第八話 遠い未来と近い現実
会談が終わり、与えられたパイルパーチでの居宅に荷物を運び終えると、クライドは部屋に用意されていたベッドに腰を掛け、初めて脱力して大きく息を吐いた。
緊張を解き、どこにでもいそうな気弱な青年のように力無くうなだれる。
「あーもう、疲れたぁ……あ……」
だが、すぐにローゼンからの呆れるような視線に気付いて慌てて立ち直り、ぼさぼさの髪を掻き混ぜてからメガネの位置と服装を整え、姿勢を直した。
しかし、運び込んだ荷物を片付けていたサーシャは、その手を止めて悪戯好きの少年のような笑みを浮かべてクライドに近付くと、背中をバシバシ叩く。
「くふふっ! さっきまでのすげえでかい態度が嘘みたいだなぁ」
「いや、あんなおっかないのがいるとは思わなくてね……怖い魔物はたくさん想像していたんだけれど、あんなのはちょっと……」
「あーシルキー様はなぁ……アレな方だからなぁ……コボルトらしくないし」
うんうんと納得したように真顔でサーシャは頷く。
その反応からあれはコボルト族の普通ではなかったのだと、クライドは安堵の息を吐いた。
(しかし、冷たく見えるのは見た目だけ……か。黙っていれば綺麗な銀色の髪の美人さんなのに、中身はヤンチャな少年みたいだなあ。うちの領地や皇都でも下町とかならこんな娘もいるのかね?)
本気で言っているらしく、むむむと唸っているサーシャを見て、クライドは苦笑いしながら左手で頭を掻く。
貴族ばかりの中で暮らしてきたクライドにとって、サーシャのような接し方はあまり馴染みのないものだ。
相手を一切警戒せず、裏も考えていない。
単純と言えばそうだろうが、逆に隙が多すぎてクライドは戸惑ってしまう。話したことのないタイプなだけに、理解出来ないのである。
ただ彼女の仕草や笑顔が下品だとは彼は思わなかった。
それは悪意が無いこともあるが、此方まで明るくしてしまう溢れるような生気や、貴族にも滅多にいない程整った容貌のせいもあるだろう。
手入れの行き届いた美しい銀色の髪に魔物の森で暮らしているとは思えないほど白い肌。
子どもと大人の間くらいの少女でありながら、冷徹にすら見える超一流の細工士が心血を注ぎ、魂を込めた精巧な人形のような美貌。
それでいて浮かべる少女らしい人懐こい笑み。
サーシャは掛け値の無い美少女だと言って良かった。
(美人は何しても様になるからなぁ。うん)
無駄に美男美女ばかりだった大学での人質生活を思い出し、やれやれ、美形というのは本当に得だな……と、並の容姿しか持たないクライドは改めて思い直していた。
「それはそうと、君は僕と一緒なのは嫌じゃないのかな?」
「クライドとはこれから長い付き合いになるんだ。それでいいだろ。俺は今みたいな情けない方が真面目ぶった態度よりも好きだぜ?」
会談中のサーシャからは不貞腐れた子どものような不満がありありと顔に出ていたのだが、今の彼女からはそんな様子は微塵も感じられない。
クライドはそんな屈託ない笑顔を浮かべているサーシャに疑問を投げかけたが、彼女は少しだけ首を傾げて考える素振りを見せた後、小さく頷いた。
「あのシルキー様にあそこまでやり合えるんだ。お前、意外と凄いんだろ。何だか面白そうだし……それに、思ったより嫌な奴じゃなさそうだしなぁ。その……初めに会った時、剣を向けてわ、悪かったな」
そう付け足してサーシャは少し照れたようにそっぽを向きながら、人差し指で少しだけ朱色に染まった頬をさする。
言葉に本当に嘘がない。
クライドは不思議と僅かな敗北感を覚えながらも頷く。
嫌な気分では無かったが。
「謝罪は受け取ったよ。僕はもう気にしていない。君とは仲良くしたいしね。友人になりたいと思っている」
「ゆ、友人っ!? あ…………そっか。ありがとな。えと、じゃ……じゃあクライドはこれからは友達だな!」
本心からクライドが笑って頷くと、サーシャも一瞬驚いたように声を上げ、何度もどもった後は邪気のない満面の笑みを浮かべていた。
和解を終えると再びクライド達は荷物を整理する。
とは言え、初めに持ち込んだ荷物はそれほど多くはない。
これはクライドが実際に魔物の国を見なければ、何が必要なのかすらわからなかったためで、現地で用意できるものは用意し、無理なものはリグルア帝国から取り寄せることになる。
「コボルト族は器用な種族。大抵の物は彼らに頼めば作ってくれるだろう」
相談を受けたローゼンは生真面目な口調でそう答えたが、クライドとしては悩ましい。
コボルト族の技術を疑ったわけではない。建築技術や彼らが身に付けている衣服だけを見ても、彼等の技術の高さが伺えたからだ。
(人間の技術は何処まで伝えて良いのだろうか……)
むむ~……と腕を組みながらクライドは考え込む。
どう考えても学生上がりにさせる判断じゃないだろ。とか内心でぼやきつつも、貴族としての責任感が彼に場当たり的な即断を許さない。
(軍事技術以外なら問題は少ないか?)
