朱色の悪夢 記載されない記録
言葉が通じるからと言って心が通じるとは必ずしも限らない。
言葉が通じないからといって心が通じないとは必ずしも限らない。
────クライド・アルーム・ケルヴィン著 モフモフ帝国見聞録より
現実の光景なのかと、学生服を着た丸メガネの少年は呆然と立ち尽くしていた。
確かに籠城戦が始まるとは聞いていた。一昨日から戒厳令が敷かれ、学校の授業も休校となっている。それでも、不安は抱えてはいても、ついさっきまでは大商人出身の親友と普段通りに話をしていたのだ。
それなのに……。
有り得ない。そう常識が目の前の存在を否定する。心が動かない。
「え……?」
唐突に現れたのは圧倒的な存在感を持つ子ども達だった。
芸術家の手による氷の彫像のような冷徹な眼差しの、美しい茶色の髪の十代前半らしき背の低い少女。そして、彼女を支えるように立つ、同じ年頃の優しげな少年。
冷たい目つきの少女は身の丈程はありそうな巨大な剣を軽々と振り回し、倍はありそうな体格の護衛……いや、”監視者”の騎士を無造作に両断している。
彼女にとっては当然のことなのか、一寸の躊躇も逡巡もそこには無い。
断末魔の悲鳴が響き、血の色で染まっていく建物の廊下で、優しげな少年の方は眉一つ動かすことなく、穏やかな表情でその凄惨な殺戮を見守っていた。
自分よりも幼い子どもにしか見えない者達が、呆然としている丸メガネの少年が長年暮らしてきた大きな『牢獄』における日常を、圧倒的な、不条理な程の力を用いて朱に染め、破壊している。
およそ現実味が無かった。
窓から差し込む夕日と血で朱色に染まった秀麗な少女の横顔も。
底が見えない少年の穏やかさも。お揃いの犬耳帽子にデカデカと縫われた肉球マークのマントという場違いな程に能天気な二人の服装も。
平和な街で見かければ可愛らしいであろうその服が、血で染まっているために、余計に不気味になっていることも。
何より魔王領と接し、魔王の侵攻を防ぐ役割を与えられた『勇者の楯』とも呼ばれる軍事国家、リグルア帝国において最も堅牢とされる首都ディルグラス、その中でも貴族の子弟を人質として集め、最も護りを密にして警戒しているはずのリグルア帝国大学に軽々と彼らが侵入している事実も。
襲撃を受けている側の彼にとって確かなのは、人質である自身の”不自由な平和”の時が永遠に失われたということだけであった。
丸メガネの少年の名はクライド・アルーム・ケルヴィン。
祖国、リグルア帝国を十年もの長きに渡り三分……今は一つは潰された為、二分している内乱における第二皇子派の重鎮、ケルヴィン伯爵家の三男である彼は、人質として放り込まれていた帝国大学で理解しがたい命の危険に襲われていた。
血と臓物で彩られた朱い世界の中で、目の前の少女が自分に剣を向ける。
ピタリと剣をクライドの顔の前で止めると、ふざけた格好の背の低い少女は氷のような双眸で見上げ、口を開いた。
「降伏か。死か」
命に価値を認める気のない端的な問い。恐怖で口元が引き攣り、思わず後ずさる。
ごくりと唾を飲み込む音は今まで聞いたことがないくらいに大きく聞こえた。
(返答を間違えれば、僕は死ぬ……だけど)
『私』は降伏するわけにはいかない。だが、彼女の気分次第では自分はこの吐き気をもよおす、むせ返るような臭いの発生源の一分となるだろう。
不吉な死神のような声に飲まれないように、噛み合わない歯を必死に食いしばり、砕けそうになる腰に力を込めた。
多分、顔は真っ青で汗も滝のように流れているんだろうなと、他人ごとのように思いながら、それでも少女の視線からは逃げず、真っ直ぐに見つめ返す。
彼女は間違いなく美しかった。
絶対者としての美しさ。服のセンス以外は完璧で、完成された圧倒的な何か。
「魔王……」
思わず口を付いたのは古よりリグルア帝国に恐怖を与え続けている存在。
全ての人間に、平等に死を与える恐るべき魔物。
