プロローグ こうして青年は眼を付けられた
私が摂政、アルザス・フォーンベルグ公爵から役目を命じられた時、我が一族が些か厄介な状況に在ったことから、適当な理由を付けて粛清する気なのだと思っていた。
しかし、実際は違った。粛清の方が余程楽ではないかと思える程、苦難に満ちた役割を私は与えられたのである。
それは人類の歴史上、間違いなく誰も体験したことがないであろうとんでもない任務であり、どう考えても狂気の沙汰としか思えないものであった。
────クライド・アルーム・ケルヴィン著 モフモフ帝国見聞録より
雄大な自然と無数の国家を擁する広大なエルフォリア大陸は、東西で大きく二分されている。
東には人間やそれに協力する種族が治める領域。
そして、西には魔物達とそれに協力する種族が治める領域。
相容れないこの二つの領域の狭間では無数の争いが行われてきた。
西に魔王が現れれば東には勇者が現れ、諸国が団結してこれにあたり、魔王が倒れれば勇者も消えて、再び人間同士が相争う。
無限に続く螺旋のように、幾度となく繰り返された対立の歴史だ。
二つの領域は決して交わることはなく、お互いを永久の敵として認識しており、それは未来永劫変わらない……はずだった。
「楽しそうですね」
金色の髪の美しい女性が、そう笑って白磁のカップに口を付ける。
動きに無駄の無い優雅な仕草。
彼女を知らぬ者でもその気品から、高位の貴族であることは察することが出来ただろう。同時に貴族の女性らしからぬ覇気と妖艶さに困惑したかもしれない。
執務の為の机と書類棚しか置かれていない簡素な部屋には凡そ似合わない、豪奢なドレスを着こなしている彼女は、執務室の主である男の対面の椅子に座っている。
「そう見えますか。フォルニア陛下」
「ええ……嫉妬しそうな程に」
彼女を『陛下』と呼んだ秀麗な男は恭しい口調とは裏腹に、女性には目もくれずに横を向いて長い足を組み、一枚の手紙に何度も目を通して薄く笑っている。
普通の国であれば不敬であると断罪されても文句は言えない。
しかし、陛下と呼ばれた女性の方には、それを気にしている様子は微塵も無かった。
それもそのはず。
魔王領と接する西の大国、リグルア帝国において、男は皇帝である女性と対等の立場にあったからだ。政治的にも、男と女としても。
「これは面白い手紙ですよ。我が国の命運を分けるくらいには」
男は手紙を丁寧に折り、封筒にしまうと女性の前に置く。
しかし、彼女は手紙には触れなかった。
その理由を男は察し、苦笑いする。
そうした気遣いが自然に出来るからこそ、多くの貴族から陰で『死神』と称され、畏れられているこの男も、形式上でも彼女に従っているのだ。
最もリグルア帝国初の女帝である彼女もまた、貴族達からは『悪魔』と忌み嫌われている。歴史と秩序の破壊者、紅蓮の女帝、復讐者、快楽殺人者……。
男とは思えぬ美貌を持つ英雄。平民から公爵まで上り詰めた立志伝中の人物である『フォーンベルグ傭兵団団長』、現在は摂政として国を動かす立場にあるアルザス・フォーンベルグ公爵。
女性であり、下位の継承権しか持たなかったにも関わらず、皇帝の座を実力で奪った女傑、フォルニア・マリーザ・リグルア。
この一組の男女は全ての悪名を嗜虐的な笑みを浮かべながら受け入れ、楽しんでいる。
「アルザス様。お義姉様は何と?」
「交易の拡大の依頼、それと粋の良い教師が欲しいと」
普通であれば何でもない依頼である。
大国であるリグルア帝国であれば尚更。例え長く続いた内戦で疲弊しているとしても、その程度の援助は誤差と言っていい影響であるはずだった。
依頼者が皇帝であるフォルニアが口にした『お義姉様』でなければ。
「ふふっ……なるほど、確かに国家の命運に関わりますね。でも、無造作にそんなことを頼むのところが本当にお義姉様らしい」
「政治家には向いていないからな。あの愚妹は。脳まで筋肉な愚弟と同じだ」
氷のような横顔に、僅かに暖かいものが混ざる。
フォルニアは家族にしか見せない彼のその表情が好きだった。そして、それを失わないためにも彼女の答えは初めから決まっている。
「断るおつもりは無いのでしょう?」
「当然だ。愚妹には兄の偉大さを示さねばならん」
「人選は決まっているのですか?」
事が事だけに簡単な人選ではない。
だが、アルザスは愉快そうに微笑を浮かべている。
「以前、愚妹が面白い貴族がいたと言っていてな。そいつを使う」
「どのような方なのですか?」
「出来のいい義弟に俺への嫌がらせを吹き込んだ奴だ。そいつは人質だった貴族の子弟を逃がした後、自身は妹が他の場所に捕まっているからと逃げるのを拒否したらしい。後で調べれば、そいつは首都陥落の際、ほぼ自力で妹を救出している」
フォルニアは白磁のカップをテーブルに置き、静かに目を閉じた。
アルザス・フォーンベルグは冷血な人間である。
彼を良く知る者はそれを否定しない。彼を愛するフォルニアすらもそれを認めている。
ただ、彼……いや、『彼等』にとって特別な者も存在している。
それは仲間。身内と言い換えても良い。
狂気とも思える程に、彼らは仲間を大切にする。
国を文字通り滅ぼすくらいに。
「なるほど……貴方が気に入りそうな方ですね」
「フォーンベルグ傭兵団に叩き込みたいくらいだな。立場的にも今回の役割には適任だ」
だからこそ、彼は気に入ったのだろうとフォルニアは察している。
ただ、それが目の前のテーブルに置かれた一通の手紙の人選に繋がったと考えると、不幸にも、と頭に付けるのが正しいのだろうとは冷静に考えていた。
「その者の名は?」
最も、止める気は全く無かったが。
「クライド・アルーム・ケルヴィン」
「ケルヴィン伯爵家の……」
「そうだ」
美貌の青年は悪魔のような笑みを浮かべながら頷く。
他人の不幸が楽しくて仕方がない。そんな愉悦に満ちた笑み。
「嫌がらせを受けた可哀想な私は、仕返しにサプライズプレゼントを贈ろうと思った訳だ」
「ふふっ……喜んで下さると良いですね」
「きっと泣いて喜ぶだろう」
アルザスはそう言って嗤うと、己に用意されていた白磁のカップをフォルニアに向けて掲げた。
国の命運に関わる重大な使命を与えられた青年が浮かべる悲愴な表情を、もうすぐ始まる喜劇を想像しながら。