unlucky day
あのね、お兄ちゃん。
彼女にそう呼ばれたときはいつも、よくないことが起こる。
さわやかな風が吹いている。風は若草の香りを運び、あたたかい日光を浴びた花が揺れている。
「あのね、お兄ちゃん。」
この素晴らしい日に、どうして呼ばれてしまうのだろう。
「一つお願いがあるんだけど。」
ああ、これで今日の平和は終わった。
「私、ツクシが食べたいの。」
ツクシ? ツクシって、ああ、シダ植物のあの土筆か。何故土筆なんだ。春の味覚ではあるのだが。
「そうねえ、珍しいツクシが良いな。」
珍しいって、たとえば?
「たとえば……。」
考えている……。彼女は、妹は恐ろしい想像力の持ち主である。理解不能な答えが返ってくるに違いない。
「あ、ピンク色のツクシ!」
……は? ピンク色だって?
「そう。ピンク色のツクシよ。食べたらお姫様のように可愛くなれるに違いないわ。」
ああ、何と答えるべきなんだ。何故だ。何をどう考えたらピンク色の土筆が思い浮かぶんだ。
「あら、本気で言ってるのよ。」
妹は笑ってそう言う。
「じゃあ、お願いね。」
お願いね、じゃない。お願いされても困る。
妹は小悪魔のように微笑むと、ふわりと姿を消してしまった。
俺たちは、ずっと二人だった。俺は普通に年相応の生活を送ってきたが、妹は違う。妹は、どうも頭の出来が良すぎたようで、年の近い子供たちとは全く気が合わなかった。ありとあらゆる学問を簡単にこなしてしまう妹は、彼らにとっては尊敬の対象であり、同時に嫉妬の対象でもある。普通の人間には見えないものを見ている妹がどこかずれた発言をするのは、ある意味自然なことかもしれない。しかし、そのことは妹を世間嫌いにさせた。妹は、必要に迫られたとき以外、自分の家を出なくなった。本人は「あたしはエネルギーを頭に使っているから、運動なんていらないのよ。」と笑うが、本当は違う。部屋の外の世界が怖いんだ。出られないのだ。今の彼女にとって、家の外は未知の世界に近い。想像の世界では、きっとカラフルな土筆がにょきにょきと生えているのだろう。
妹の頭の中はそうかもしれないが、当然ピンク色の土筆など存在しない。ピンクにしたければ普通の土筆に絵の具を塗れば良いが、「食べたい」と言っている以上、それは不可能だ。どうする、俺。
とりあえず、普通の土筆を探しに出かけることにした。
五本くらいは簡単に見つかるだろうというのは誤算で、探す場所が悪かったのか、どこにも見当たらない。ほかの雑草は嫌というほど生えているのに。土筆を探すのに夢中になっているうちに、俺は知らない場所に迷い込んでいた。風が通る森の中の、延々と続く一本道だ。先程までいた日なたはかなり暑かったのだが、木陰は涼しい。そういえば、この時季は日当たりの悪い斜面で見つかるかもしれないと妹が言っていたと思う。そうだ、このあたりを探そう。
普通の土筆は簡単に見つかった。どうも探す場所が悪かったようだ。二人で食べる分には問題ない。
そう、問題と言えば、ピンク色の土筆だ。想像で言ったものだろうが、最初から探す気なしで帰るのも申し訳ない。かといって、茶色い土筆をピンク色に塗るのは嫌だ。いくら変わった思考を持つ妹でも、ここまで常識離れした発言をしたことはなかった。何か意図があるのかもしれない。
異変に気付いたのは、その時だった。一本道はまだ途切れない。けれども、周りの様子は迷い込んだ森とは明らかに異なっていた。
緑の木々は、カラフルな花をつけた、春というものをそのまま形にしたような木々に変化していた。青々とした草も、春の花になっている。俺は、何が起きているのか理解できず、驚きのあまり棒立ちしていた。探せばカラフルな土筆も見つかりそうな、おとぎ話の世界のようだと思った。
きっと、これが妹が想像している世界なのかもしれない。俺は、あまり現実的なことは話さなかった。現実が嫌で家に閉じこもってしまったことを知っているからだ。これ以上、妹が傷つく姿を見たくはなかったし、傷つけたくもなかった。下手に現実を思い出させるのは妹にとって悪いストレスでしかないと、俺は思っていた。けれども、現実から離れすぎたために、妹は現実に戻れなくなった。これは、そのことの表れなのかもしれない。
ここはとても平和で、あたたかい。
あのね、お兄ちゃん。
私、土筆が食べたいの。
きっと妹は、ピンク色の土筆など存在しないことは知っている。食べたいというのは、現実にあるものを持って来いという意味でもある。ピンク色の土筆が食べたいとは言ったが、本当は現実が見たかったのだろうか。
土筆は茶色、という現実。
俺が生きている、現実の世界を。
気が付くと、俺は家の前に立っていた。用意していた袋には、採った土筆が入っている。何が起きていたのかはよくわからないが、とりあえず土筆は手に入れた。卵とじにでもして食べよう。
「うーん、やっぱり土筆は茶色なのね。」
妹は、少し残念そうに言った。
「あれ、もしかして、本気でピンク色のを探してた?」
当たり前だ。結構大変だったんだぞ。
「ピンク色がいいっていうのは嘘だったんだけどね。別にお姫様みたいに可愛くなる必要もないし。」
は? 嘘だって?
「うん、真っ赤な嘘。そっちの方が面白いかなって。」
ああ、これだから困る。俺は苦労したし、いろいろ悩んで土筆を採ってきたはずなんだが。「面白い」の一言で片づけられるとは。
「エイプリルフールだからちょっとくらい嘘ついてもいいでしょ?」
いや、もっとましな嘘にしてくれ。頼むから。
「だって、お兄ちゃんに外出してもらわなきゃ意味がなかったもの。」
それならほかの理由にしてほしかった。
「だって今日は、お兄ちゃんの誕生日じゃない。」
……ああ、そういうことか。
「忘れてたのね。まあいいけど、ケーキ焼いてるから、あとで食べようね。」
あのね、お兄ちゃん。
彼女にそう呼ばれたときはいつも、よくないことが起こる。
いや、前言撤回。
今日は、いい日だ。