そう思えるくらい、異質な存在に彼女は見える。
それ程に彼女の存在は不自然に思えた。まず、真っ当な相手ではない。
人を殺し慣れ過ぎている。
彼女は残酷なのではない。彼女にとってはクライドは羽虫も同然なのだ。
恐らくは彼女に慈悲は存在しない。間違いなく。そう思うと彼の心の中は死への恐怖で支配された。
目指していた騎士の道を断たれた自分が新たな光明としていた学士への道など、彼女の剣は紙よりも簡単に切り捨てられるのだ。
「どちらも出来ない」
目の端が涙で滲む。クライドは豪胆からは程遠い。
どちらかといえば、彼自身臆病であると思っている。
それでも、被り慣れた貴族としての仮面をしっかりと身に付け、尚も無様に震えながら……はっきりと言い切った。
「そうか。なら、死ね」
躊躇無く横凪ぎに剣を振る。だが、少女の剣は空を斬った。
その時、初めて無表情な少女が楽しげに口の端を上げる。
クライドは剣を避けたわけではなく、返答と同時に後ろに転けていたのである。血で滑っただけとも言うが……それは、自分の生を数秒だけ伸ばすだけの行為。
床に仰向けに倒れている彼は突き付けられた剣に怯えながら、それでも逃げようと後ろに下がる。自分の手と服にべったりと付いた血を見て、歯を恐怖でカタカタ鳴らしながら。それでも。
(役割を果たすまでは死ねない!)
人によっては滑稽であり、貴族としては無様で、見苦しく思えただろう。
だけど、彼は嘘は吐いていない。諦める訳にもいかない。
ある意味で、クライドは……貴族としての『ケルヴィン伯爵の三男』には彼等のような存在が現れた時にこそ、努めなくてはならない大切な仕事があるのだから。
「僕は……いや、私は荒っぽいことは苦手なんだ。話くらい聞いてくれないか?」
必死に笑い顔を作る。上手くいっているかは自信がない。
それでも、少しでも交渉の余地があるならば……。
護るべき者達を本当の意味で護ることが出来る。
幼少の頃に引き離されざるを得なかった、尊敬する父親が怒りに震える手で頭を撫でながら残してくれた、高位の貴族としての己の役割と誇り。
ごく最近まで、何も考えずに普通の学生をしていたのに、思った以上に臆病な自分に根を張っていたらしいと心の中だけで苦笑する。
「悪いが時間がない」
だが、目の前の冷徹な女には通じなかったようだ。
クライドは無念を抱えつつも、それでも身体を少し起こして顔を上げ、行使できる中で最強の威力を持つ上級魔術の詠唱を口の中で行いつつ少女を睨みつける。
まだ諦めてないぞ。と何度も自分に言い聞かせながら。
「わぉーん! くぅーん!」
剣は振り下ろされなかった。
何時の間にか、クライドと物騒な変な服の少女の間に、別の少女が割り込んでいたからだ。いや、年頃で言うと10歳くらいだから、幼女と言うべきか。
その女の子がまるで犬が鳴くような声で叫び、物騒な剣の女を止めてくれていた。
「セレナディア。どきなさい」
彼女も仲間らしいが、あの趣味の悪い帽子は被っていない。さらさらの黒髪の間からひょっこり出ている三角な耳は伏せ、ふさふさの尻尾は毛が逆立ち、身体は震えている。
怖いのだろう。なのに、両手を広げて庇ってくれている。
気分は複雑だった。こんな小さな子に護られるなんて……と。
だけど、力強く両足で地を踏んでいる彼女の背中は何処か安心させてくれた。
「わふわふ、くーん」
「時間稼ぎに付き合う余裕はない」
「わおーん! わんわん」
「む……確かに、だが、必ずしもそうではないだろう。人は嘘を吐くのだ」
「わんわん!」
「ふぅ…………仕方がない」
力が抜けそうになるが、どうやら会話(?)は成立している……らしい。
見た目は可愛らしい女の子なのに、人の言葉は喋っていない。獣人特有の暗号言語なのだろうか。
「セレナディアに感謝するが良い。話せ。時間稼ぎと判断した場合は斬る」
