⑪―4
「ちぇっ、ちょっと教えただけですぐうまくなりやがって」
トイレで用を足している最中、俺は口を尖らせていた。
TODというゲームにおいて、「プレイのうまさ」は「タイピングのスピードと正確さ」にニアリーイコールで。
よってゲーム初心者のメメメでも、初っ端から異常な強さを発揮するのは不思議なことではなく、実際その流れは予測していた。
――――んだが、まさか俺の出番がなくなるほどとは。
ズボンのジッパーを持ち上げ、洗面所の液体石鹸をプッシュする。
手を揉むとべとべとしていた表面が泡立って気持ちいい。
「ムカつくわー」
まー要は小さな島国日本、の小さな器の日本人、の中でも更におちょこの直里君はせっかくホームに帰ってきたのに活躍シーンがなくなってブーたれているのでした。
「……メメメが楽しめるならそれで良しとするしかないか」
ジャーという水の音。汚れを乗せた泡が排水溝に呑み込まれていく。ペーパータオルは置かれていなかったので手を振って水気を飛ばし、フロアに戻ろうとした時、俺ははっとした。
「……あっ」
東京オリンピック並みに来ない「女子と手を繋ぐ」という激レアイベント。それが舞い降りたというのに、あろうことかその手を洗ってしまった。しっかり石鹸まで使って。
「……もったいな――くないっ!」
言いかけて、言い直す。別に相手はメメメだろ。手洗い正解、石鹸正解、つまり俺正解。とは思うのだが胸の中にある残念感が完全に消えることはなかった。
「いや、この残念感も錯覚だ。錯覚錯覚――サッ?」
向かう先にあるものが視界に飛び込んできて、俺は唖然として立ち止まった。
TODの筐体が置いてあるエレベーター横の一画。
その周囲を数体のリトルグレイが囲っていた。
……む、これはどうしたというのだ。
「……スゲエ」
「コノショウジョ。カミスギル」
グレイたちから驚嘆の声が上がる。
その目線はTODのゲーム画面に向いていた。
……くっ! 俺は瞬時にその意味に気付き、足早にメメメの元へと戻る。
メメメの神業プレイにギャラリーが寄ってきたのだろう。
対人恐怖症のメメメが、こんな大量の視線に囲まれて平静でいられるわけがない。
「メメメ、大丈夫……あれ?」
流れ的に「ううう」状態で縮こまっているメメメの姿を想像していたのだが。
「あのー、メメメさん?」
俺が声を掛けると、メメメは膝の上に乗せた自分のノートPCから目を離して、俺を上目遣いで睨みつけた。
「お、遅いぞ、何やってんだ直里」
「悪い悪い……ってお前こそ何やってんだ?」
「レポート」
と言ってノートPCの向こうに腕を伸ばし、TODのキーボードをカタカタと叩く。ゲーム画面に現れた敵がバタバタと倒れると、何でもないかのように自分のノートPCのキーを打ち始める。
なんということでしょう。この少女、TODを「ながら」でプレイしていたのです。
「なるほど、短時間でギャラリーが集まるわけだ」
「ん?」
「いや、何でもない」
「……それって背後のグレイたちのこと?」
「……き、気付いていたのか?」
「う、うん」
あり得ないことだった。メメメが他人の視線を浴びて平気でいられるなんて。電子レンジでチンしたらご飯が冷凍になって出てくるぐらい不可解な現象だ。
ひょっとして俺がトイレに行っている間に、時空が捻じ曲がって世界の理が変わったのか? それともここは五分前にいた世界とは似て非なるもう一つの次元の……いやいやいやいや、違う違う違う違う。 びっくりしすぎて治療したはずの持病を再発させるんじゃない。
「……見られてて平気なのか?」
さりげなく尋ねてみる。するとビクッと肩を震わせてメメメの手が停止した。
「へ、へへへーき」
あれ、なんか平気そうじゃないぞ。
こっちを見ずに答える声は不安げだし、よく見ると足の指がせわしなく動いている。
「……お前、怖がってるだろ」
「そんなことっ! ……忙しくしていれば意外と大丈夫、っぽい?」
「ふーん。だからゲームの間にレポート挟んだのか。それって結局、自分が怖がってるっていうのを認めているってことだと思うけど……」
「……ううう」
辛そうなその表情はマンガだったら目の下に青線が入るところだな。
「直里のアンポンタン。せっかく頑張って我慢していたのに……」
「いや無理しなくて続けてなくてもいいんだぞ……あくまでもゲームだし」
「でも続けないと死んじゃうじゃないか。それに……」
メメメはそこで口を閉ざしてゾンビを打ち倒す。
「……ここまでしたのにまた逃げるなんて嫌だもん」




