第十話 生き延びるための準備
生き残る。ただそれだけの事が異常に難しい。
『食』というものは、元来クライドにとっては楽しむものであった。
だが、そんな常識は目の前の料理(?)にあっさりと破壊され、残った事実はこの楽しむべきものであるはずの『食』が、生を維持する目的のためだけの恐るべき苦行であるということである。
採取した草は毒ではないかと思うほどに不味いし、ネズミの肉や蛇の肉は元々高位の貴族であるクライドが食べるにはあまりにも敷居が高過ぎた。
しかし、食べなくては死あるのみ。
クライドは大きな葉っぱの上に置かれた料理を震える手で掴んでは、思い切って口に入れていた。
「便利だなーお前の魔法。俺のコップにも入れてくれよ。これすげー美味いんだけど喉渇くんだ」
先に食事を終え、クライドの保存食に紛れていたクッキーを笑顔でかじりながら本気で感心している様子のサーシャに、何も返せずにクライドはぐったりと俯く。
魔術を学んでいて良かったと彼がこの日以上に思ったことはない。
吐きそうになるのを魔法で生み出した水で何とか飲み下す事ができたからだ。
しかし、命懸けの狩りを体験していなければ、無理矢理飲み込むことすら出来なかったであろう。彼は粗食に慣れた軍人ですらないのだから。
どれだけ不味くとも、死を乗り越えて手に入れた食料だからこそ無駄にせずに済んだのである。
「ごほっ! そ、それはいいとして……だな」
「なんだ? 顔赤いぞ? てかこっち向いて言えよ」
ただ、深刻なはずの食事の問題が彼の中で致命的なものにならなかったのは、他の様々な問題によって相対的に小さなものになっていたからかもしれない。
「やっぱりズボンも履いてくれないか?」
「はぁ?」
クライドがサーシャから視線を外していたのも無理はない。
彼女は狩りで身に付けていた鎧を全て外し、白いシャツ一枚の格好になっていたからだ。毛皮の敷物に座っている彼女は裸よりはマシといった薄着のその姿で、照れる様子もなく無邪気な笑顔を浮かべてあぐらを掻いている。
(文化の違いなのか……何とか説得するしかないな)
十代前半であり、彼女はクライドにとっては性的な対象となるものではなかったが、整った容姿の少女が育ち始めた健康的な肌を惜しげもなく晒しているのは、女性の裸を殆ど見たことがないクライドには些か刺激が強かった。
「人間の世界では女の子は肌をあまりみせないものなんだ」
「えー。こちらじゃ友達同士は身体の拭きっこするんだけどなあ。背中とか」
「……悪いけど少しずつ馴染ませて欲しい」
「しょうがないなぁ」
完全には納得していない様子でサーシャは唇を尖らせている。
初めはシャツすら脱ぎ捨てて全裸だったことを思えば、妥協してくれているのかもしれないとクライドは思い……その裸の姿まで思い出して思わず頭を振った。
(彼女は妹。妹だと思うんだ。妹だと思えば大丈夫)
彼も若い男であり、性的な問題から逃れる事は出来ない。
彼女と同居を続けるのであれば、真剣に考える必要もある。外交官としての役割がクライドだけで終わるのでないならば、後々に問題となるだろうからだ。
「そういやさ。クライドはクッキー……だっけ? 食べないのか?」
「全部食べていいよ。そういう気分じゃないんだ」
ズボンを履くと返事はしたが立ち上がる様子もなく、幸せそうな表情でクッキーをぽりぽり齧っているサーシャがクライドの返答に不思議そうに首を傾げる。
「そういや、お前……これを見つけた時、一瞬怖い顔をしてたな。何かあるのか?」
「そうだね……」
クッキーは渡された保存食に混じってかわいらしい刺繍の入った上質な布袋に入れられていた。
筋肉質な禿頭の近衛騎士がそれを用意したとは思えない。
ならば、誰がそれを忍ばせたのか。
推測は出来る。その推測が当たっていたならば。