ただ、クライドは人間の言葉を話していても絶対に人間を辞めていそうな怖い剣持ち少女や、この状況をニコニコ笑って眺めているお揃いの服を着た少年に比べれば、犬のような声で話す女の子の方が、何だか共感出来るし真っ当に意思疎通は出来そうな気がした。
言葉より心。
勇気のある彼女は当たり前の事を教えてくれたように思う。
「有難うございます。セレナディアさん」
「わんっ!」
可愛らしい、本当に邪気のない笑顔だった。
多分どういたしましてと言っているのだろう。クライドはそう感じ、口元を綻ばせる。そして、獣人の差別は永遠にしないと心に誓った。
とりあえず、助かったことに少し安堵するが、まだだ。本当の勝負はこれから。
明らかに学生である自分を殺そうとした剣士の少女の目的を考えれば。
クライドは息を整えると儀礼に則って頭を下げる。
口元の筋肉は緊張で固まっていたが、何とか動いてくれた。
「貴女方はフォルニア皇女派の方々ですね。私はクライド・アルーム・ケルヴィン。第二皇子派、ドライド・アルーム・ケルヴィン伯爵の三男です。父の命により、私は貴女方に協力します」
相手の素性を断定し、努めてゆっくりと話す。
汗が握り締めた手から零れたのがわかった。
「裏切り?」
「否定はしません」
クライドの父は具体的に命じた訳ではない。
ただ、こう言っただけだ。
「ただ、父は言いました。お前も戦争を終わらせる最善の道を探せ。その時に、ケルヴィン伯爵家の生存は考えるな。国家と国民を救うことが貴族としての最大の責務なのだと」
急激に力を増しつつあるフォルニア皇女派に、クライドの父が属する第二皇子派は皇都にまで追い詰められている。彼の家は地政学的な原因で第二皇子派に与してはいるが、それは自身の領民を戦火から護る為だった。他の貴族も殆どは似たようなものだ。
それを知っているからこそ、人心を掴めていない第二皇子派の中核であるホーランド公爵は、多くの貴族の人質を取っている。
そんなことはフォルニア皇女派の連中も百も承知のはず。
なのに、躊躇うことなくただの学生にしか見えない自分を斬ろうとした理由は一つ。
「人質とされている子弟が解放されれば、戦わずして皇都は解放されるでしょう。そうなれば無駄な血が流されることは無くなります」
最早、第二皇子派は降伏を必要とされない……戦後処理を考慮に入れても皆殺しにした方が後腐れが無いと思われるくらいに不利な状況にあるということだ。
少なくともフォルニア皇女派はそう考えている。そして、それは客観的な事実だろう。
恐るべき実力を持つ目の前の獣人達が此処にいる。
ならば、最早籠城など出来るはずがないのだから。門はあっさりと解放され、敵の軍は雪崩れこんでくるに違いない。
第二皇子やホーランド公爵の暗殺すら不可能ではないはずだ。
「緊急用の魔法を使って僕が動かせる限りの貴族の子弟を集め、協力させます。どうでしょうか」
確かに内乱を一秒でも早く終わらせたい思いはある。
だけど、そんなことは本当は綺麗事だ。クライドもそれは理解している。
それでも命を繋がねばならない。汚名を一身に受けて処刑されるのだとしても。
彼にはこの箱庭における伯爵家の代表としての立場がある。絶対に逃げられないのだ。だから彼はなけなしの勇気を振り絞る。
小さな社会……立場の弱い人質達の派閥の長として……親友を始めとする学友達や何も知らぬ年少の人質達、そして、自分を嫌っている形式的な婚約者の命を守るために。
安全に逃がすにはこのタイミングしかないことを、異常に慣れ、思考力が戻ったクライドは理解していた。
「ならばなぜ、貴様は降伏しない」
剣は突き付けられたまま。
汗でメガネが曇り、一度外して腕で目元を拭く。
降伏など、『殺してくれ』と言っているのと同義なのだ。
「降伏は敵にするものです。私達は無理矢理人質にされていた訳ですから、あくまで自分達の意思で逃げるんです。それに……」
第二皇子派が敗北すれば、碌なことにならないことは容易に想像できる。だから、自主的にフォルニア皇女派に乗り換える為にも降伏は出来ないのだ。
