってくるだろうことはわかる。

 ともに楽しめる者でもいればよかっただろうが、こんな田舎では簡単に集まったり、書のやりとりをするわけにもいかなかった。

 それが京で生まれ育った女にとっては、この地での生活は退屈で仕方ないものであった。

 そして何よりも腹立たしかったのは、先ほどの宴でのことだった。


「お父様、どうしてあのような……」


 姫はそう言った。父はここに任官された者であった。

 いまもまだ、この地の名主たちと酒を酌み交わしているだろうか。

 なにを話しているのか気になるが、これ以上その言葉を聞いていられないのも事実であった。

『そちらのご子息も、そろそろ婚姻を考える時期であろう。うちの娘はいかがだろうか。我が娘ながら、器量の良さにかけては京でもそうそういるものではないと思っているのだが』

 思わず、制止の声をかけようとしてしまった。笑顔に隠された、名主たちから向けられた下卑な目に耐えられず、黙って宴を抜け出してしまった。

 もしあのまま話が進んでいればと思うと、身の毛もよだつ思いだ。

 近頃、天下ではたくさんの事変が起こっている。

 殿上人の失政が続き、寺社仏閣が力をつけはじめてきている。彼らに対抗するために貴族たちはこぞって武士を雇いはじめたが、小桃には、今度は武士たちに脅かされるのが見えていた。

