第五話 死の森を考える
魔王領『死の森』。
クライドが所属しているリグルア帝国西部に広がる禍々しい名を持つこの森は、人の領域と魔物の領域を明確に分ける役割を果たしている。
非常に豊かな恵みを持つ森ではある。
強い魔力に常に覆われているため、魔術や医療に必要な希少な薬草は取れるし、美味で知られる木の実や、一頭取れればそれだけでも多額の利益が出る大型の獣も存在している。
ただし、多くの人にとってはこの森はただ忌まわしいものでしかない。
真昼ですら暗いこの鬱蒼とした森には無数の魔物と魔獣、毒虫や食人植物などが存在しているからだ。
リグルア帝国西部の住民達は建国当時から、常にその脅威に晒されてきたと言っていい。
しかし、人はこの森に対して強硬な手段を取ることは出来なかった。
魔物達からの報復を恐れたからである。
事実、死の森に人が踏み込み、魔物を殺した場合の反応は激烈を極め、開拓村が全滅するなどの被害が出ることも良くある出来事と言えた。だが、森に入らなければ村を維持していくことは難しい。
西部の領主達は私兵や冒険者を抱える事で領土を保っていたが、当然それは多大なる負担となり、領内経営を圧迫する。そして、それは重い税負担として住民に伸し掛かり、領地の発展を妨げてきた。
統治の困難な領域であり、内乱において財政に不安を持っていたこの地方の領主達は初期の段階で、最終的には敗北した二つの陣営に援助を求めていたが、そのどちらもに無視されている。
結果的に内乱中には魔物の被害は激減していき、破滅の心配は杞憂に終わったのだが、だからといって西部の領主達がその扱いに納得していた訳ではない。
この不信が西部の殆どの領主達に中立の姿勢を取らせ、結局、勝者となった第三勢力のフォルニア皇女派の牙城となったのは皮肉な話であった。
そんなある意味クライドの一族にとって転落の切欠となった、物理的にも因縁的にも深い森の中をクライド達は進む。
拍子抜けする程にのんびりと。
「どうやって作ったんだ……これ」
クライドは思わず立ち止まって呆然と呟く。
死の森へと続く踏みならされた草むらを超えた先には、どこまでも続く一本の大きな街道が姿を現していた。
視界の果てまで真っ直ぐに貫くその道は馬車がすれ違える程の広さがあり、しっかりと土は押し固められていて雑草の一本も生えていない。
周囲の木々の密集した生え方から考えれば、道のあった場所にも同じように無数の木々が生い茂っていたはずだが、切り株すら見当たらなかった。
皇都へ続く道と質も幅も殆ど変わらない。
クライドは驚きと共にそう判断する。
危険な魔獣が無数に居座るこの深い森の中に、人の手でこんな大掛かりな道を作ろうと思えば何年掛かるのか……なまじ知識のあるクライドには想像も付かない。
「大きな道は皇帝陛下が……わぉ……造られたのですが、何かおかしいですか?」
「あー……どうしてこんな道を?」
「えっと、クレリア様は……えっと、ごめんなさい。ローゼンさん……わぅわぅがうがう、わぉーんわぅわぅ。がうがう。わんわん!」
「仕方がないな……クライド殿、すまぬ。セレナディア殿は聞き取りは大丈夫だが、難しい言葉はまだまだでな。無理な場合は我が通訳する。クレリア様はこの道を元々補給路として作ったのだ。戦争に必要な大量の物資を運ぶには、この森は不便極まりないからな。だから、主要な街に物資が運びやすいように、皇帝陛下の能力を使って道を敷いたのだ。そのため、この道は色んな場所に通じている」
銀髪のハーフエルフ、サーシャが担いでいる背中の大きな籠の中で通訳をしているペンギン、ローゼンの言葉に、なるほどとクライドは神妙な表情で頷く。
内心では別の悩みから、どうしたものかと奥歯を噛み締めて困惑していたが。
(モフモフ帝国語を身に付けられればいいんだけど)
片方だけが相手の言葉が理解できないのは交渉上大きなハンデだった。
複数の言語を習得しているクライドは、人間世界でも使用者のいる古エルフ語を使うサーシャの言葉はわかるが、セレナディアとローゼンの言葉は全く理解出来ずにいる。
一度セレナディアとローゼンに本来の言語で話をしてもらい、サーシャに古エルフ語で通訳してもらったが、モフモフ帝国語の習得は三分で諦めてしまっていた。
残念ながら彼は、
「わんわん」
「キューキュー!」
「わぅわぅ、わぉーん」
という会話(?)を言語という枠に入れられるほどには人間を辞めて無かったのである。
(ローゼンさんとセレナディアさん……鳴き声が全く違うのに、言葉が通じてしまっている。リグルア帝国語を使っていても三人ともに通じているみたいだし……むしろ、ハーフエルフのサーシャはどうやって理解しているんだ?)