それに、クライド自身が逃げる最大の好機を逃してもしなくてはいけないこともある。
個人的なことだが。
「他の場所に妹が捕まっています。私は貴女方への協力後、混乱に紛れて救出します」
「ほう……」
この時、初めて冷徹な少女が僅かに好意的な笑みを浮かべ、剣を収めた。
そして、背後の少年の方を向き、一礼する。
どうやら、少年の方が立場が上なようだ……クライドは驚きつつも何処か納得していた。
空気が違ったからだ。
冷徹な少女の雰囲気はどちらかと言えば軍人のようなもの。しかし、少年の方は見慣れた空気を纏っている。
すなわち、統治する者のそれだった。
「気にすることはないよ……クレリア。僕達は彼等の部下じゃない」
初めて少年が口を開く。犬の鳴き声では無く、流暢な帝国語だった。
剣を持った物騒な少女はクレリアという名前らしい。
「うっかり助けてしまっても大丈夫。一方的な虐殺はセレナだけじゃなくて、お出掛けしてる他のみんなも嫌みたいだし、何よりこっちの方が愉しそうじゃないかな?」
そう朗らかに笑って少年はクライドに青い瞳を向ける。
全てを見透かしたような視線に、彼は思わず一歩引いた。穏やかで、優しい口調であるにも関わらず、クレリアと呼ばれた少女よりその言葉は重い気がしたのである。
「では、あの腹黒に宿題を残すとしましょう」
彼女は頷くと、クライドに立ち上がるように促す。
ふらつきながらも彼は何とか立ち上がることに成功したが、緊張が解けたからか、肉片が散らばる凄惨な光景に今更ながらに込み上げるような吐き気を催し、廊下の隅に嘔吐した。
そんな彼の背中に、クレリアは声を掛ける。
「貴様一人では妹の救出は困難ではないか?」
「ゴホッ! ゴホッ……それでもやるんだ。僕は兄だから……妹だけは助ける」
咳き込みながら、クライドは歳相応の口調でそれに答える。
気分は最悪だった。
ケルヴィン伯爵家は終わるかもしれない。クライド自身も汚名を被り、悪くすれば死ぬことになる。助かっても苦労をすることは間違いないし、そもそも幼少の頃に別れた妹のことは顔も殆ど覚えていない。
それでも、幼い妹だけは我が家の運命からは逃がしたい。
それはクライドが人質として過ごしてきた間、ずっと心に決めていたことだった。
つまらない意地なのかもしれないが……。
「クラムス通りから外に一本外れた路地に『銀狼亭』という酒場がある。そこでコーヒーを頼むがいい。ミルクは三杯だ。少しは役に立つだろう」
思いの外穏やかな口調に驚いて振り向くと、少年からクレリアと呼ばれた少女は微笑んでいた。そこには温かみはあっても侮蔑の色はない。
冷徹な化物とばかり思っていた事に内心で謝罪しつつ、クライドは真剣な表情で頷いた。
この事件の後、大半の貴族に離反された第二皇子派は大混乱に陥り、僅か一週間でリグルア帝国皇都ディルグラスは陥落。
第二皇子は乱戦の最中に戦死し、筆頭の貴族であったホーランド公爵はフォルニア皇女派総司令官、アルザス・フォーンベルグによって捕縛。
残余の軍は『反乱軍副司令官』ドライド・アルーム・ケルヴィン伯爵に纏められて降伏した。
こうして、十年近く続いた泥沼の内戦は終結し、リグルア帝国は極めて有能な英雄と女傑による新しい時代を迎えることになる。
同時にクライド・アルーム・ケルヴィンという一人の善良な貴族の青年にとっては、非常に厳しく、とんでもない無茶振り人生の幕開けでもあった。
後に自著において彼はこう書き残している。
背後には粛清という名の崖があり、前方には粛清と言う名の険しい山がそびえ立っていた。私が前に進んだのは、ただ崖から落ちるよりは生き延びる可能性が高かったからに過ぎない……と。
ついでに『くたばれフォーンベルグ!』と殴り書きされた小さなメモが資料に挟んであったのは、彼のこれからの数奇な人生を思えば無理も無い話だったろう。