 いまに、彼らが自分たちと同じかそれ以上の力をつけるだろうことは、考え難いことではない。

 だからと言って、ここらの名主といえど、野の武士と婚姻の話を持ちかけるなど、とうてい許せるものではなかった。

 月明かりで青く染まってる庭を見た。

 初めのころは、京に暮らしていたときと同じ庭だと喜んだものだが、次第にそれも飽きてきてしまった。耳に聞こえる虫の音も、どこかわずらわしくさえ思えた。


「あら?」


 木の隙に、狐が見えた。どこからやってきたのかはわからなかったが、こうして出会ったのもなにかの縁だろう。

 ふふっ、と少しだけ笑って、小さく声をかける。


「どうしたの。寝られないのかしら。私もなのよ」


 狐のことなど知らないが、女はそう言った。逆に狐も、人の言葉など理解していないだろう。


「ねえ、あなた、おうちはどこ? この裏の山かしら。だったらまた会える?」


 声をかけられた狐は、首を傾げるといなくなってしまった。

 つまらないような、これでよかったような。不思議な思いを抱く。きっと家族の元へ行ったのだろうと思うと、微笑ましくなった。

 狩りや罠で捕まらないようにね、と聞こえないだろうがささやいた。

 ちょっとだけ、心が安らいだような気がする。頬が緩むのが感じられた。

 襖を開けて、自分の部屋へと入った。


「遅かったね小桃こと、待ってたよ」

「…………」


 その男を見て、そして名を呼ばれて、少し驚き、先ほどとは違うため息をついた。そういえば、この人がいたんだな、と悪態をつきたくなったが、はしたないとやめた。

 そこにいたのは、赤い瞳を愉快げに開いた男だった。髪は白く、奇妙な者である。

 さらに言えば、女のことを小桃と名で呼び、勝手にその部屋に上がりこむなど不躾な者でもある。


「私は寝とうございます。三輪さま、そちらをどいてもらいませんか?」

「先ほどは寝られないと言っていたのに?」

「きっと空耳です」


 どいてくださいますか? と小桃は微笑んだ。凄みのある笑みだった。

 やれやれ、と言って三輪と呼ばれた男は部屋の隅へと向かう。なおもそこにいるのを見て睨みつけると、すごすごと部屋を出た。

 寝支度を整えて、どうぞと呼びかける。こうして男を部屋に招き入れるのは恥ずかしいことであったが、三輪には不思議と許してしまっていた。

 彼の浮世離れした佇まいが、小桃にもそうさせていた。

 御帳台に敷かれた帳の向こうに、人影が見えた。三輪が入ってきたのだろう。


「僕は寒いのが苦手なんだ」


 彼はそう言って、少しだけ唇と尖らせる。

 知りません、と言って小桃はよそを向いた。


「だったら、自分の家できちんと温まってから来てください」

「今日は君が遅かったからよくないんだ」

「仕方ないですよ。今日は父が開いた会なのです。私が行かないわけにはいきません」

「君が望んでもいないことなのに?」


 すっと、三輪の瞳が細まった。小桃は少しだけ驚き、その視線が怖くなった。

 どうしてそこまで知っているのだろうと思ったが、三輪の前では隠し事はどうしてかできないと思い出した。それか、自分があまりに表情に出していたのだろう。

 だがすぐにその気配を弱めると、三輪は言った。


「そんなことはいいんだ。今日はどんな話をしようか」


 にこにこと笑みを浮かべる三輪に、ほっと胸をなでおろす。

 三輪は得体が知れなかった。まだ暑い季節が来る前のある日、ある晩に現れ、三輪と名乗った。

 やがてよくやってくるようになった。そして小桃と少しだけ話して、彼の知っている〈おはなし〉を聞かせてくれた。小桃は気づけば寝てしまって、その間に帰っていく。

 どこの誰かもわからない。小桃が顔を知っている男と言えば父と兄弟、そして先ほどの名主たちくらいのものであるが、見目は誰よりも美しく思われた。

 それはとても妖しい美だとも思った。


「どうしたんだい、そんな見つめて」


 少し困ったような顔をして、三輪は言った。はっとして、小桃ははたはたと手を振る。


「決してそのような……不快になられましたか?」

「まさか。女性に見つめられて、嫌な気分になるのはよほどの変わり者だろうさ。ああ、変わり者と言えば」


 そんな風に、三輪は小桃のささいな言葉から話に繋げていった。


 この日のお話は、都がまだ違う場所にあったころ、ある女に恋をした和邇わにの話であった。ある山里に美しい女がいた。その女にはたくさんの婚姻の話があり、近々まとまるのではないかという噂があり、どの男も躍起になって女に贈り物をした。

 ある日、その噂を聞いた、悪さをすることで有名な和邇は、住んでいた海を離れて川を遡った。しかし、和邇が海を離れ川を上るなど不吉の兆しなのではないかと恐れた女は村の者に頼み、川は大きな岩によってふさいでしまった。

 和邇はそれから何度も訪れ、その岩を越えようとした。「なにゆえ私を拒むのか」と和邇は問うた。女は言った。「和邇のことはわからないのです」と。

 結局、和邇は女に会うことすら最後まで叶わなかった。

 女は岩を置いた力強い若者と結婚し、その和邇は丁重に葬られました。

 めでたしめでたし。


 話を終えて、少しばかり時間が経った。まばたきを繰り返して、三輪を見る。


「悲恋のお話?」


 小桃は言った。三輪は首を横に振った。


「山は山の者と、海は海の者と結ばれるしかないってことさ。身の上下ではなく、その身のおかれた場所に合わせてね」


 なるほど、と小桃は頷いた。その身はすでに敷いた衣服の中に入っていた。

 身の丈にあった婚姻。それが小桃を悩ませた。

 自分にとってそれはどういうものなのだろうと考えたこともなかった。例えば、父が右大臣でもあればいずれは帝の妃として嫁いだのであろう。

 地方へ任ぜられた国司の娘である自分にはどんな人物がいいのだろうか。少将、などを夢に見ることだってあるが、このままではここらの名主との婚姻だって考えられる。

 だが、ことは簡単ではない。人には情がある。結婚をするならば愛されたいと思うし、また自分が愛した者であったならば、それは幸せなのだろうと思う。

 かつて姉のように慕い、嫁いで行った友人も「女の身は貧しさよりも寂しさに弱い」などと言っていた。

 どうにも自分の未来をうまく想像できないでいる。それは逆に言えば自分が思いもしなかったようなことが待っているのだ、と思うと楽しみにも不安にもなってもいる。

 例えば、目の前にいる男がいまここで、自分の手を引っ張り……。


(なにを考えているのだろう、私は)


 頭を振って、その考えをどこかへと追いやった。

 三輪が微笑んだ気配がした。じっと小桃は三輪を見る。


「でもね」


 そう言って、三輪は吐き出すように、あるいは願うように言った。


「そういう恋も、素敵だなって思うときはない? 思わず川も滝も登ってしまうような、恋。変わり者と言われてもね」


 小桃は、小さく頷いた。間違いなく、それは素敵な恋なのだと思った。


「三輪もそんな恋をしたことがあるのですか?」

「どう思う?」


 その返しは卑怯だ。小桃は思った。

 なんと言ってもはぐらかされてしまうだろう、とわかってしまったから、もう話す気もなかった。

 ただ、いつもと三輪の様子がどこか違っていて、それだけが気がかりであった。いったいどうしてしまったというのだろうか。

 意識が沈んでいく。疲れたからか、心地よい眠気に襲われた。

 おやすみなさい、と独り言のように言った。おやすみなさい、と聞こえた気がした。

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