サーシャはサーシャでずっと古エルフ語を使っており、それは二人に通じている。
そこで、クライドも古エルフ語で会話しようと試みてみたが、言葉が通じたのはサーシャにだけだった。
(全く訳がわからない。どういう理屈なんだか)
サーシャにはそれまで使っていたクライドのリグルア帝国語はあまり伝わっていなかったらしく、古エルフ語を使うと驚いた様子で口を開け、それまでの敵意を忘れ去ったかのような興奮した様子で彼に詰め寄り、色々と話をするようになった。
この時はクライドもおそらく若いだけあって未知への好奇心は強いからだろうという程度に考えていたが……。
「おい、クライド。どうして道のことなんか気になるんだ?」
とにかく言葉が通じるという事を切欠に彼女の警戒心は和らぎ、すぐに質問し易いように、ひっつくくらいに隣を歩くようになっていた。
そんな彼女は興味が無さそうな無表情を作りながら、瞳だけを好奇心できらきら輝かせ、不思議そうにクライドを見上げる。
「軍の補給だけじゃない。道は国の発展の為には必要不可欠だからね。これだけ立派な道があればたくさんの物が動かせるし、そうなればその物を求めて人……ここだと魔物が集まるから街は発展していく」
「なるほど。じゃあ陛下もそんな風にお考えなのか。お前頭いいな!」
外見は整い過ぎているせいで怜悧な印象を受けるが、頬を赤くし素直な驚きを顔に出してしまうところはまだまだ年相応の少女といった感じで、可愛らしいとクライドは微笑みながら思う。
「有難うございます。私はそれを考えるのが仕事ですから。優秀な戦士である貴女が優れた剣の使い手であることと同じです」
ただ、恭しく頭を下げるクライドのお世辞に「ふふん」と当然とばかりに胸を張って無邪気に喜んでいるこの少女が、優秀な戦士であることは間違いない。
クライドには視認すら出来なかった剣技もそうだが、彼の胸辺りまでしか背丈のなく、体付きも貧弱で、か弱くさえ見える彼女にはローゼンが入った大きな籠を背負い、何時間も平気な顔で歩ける体力があるからだ。
どちらかと言えば人間よりも非力とされるハーフエルフの12歳とはとても思えない。
(だからこそ、コボルト族の重要人物らしいセレナディアの護衛を任されているのだろうが……)
何故人の領域の住人であるハーフエルフの……しかも、幼い娘が、コボルト族に協力しているのかは不思議ではあったが、直接聞くことはクライドには出来なかった。
ハーフは人間からもエルフからも爪弾きにされる為、あまり愉快な推測ができなかったからだ。だが、それにしてはありがちな卑屈さを感じない。
クライドにとってはサーシャもある意味で不可解な存在だった。
「ところで、この道は何処まで続いているのでしょうか」
「えっと……北は巨竜ガルブン様が治めるガルブン山地、南はエルキー族領、西は底無しの湖沼までですね。途中の嘆きの林や底無しの湖沼はまだ設置しているところですが、死の森ならこの道を使ってどこでもいけます」
「補足するなら西の終点は、我が故郷である底無しの湖沼北部のモフモフ帝国軍前線基地、レイクガード要塞だ。ここからだと道を使って早くて十日と言ったところか」
他にもクライドは確認したい情報をセレナディアに質問していく。そして足らない部分やセレナディアが説明に困るときにはローゼンが助け舟を出してくれていた。
「我は皇帝陛下に直接セレナディア殿の補佐を頼まれたからな」
ニヒルに笑う見た目はぬいぐるみのようなローゼンだが非常に知的な魔物であり、通訳としては非常に優秀である。一方、サーシャの方は彼等の護衛にとセレナディアの上司が強制的に付けたとのことだった。
(嘆きの林や底無しの湖沼は聞いた事がないけど……北のガルブン山地って……魔竜が住んでいると噂のあの山か。ここからだと数日は掛かるかな。ということは……)
クライドは道を歩きながら、頭の中で地図を思い浮かべる。
道が敷かれている以上、掛かる日数がわかればおよその国の広さを計算することはそれほど難しいことではない。