隣国に力を持たせるのは国防上よろしくないのだ。
それが例え友好国だとしても。
(生活に必要な物は頼もう。後はゆっくり考えればいい)
当然状況にも依るのだが、現在はそれを判断する術が殆ど無い。
生き残りさえすればその辺りの判断材料も集まるだろう……と、クライドは考えて溜息を吐いた。そんな疲れた様子のクライドに、サーシャは困惑したように声を掛ける。
「おいおい、何をそんな悩んでるんだよ」
「いや、大したことじゃないんだ。で、サーシャは何をしているんだ?」
「クライド……お前こそ何言っているんだ。ローゼン! お前も小難しい話をする前にしなきゃいけないことがあるだろ」
荷物が片付いても革鎧を脱がないどころか弓と小剣を身に付け直したサーシャが、首を傾げるペンギンを軽く睨み付ける。
「クライドは魚の干物食ってりゃ何とかなるお前らと違うんだ。種族に合った食事をしないとこいつが死んじまうぞ! 水だって気をつけないといけないんだ」
「食事……水……あ……」
はっ! とクライドはそこで初めて思い出した。
野営は確かに経験した。だが、あれは護衛の近衛騎士が携帯食を用意してくれていたのだ。
ここではそんな物は一切無い。
主食となるパンも……いや小麦がそもそも全く栽培されていないだろう。
では食べ物はどうするのか。クライドは全く考えていなかった。
食料の生産体制がどうなっているのかなど知らないし、そもそもそれが食べられるのかもわからない。魔物にとっては良くても人間には毒という事も有り得ないことではない。
第一彼は料理をしたことがない。
貴族である彼にとって、食事とは誰かが作ってくれるものだったのだ。だが、この森ではどうか。
「むう……そうなのか? 魚だけで良いではないか」
「少なくともお師匠様はそう教えて下さった。だから、私は生きていられるんだ」
困惑するローゼンに、サーシャは自信ありげに胸を張る。
十代前半の小さな身体でありながら、過酷な死の森でたくましく生き抜いている少女の言葉には説得力があった。
(遠い未来よりも今日の生活か。本当に信頼関係を作らないとなぁ……まさか、こんな小さな娘が僕の命を文字通り握っているとは……)
同時にクライドは戦慄と共に自覚する。
彼女こそ、本当の意味で自分の生命線なのだと。
彼女の気分を損なえば、待つのは死あるのみ。
「じゃあ、僕は君に教えを請いたいな」
だから、クライドは素直に頭を下げる。
例え相手が遥か年下の、野生児のようなハーフエルフの子どもでも関係ない。
貴族としてのプライドが無いのだと元婚約者には散々言われ続けてきたのだが、彼自身はへりくだる事を恥だとは思ってはいなかった。
そんなクライドの態度に、サーシャは不思議そうに首を傾げる。
「ん……お前は教師をしに来たんじゃないのか?」
「僕は森で暮らした事が無い。だけど、君にはこの森で生き残れるだけの知識がある。僕はそれを学びたいから、教えてくれるなら君を師匠と呼ばせてもらうよ」
最終的に目的が果たせればいいのだ。
今回の目的は生き延びること。
その為に有効な手段ならば、迷わずに打つ。
「師匠……師匠かぁ……」
サーシャは深く考え込んでいる様子だった。
俯いてぽつりぽつりと呟いている。
揺らいでいると見たクライドは更に続けた。
「サーシャ師匠」
その言葉にサーシャはまじまじとクライドを見る。
徐々に彼女の雪のように白い肌が、朱色に染まって行くのがクライドにははっきりとわかった。顔を隠そうと俯いているが、言った自分が恥ずかしくなるくらい、嬉しそうにニヤケているのも。
こういうところは見た目の年齢相応だなぁとクライドは内心で微笑ましく思っていた。
「ば、馬鹿っ! 止めろ。恥ずかしいだろっ! サーシャでいいって! 私だってお前に教えてもらいたいことが沢山あるんだ。お互い様なんだからよ!」
「なるほど…………じゃあ、僕達は対等ということでいいかな?」
「え? うん? ああ。そうだなっ」
隣でローゼンが溜息を吐くのを察しつつ、ぶんぶんと慌てた様に腕をふってているサーシャを見詰めながらクライドは笑みを浮かべる。
誰にどう思われようが構わない。
お互い気持ちよく協力できれば最善なのだから。
「まず、僕はどうすればいい?」
「んーそんな生地の良いローブだとボロボロになってしまうし、まずは動きやすい服を借りようぜ。暑いけど長袖じゃないとダメだぞ。私達は体毛が無いから毒虫が……あ、クライド。弓は使えるか?」
「子どもの頃以来使っていないけど……大丈夫。的には当てられると思う」
「お、自信満々だな。ま、無理でも私に任せとけばいいさ。お前の食い扶持くらい獲ってやるよ。なんてったって私はクライドの友達だからな」
太陽のような笑みを浮かべるサーシャに感謝と多少の罪悪感を覚えつつ、クライドも彼女に習って準備を始める。
この時、クライドは死の森にいる今の状況を楽観視するようになっていた。何とでも生きていけると軽く考えていたのである。
だが、彼はまだ何も知らない。
人間にとって魔物の領域というものが、どれ程恐ろしいのかを。