目に見える事柄の裏側で、恐ろしく周到な準備が行われていたことになる。
それこそ十年単位で。
(勝てないわけだ。だけど不思議と怒りは無い。利用されたはずなのに)
歴史には記されない内戦の真実がこのクッキーから見え隠れしている。
十年以上に渡る陰の戦いの記録が。
ただ、それは最早終わったことであり、大勢に影響がないからこそ差し入れも認められたのであろう。今のクライドとしても関係の無いことでもあった。
「相手は何枚も上手。僕はまだまだ……と言ったところかな?」
「なんだそれ」
苦笑するクライドに、サーシャはクッキーを齧る手を止めて、ぽかんとしていた。
もふもふ帝国の朝は日の出と共に始まる。
森の中には光が殆ど差し込まないが、集落の周囲だけは森が切り開かれていて、様々な魔物の営みを明るく照らしていた。
一日を無事に生き延びた事を太陽に感謝しつつ目を覚ましたクライドは、まだ気持ちよさそうに眠っているローゼンを放置し、先に起きていたサーシャに井戸の場所を教えてもらう。
目を醒ます為に冷水を頭から浴びると反射的に背筋が伸び、朝日で僅かに暖められた風を感じられて、クライドは生を実感することが出来ていた。
「よしっ!」
太陽の方角を向き、今日も一日生き延びる決心を固めていたクライドの前に現れたのは、見慣れてきた命の恩人である犬耳の少女だった。
「あ、おはよう! セレナディア様!」
ブンブンと手を振り、今日の天気と同じように一片の曇りもない元気な笑みを浮かべているサーシャとは違い、僅かに下を向き愁いを帯びている様子の彼女に、クライドは内心首を傾げながらも取り敢えず挨拶をする。
「おはようございます。セレナディアさん」
「おはようございます……クライド様」
表面上は表情を変えず、穏やかな笑みを浮かべるクライドに、セレナディアは耳をぺたんと寝かし、尻尾を丸めて彼女は頭を下げた。
「申し訳ありません。補給班に食料の配布を優先的に命じていたのですが、サーシャ達がクライド様の分を取りに来なかったようで……」
「なるほど……いえ、私の分はサーシャが準備してくれました。それに彼女の対応は私にとっては有難いものでしたし、問題はありませんでしたよ?」
「え、そうなんですか?」
パッと可愛らしい顔を上げ、セレナディアは力を抜いて息を吐く。
これがリグルア帝国であったなら大問題となっただろうが、客人……しかも、人間を外部から迎えるなど初めてであるはずのもふもふ帝国であれば、仕方がない失敗だろうとクライドは呑気に考えていた。
「私はこれから教師となります。それも二年もの間です。その間は私もまた、もふもふ帝国の一住民なのです。だから、皆と同じ条件で構いません」
クライドは濡れた頭をそのままに、朗らかに笑う。
むしろこれを失敗として取られ、サーシャを更迭される方が痛手である。
彼女の力の秘密を知り、例え一人となってもこの過酷な森で生きられるようになれば、僅かにでも生存の確率は増すに違いないのだから。
今のままでは生殺与奪は自由自在。命を握られているようなものだ。
内心を隠したクライドの答えにセレナディアは一瞬驚いていたが、すぐになるほどと頷く。
「ごめんなさい、クライド様を見くびっていたみたいです」
「いや、まだ助けが無ければ無理なので口だけですよ」
「それでもです。きっとクライド様は素晴らしい教師になられます!」
無邪気に感激しているセレナディアにクライドは僅かに罪悪感を感じつつ、苦笑いしながら丸眼鏡を軽く押さえた。
「そうなれるよう努力します」
「はい。私も絶対にお手伝いしますから。狩りの時も誘って下さい」
「セレナディア様も心配性だなぁ。クライドは『友達』の俺が面倒見てやるから大丈夫……あ~……」
軽い調子で口を挟んだサーシャに、セレナディアが温和な笑みを静かに向けると、自信満々の口調が徐々に尻すぼみになっていく。野性味溢れた傍若無人なハーフエルフだが、彼女には弱いらしいとクライドは心の中で笑った。