(数多く存在する魔王はみんな規格外な訳か)
魔物達の領域が全体でどれ程の広さなのかは人間界には伝わってはいないが、人間の国に当てはめるとまだ小国と言ったところ。
しかし、たった一人の魔物が創ったというこの常識外れの街道を見るだけでも、この国の先行きがどうなるかの予測は難しいだろう。
魔王というものはそれだけ出鱈目な存在なのだ。
「この道に危険な魔獣とかは出ないのかな?」
「魔獣は皇帝陛下の魔力を恐れますから。被害が出たら戦士達が狩りますし……」
クライドがこんな余計な考え事が出来ているのは、思いの外、楽な旅になっていたからだった。道を歩いているだけなら長閑な遊歩道と変わりないのである。
もしも、道が敷かれていなければ左右に広がる樹海の中を死ぬ気で歩かねばならなかっただろうが……。
元々旅そのものに慣れていないため背負袋を担いでいる肩は早くも痛んでいたが、死の恐怖は幾分和らぎ、多少は心に余裕も出来てきていた。
「魔獣が怖いのか? ふん。人間は臆病なんだな」
「わんっ! うぅ……がるる!」
「う……申し訳ありません……その通りです」
「構いません。私が臆病なのは事実ですから」
「そんなことは……絶対に無いです!」
たまにさらりと毒舌を振るうサーシャと顔を真っ赤にして慌ててフォローするセレナディア。
種族は違うが同年代に見えるセレナディアとサーシャのまるで姉妹のようなやり取りに、クライドは元気だった妹を思い出し、穏やかな気持ちになって微笑む。
「仕方がないからクライドも護ってやる。ついでだぞ」
「ははは。頼りにしています」
「わん……くぅーん……」
怒られる度にしゅんとしているサーシャも懲りないものだとは思うが、彼女には悪気は無いのだ。だから、後で不貞腐れながらもこんな風に言ってくれる。
恐らくは思ったことを素直に言っているだけ。歳相応の子供ということだ。そう考えれば腹も立たない。
わかりやすくてクライドとしては頭を撫でたいくらいである。
「もう少しでパイルパーチに着きます」
「死の森東部で一番大きい街……でしたかね」
「はい。すごく賑やかなんですよ」
そんな風に道中、雑談をしたりセレナディアやローゼンのリグルア帝国語の練習のために”しりとり”をしながらクライド達は歩き続け、日が傾き始める頃には最初の目的地である魔物達の国……モフモフ帝国の東部の街、パイルパーチに辿りついていた。
まずは一週間、クライドはこの街でモフモフ帝国に慣れることになる。
「でも、もう少し一緒に……お話したかったですね」
「案内ありがとうございます。機会があれば、いずれ」
艶やかな黒髪からひょっこりと出ている耳をピンと立て、尻尾をゆっくり振りながら、輝くような笑顔を無邪気に見せているセレナディアに、クライドは本心からそう返した。
「ところでこれから会うセレナディアさんの上司はどんな方なのですか?」
「シルキー様は多くの功績を上げたモフモフ帝国の英雄で、とても聡明で美しい方です。あ、でも旦那様はいますからね?」
「リグルア帝国風だと……そうだな。妖艶な魔性の美女……というところか?」
いたすらっぽくセレナディアは笑い、籠の中のローゼンはうんうんと神妙な表情で頷く。
サーシャだけは口をもごもごして何か言いたげにしていたが、クライドが視線を向けると、少しだけ考えてから、困ったような表情でこくりと頷いた。
(魔物の美女か……どんな魔物なのか少し楽しみだなぁ)
クライドも若い男であり、女性に対する興味がまるで無い訳ではない。
セレナディアやサーシャは見た目が幼すぎるので、立場上子どもの世話を良くしていたクライドには保護者的な気持ちが湧いていたが、僅かながらも十年後に会いたかったな……くらいには考えていたのである。
彼はこれから出会うことになる『魔性の美女』に優しげな美少女であるセレナディアの成長した姿を思い浮かべながら、パイルパーチの門へと歩いて行った。