「あ、そうそう。そうでした。先日のローヴェル様からの私信の件なのですが……」
無言でサーシャを威圧していたセレナディアだったが、本来の目的を思い出したのか、数枚の紙を取り出す。
クライドに私信を託したもふもふ帝国の皇妃、クレリアのもう一人の兄であるローヴェル・フォーンベルグは摂政を務める腹黒そうなアルザスとは違い、底抜けに明るい武人肌の男である。
手紙を書くのも得意では無かったのか手紙に大きく書かれている宛先の筆跡も非常に荒々しいものではあったが、それでも丁寧に書こうとしていることが窺えるあたり、相手への好意とローヴェルの人柄が表れていた。
「お手数お掛けします。名前だけしかわからないのですが、何かわかりましたか?」
「はい。皆様勇名を馳せた方ばかりだったので私でも全員知っています。全員ご存命ではあるのですが……」
「何か問題でも?」
「半数の方が今も最前線で戦っておられるのです」
「直接お渡しすることは難しそうですね」
クライドは唸りながら声を絞り出す。
集落が整備されているこの近辺でもサーシャがいなければ遭難しそうな状況の今、道すら整備されていないであろう最前線まで出掛けて生きて帰れるとは彼も思わなかった。
悩む彼にセレナディアは明るい笑みを浮かべて、指を二本立てる。
「それでですね。パイルパーチを含むこの東部には二名の方がおられます」
「幸先がいいですね。早速お会いしたいのですが……どんな方なのですか?」
「パイルパーチにいらっしゃるのはモフモフ帝国軍剣術総師範カナフグ様です。そして、ここから西、ラルフエルド近郊には『剣聖』キジハタ様がいらっしゃいます。ただ、キジハタ様に会うにはカナフグ様の許しが必要です」
「それではまず、カナフグ様に手紙を渡し、事情を説明しましょう」
事前に読み込んでいた『モフモフ帝国建国紀』の内容をクライドは思い出す。
どちらもその中で出てきたゴブリン族の勇者だった。この街に入るときに見掛けたゴブリン達も相当な戦士に見えたが、恐らくは別格なのだろうとクライドは思う。
「え、カナフグ様に会うのかっ! いいなぁ~クライド」
「サーシャも一緒に来てくれよ。寝ているローゼンも。通訳が要るから」
「まじかっ! 行く行くっ! 絶対行く!」
サーシャからすれば尊敬出来る相手であるのか、彼女は嬉しそうな声を上げ、それを見ているセレナディアが溜息を吐いていた。
「わかりました。準備しますね。サーシャ、貴女は失礼をしないように。それからシャツだけで外に出ないで上着を着なさい。クライド様もおられるのですよ」
「わ、わかってますって」
にへらっとサーシャは笑ってセレナディアに手を振る。
(上司と部下と言うよりは、苦労性の姉と生意気な妹みたいだなぁ)
キッとサーシャを一睨みしてから一礼して去って行くセレナディアの背中を見ながらそんな風に考えてクライドは苦笑する。
「じゃあ、時間もあるし……クライド、昨日話した技の練習をしながら昼飯を狩りに行くか」
「まだ、何も教えてもらっていないんだけど……」
「狩りをしながら教えてやるよ。どんな状況でも使えなきゃ意味無いんだ。俺もそうやって覚えたんだからな。それともやっぱり止めとくか?」
挑戦的な笑みを浮かべるサーシャにクライドはやれやれと肩を竦める。
学生時代を彷彿とさせるような子どもの挑発に乗る年齢でも性格でも無いが、生き延びるための手段を得るためにも止めるわけにはいかない。
「まさか。すぐ身に付けて見せるさ」
「そうこなくっちゃな」
身体を動かすのは苦手でも、『技』が魔力を扱うものなら覚えられる可能性は高い。そうした冷静な分析は怠ってはいないが、クライドは自信のある笑みに本音を込めて、サーシャにそう返していた。




